映画『市民ケーン』
たびたび名作と紹介されるモノクロ映画の一つ『市民ケーン』のレビューです。
ある富豪の生涯を追ったストーリーを、ご紹介・解説していきます。
あらすじ
フロリダの大豪邸で、富豪の老人が亡くなった。
いくつもの新聞社やラジオ局を所有し、宮殿のような自宅・ザナドゥ城にヨーロッパで買い漁った美術品を大量に蓄積していたチャールズ・フォスター・ケーン。
彼は今わの際にスノードームを握りながら、「バラのつぼみ」と言い遺していた。
ケーンの一生を特集しつつ、最期の言葉の意味を解明しようとする記者たち。
両親や友人、妻とケーンの関わりを取材する中で次第に、思うようにいかなかった彼を取り巻く人間関係が明らかになっていく。
出会いと別れ
「バラのつぼみ」の意味を解明するため、記者たちはケーンを知る五人の人物に取材をします。
ケーンの父母は片田舎で小さな下宿屋を経営していました。
しかし、宿賃のかたにもらった金鉱の権利書が莫大な利益をもたらすことが発覚します。
ケーンの母は、ニューヨークの銀行家サッチャーに、財産の運用とともにケーンの養育も任せることを突然決めます。
そして、父の反対も、本人の反発も押し切ってケーンは両親と引き離され、ニューヨークでサッチャーに育てられます。
貪欲だったケーンは若くして新聞社を大きくし、成功を収めていきますが、やがて仕事仲間だったバーンステインやリーランドとの間には亀裂が。
最初の妻と、彼女の間にできた息子とも別れを選択することになります。
二番目の妻スーザンを迎えた後は、彼女をオペラ歌手に育て上げることに心血を注ぎます。
そしてフロリダに大豪邸を築き、 豪華絢爛な生活を送るのですが、やがてスーザンとも別れがやってくる。
前述のサッチャー、バーンステイン、リーランドに加え、ザナドゥ城での様子を見守っていた執事と、元妻スーザンが取材に応じます。
ケーンと「買う」こと
Filmarksを観ると、実は「そんなに名作か?」というコメントも見られる本作。
しかし、元買い物依存症なりかけであった私には、類稀なる名作として心の奥に突き刺さりました。笑
成功した後のケーンが「買う」行為に執着する理由が痛いほどわかります。
インクワイラー社を拡大したことも、数々の新聞社を所有したことも、達成した瞬間は喜びがあるでしょう。
でも、夢は実現した瞬間から現実になってしまいます。
艱難辛苦の末に達成した目標でも、現実にした瞬間から、新たなスタートに立たされることになるからです。
周囲の人々や世間も、最初は惜しみない賛辞を贈ってくれても、だんだんと彼を「凄くて当たり前の人」と認識するようになる。
でも根底的な「見捨てられ不安」を克服できないケーンは、折に触れ自分の実績や能力を確かめる必要があります。
「自分は要らない人間ではない」「必要とされている」と確かめるためです。
再確認の手段の一つが、自分の稼いだお金で何かを買うことだったのでしょう。
仕事で達成の瞬間を味わい、さらにそこから得られたお金で高価なものを買う。
高価なものを身に着け、家に並べる。
そうすることでケーンは、自分の足跡を確かめていたのだと思います。
買う目的は自分の持つ力の確認なので、純粋にその物が欲しくて買うわけではありません。
その証拠にスーザンから、買ったら終わり、中身を見もしないと指摘されています。
この場面ではさらに、頓着なく高価なものをスーザンへ贈ることについて「大切なものじゃないから簡単に人にあげられるんだ」とも指摘されます。
ケーンにとっては何が悪いのかわからないからこそ、非常に心が痛いところです。
本人にとっては簡単に手に入れられるもの、大切じゃないものをあげて、その引き換えに愛が欲しいと示されたら、普通の人なら「馬鹿にしてんのか?」と思います。
プレゼントって、買ったものの値段より、どのくらい相手のことを考えて選んだものなのか、どのくらい努力して手に入れてくれたものなのか、本当はそうした過程が重要なのかもしれない。
でもケーンにはそれがわかりません。
勘の良いスーザンは、ケーンから愛を求められていることに気付きつつも、彼からは与える用意がないことを感じ取り、苦しみます。
ケーンと「愛する」こと
幼少期、家族の愛情が欲しかったケーンに母親が与えたのはお金と孤独でした。
冒頭で、雪にはしゃぐケーンは、ずっと親に庭に出てくるよう呼びかけています。
でも母親は無邪気に笑うケーンを一顧だにせず、彼をニューヨークに送り出します。
ケーンと親との関わりはこの場面しか出てこないからこそ、非常に雄弁と言えるかもしれません。
時間や思い出を共有すること、大切な何かを差し出し合うことでの関係の築き方を、ケーンは小さい頃教われていないことを表現しているからです。
だからはじめは良くても、ある程度長く付き合ったあとは、リーランドやバーンステインと言った友達も、妻スーザンも離れていってしまう。
小切手のお返しにリーランドが送ってきたのが編集宣言だったと言うのが何とも。
元は理念でつながった仲間だったのに、いつの間にか単なる契約相手になっていたとは、というリーランドの悔しさが滲んでいるよう。
そのリーランドが取材に対しサラッと言ったセリフに、ケーンの渇望が隠されていると感じます。
彼は自分自身を何より愛してた あと母親も
ケーンがあれほど貪欲に出世しようとした理由、本当に認められたかった相手とは、世間ではなく母親だったのではないでしょうか。
スーザンをオペラ歌手にした背景は、推測だけど、会ったこともない彼女の母親に認められたかったからでしょうか。
そのへんは詳しく描かれませんが、それでも辞めたいと言った心に寄り添えたあたり、スーザンとは愛で結ばれる可能性があったはず。
もっと早くに、お金は愛の表現にならないことに気づいていたら、
愛されたいからではなく自分がしたいから相手を支える気持ちを持てていたら(=リーランドの言う「愛してやるから愛し返せ」を脱却できていたら)、
子どもの頃からの心の空白を埋められていたでしょう。
ヨーロッパから芸術的価値のある彫刻を買い漁る描写がありますが、いくら買っても歴史や芸術の蓄積は、アメリカに持って来られません。
決して代わりにならないもので、愛の不在を埋めようとしたことの暗喩のようでした。
バラのつぼみ
取材を行っても、記者たちは「バラのつぼみ」の意味を突き止めることができませんでした。
彼らが帰った後の豪邸で、粛々と遺品整理が行われます。
焼却炉に投げ込まれる遺品の一つに、子ども用のソリがありました。
裏側にはバラのつぼみの絵。
スノードームを眺めながら、ケーンの心は親と引き離された子どもの頃に戻っていたのでしょう。
雪遊びのときに持っていたソリの絵を思い出し、呟いた意図を誰も知らないまま、ケーンはこの世を旅立っていきました。
おわりに
名作と何度も紹介される意味を深く理解しました…
もっと早くみれば良かったと思う一方で、若い時に観ても理解しきれなかっただろうとも思います。
対象年齢は三十歳以上と言ったところでしょうか。
以前、トランプ大統領の足跡を追ったドキュメンタリーでトランプのことを「『市民ケーン』みたい」と言う人がいたのですが、なるほどと納得しました。
人生とお金と幸せについて考えたいとき、ぜひおすすめしたい映画です。