本と映画と時々語学

書評、映画評など書き綴りたいと思います。

映画『バベットの晩餐会』を見てアホほど泣いた理由 北欧映画の不朽の名作

デンマーク発の不朽の名作をご紹介します。

国内のみならず国際的な評価も高く、1988年のアカデミー賞国際長編映画賞(当時の外国語映画賞)を受賞しています。

派手なことは起こらないのに、魂が静かに揺さぶられアホほど泣きました。

ネタバレでお送りします。

 

 

あらすじ

19世紀後半、デンマークの辺境。小さな漁村に、厳格なプロテスタント牧師の美しい娘、マーティーヌとフィリパが住んでいた。

マーティーヌには若い士官ローレンスが、フィリパにはオペラ歌手パパンがそれぞれ求愛するが、生涯未婚のまま父の仕事を続ける決心をしていた二人は申し出を断る。

父の死後のある嵐の夜、パパンからの紹介状を持った女性バベットが、姉妹を訪ねる。

パリで家族を失い亡命してきた彼女を、二人は家政婦として家におくことにした。バベットはやがて一家になくてはならない一員となり、14年の月日が流れる。

父の弟子たちも年老いて、人間関係がぎすぎすしていくことに心を痛めた姉妹は、父の生誕百周年の晩餐を行うことで皆の心を一つにしようと思いつく。

 

物語の舞台と背景

冒頭からひと目でわかるとおり、マーティーヌとフィリパ姉妹が暮らす村は「寒村」と呼ぶにふさわしい、小さな村です。

小さなだけでなく、新しい人も物もほぼ入って来ない。昔ながらの倹しい暮らしが繰り返されていくだけです。

さらに、二人の父はプロテスタントの新興宗教を率いる存在。

この世での物質的な贅沢は、すべてかりそめのもの。それよりも、清く貧しく生きて、心の豊かさや、天上の世界へ行ったときに恥ずかしくない内面を磨くことが大事。

当然ながら、新しいものや金銭的な豊かさを求めることからは距離が置かれます。究極の「丁寧な暮らし」ですね。

日本人からすると、ちょっと辛い時、あるいは頑張った時に、いつもより品質の良い物を買ったり、美味しいものを食べたりして、心を支えるのはごく普通のこと。罪悪感を覚える人はあまり多くありません。

しかしこの映画の舞台では、贅沢そのものに警戒心がある。

マーティーヌもフィリパも、求愛してくれる人を受け入れないのは何で?と思う人も多いかもしれませんが、それもまた「この世での快楽や夫婦関係は一時的なもの」「それよりも神様に仕えることが尊い」という宗教的価値観に基づいています。


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バベットとは何者か

そんな中で、花の都パリからやってきた元料理人のバベットが、姉妹の家に住み込むことに。

政治的動乱で夫と息子を殺され、パパンの仲介で命からがらフランスから逃れてきたのです。

辛い過去などなかったかのように、淡々と村の生活に適応するバベット。都会で磨いてきた交渉上手さが見えるものの、特に派手なことはなく後半も進みます。

前半との違いは、バベットの家事能力によって姉妹の暮らし向きが楽になり、やがて欠くことのできない存在になっていくこと。

しかし、きらびやかなパリから逃れてきたと思えないほど、バベットが粛々と暮らす様は驚きです。家族を喪って、何もない村でひたすら倹しい生活になるなんて、人生の激変どころではない話だと思うのですが。

バベットに残されたフランスとのつながりは、現地にいる知人が定期的に送ってくれる宝くじのみ。

ところが、ある日その宝くじで1万フランが当たったと判明。

バベットは、賞金を使って村の人々に晩餐を提供すると申し出ます。姉妹の父の生誕を祝う会での食事です。

その頃、姉妹の父を尊敬していた村人たちも、長年の不仲や昔の軋轢がたまって、ギスギスした関係になっていました。

豪華なフランス料理が振る舞われたら、清く貧しくという教義も崩れてしまう、と天罰を恐れるマーティーヌとフィリパですが……

 

晩餐会の顛末

映画のラスト20分で、晩餐会が行われます。

「清く貧しく」「この世でのかりそめにすぎない物質的な豊かさや快楽ではなく、心の豊かさだけを求めよう」という信仰に生きてきた村人たちが、最高の食事に心をほどかれていきます。

ここも派手な演出や展開はないのに、熱心に食器が鳴る音や(食事がおいしいとみんなでいるのに無口になる時ありますね)、少しずつ柔らかになっていく表情に、明らかに何かが変わっていくのがわかります。

「食事の話はしない」「信仰のための晩餐会だから」と言い聞かせつつ、美味しさに心が温まっていく。

肉体を満たすことは教義に反するけど、そのことによって心が満たされ、ギスギスしていた相手とも優しくし合える小さな奇跡が起こります。

物質的な豊かさが心の豊かさを連れてきてくれることもある、と教えているよう。神様が授けてくれた世界の恵みを、受け取ることを思い出したかのような。

ローレンス将軍だけが食事の素晴らしさに遠慮なくコメントするけれど、マーティーヌと浅からぬ縁がある彼だからそれが許されるのも完璧なバランスです。

彼といいパパンといい、叶わなかった夢でも、人生に何かを与えてくれると伝えてくれます。パパンの手紙を持って、バベットが訪ねてきたように。

村人たちが守ろうとしたものも、ローレンスが外の世界で経験したことも、バベットが腕によりをかけた食事も、何一つ否定しない。

それぞれが全く違う歩みをしてきたのに、晩餐会が一つの奇蹟的な融合になっていて、とても心温まる場面でした。

 

バベットの選択

そしてラストシーンでは、わけもわからず泣きました。

享楽あふれるパリからこの村へ移ってきて、長年住めるだけでもバベットの適応力は超人だと思います。さらにこんなせりふと結末だったらもう、ねえ……

食事で皆の心を満たしてくれたバベットを、心底から労うマーティーヌとフィリパ。

けれど言葉には寂しさが漂います。1万フランを得たバベットは、きっとパリに戻ってしまうと思っているからです。

しかしバベットは、事もなげに言います。

「お金はすべて使いました。(パリで働いていた)カフェ・アングレの晩餐12人分の値段は、1万フランです」

せっかく手にした、パリに戻れる千載一遇のチャンスだったのに、バベットは全額を晩餐のために使い切っていたのでした。

もう二度と、同じ機会はやって来ないのに。驚いた姉妹は、理解できずに言います。

一生貧しいままになるわ

華やかな街で、一流の料理を提供していたバベットにとって、小さな村で一生を終えることが幸せなはずがない。そう思ったのでしょう。

しかしバベットは静かに返します。

貧しい芸術家はいません

バベットはパリで死なずに、もう一度芸術家として生きることができて、きっと感謝していたのだと思います。

パリで家族も仕事も、全てを失ったことは辛かったでしょう。しかし同時に、あの村でもどこでも、芸術家として生きていくことはできると本能で知っていたように見えました。

だからこそ、村での暮らしをバベットは粛々と受け入れ、自分が今生きている場所でできることをしていた。

そして、生きる場所となってくれた村の人びとに、持てるすべてを差し出した。

村人たちはそこから、神様に与えられたものを受け取る気持ちを思い出したわけで。

「貧しい芸術家はいません」で号泣嗚咽。感動の理由が言語化される前に涙がぶわっと溢れる……世界にこんな映画があってよかった。

本当の信仰は同調圧力も教典も要らず、心の中にあると言っているようでもあります。料理という、身体を満たす技術を用いてはいるのですが。

人はパンのみにて生くるにあらず。だけど、パンにしか満たせないものがあるというか。

正しさに生きてきた村人たちの硬直がほぐれ、本当の信仰が息を吹き返す描写が素晴らしかったです。

 

おわりに

良い映画に巡り会うと、「もっと早く観ればよかった!」と思うことが多いですが、本作に関してはつくづく若い時に見なくて良かったです。

雰囲気だけは感じ取れたかもしれないけど、プロテスタント的背景を理解したうえで見たほうが絶対いいから。

若い頃の自分はまだそういった知識の蓄積が浅かったので、海外在住経験や、人生のあれこれを経た後で見られて本当に良かった。

本作は名作と絶賛される一方で、観終わった後に「……で、何が起こったの?」となる人も多いらしいので。

静かな感動という形容がぴったりですが、文脈を拾うための人生経験やキリスト教の知識が全くないと、特に引っかかるものなく見終えてしまうのはわかります。

村や姉妹の宗教的背景だけでも、予習してから観るのが良いかもしれません。

いつまでも余韻の残る、素敵な映画でした。

 

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映画『関心領域』

アウシュヴィッツ絶滅収容所の実態を、今までにない視点から描いた映画をご紹介します。

アカデミー賞の国際長編映画賞受賞作です。

 

 

あらすじ

第二次世界大戦中、ナチス占領下のポーランド。

アウシュヴィッツ絶滅収容所に隣接する敷地には、所長のルドルフ・ヘス一家の暮らす庭つきの住居がある。

ヘス夫人が整えた、かわいらしい理想の子供部屋、色とりどりの花が咲く花壇、季節ごとに野菜のなる家庭菜園。

穏やかで満ち足りた生活に、ヘス夫人は何の不満も抱いていなかった。

彼女には、全く聞こえていなかったからだ。

隣の敷地から響く、ユダヤ人たちを葬る銃の発砲音も、死の間際の断末魔の叫びも。

 

異色のナチ映画

本作はストーリーどうこうではなく、司令官ルドルフ・ヘス一家のホームビデオと言っていいと思います。

重要なのは、のどかな佇まいの家の隣には、死の収容所が広がっていること。

そして、平和そうな家屋の中にも、薄皮一枚隔てた死が透けて見えることが、ほどなくして明らかになります。

最初は、隣の敷地で何が起こってるか具体的に知らないから、ヘス夫人はあんなに楽しそうなのかと思っていました。

しかし、ポーランド人のメイドの少女を叱責する際、「あたしの夫があんたを灰にして撒くわよ」と口にする夫人。

わかってんのかよ……となります。

遺体の焼却炉から立ち昇る煙が目に入っても、銃殺の発砲音や収容者たちの悲鳴が絶えず聞こえていても、自分の築いた理想の庭やインテリアに酔い続け、ユダヤ人たちからぶんどった貴金属や服飾品を自慢するヘス夫人。

「理想の生活」を実現できれば、自分の目に映る家や庭が整ってさえいれば、それがどんな犠牲の上に成り立っているのかは本当にどうでもいい人なのが描写されます。

では、夫人を取り巻く人々はどうかと言うと。

彼女の夫である収容所所長ルドルフは、真面目な職業人であるがゆえに仕事を完璧にこなします。

しかし、現場の生々しさを知っているからか120%自分に酔うわけではない。

もちろん、収容所の職員が新しい遺体焼却炉の導入について打ち合わせする場面などは、何とも言えない不気味さがありますが。

またヘス夫人の母は、最初はご機嫌で娘の家への滞在を楽しみますが、次第にこの場所の異常さに気づいて立ち去ります。

一方で、自分も近所のユダヤ人が塀の中にいるとか、彼女が連行されたときにカーテンが欲しかったとか罪悪感ゼロで言っているのですが……

600万人のユダヤ人が殺された情勢の裏には、体制の陰で甘い汁を吸っていた人々の存在があったことを突きつけられる。

しかし、彼らの優越感や罪悪感にも濃淡があったことを描いています。そこがまた妙に生々しい。

ひたすら淡々とした日常に、こうした描写が入っていることがじわじわ恐ろしい映画です。


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ヘス家の夫婦像

個人的に思ったのは(ホロコーストの本筋とは違いますが)、この時代の夫婦観、共感できないなあ、と言うことです。

70年も前の話なので当然といえば当然なのですが。

ヘス夫人の、自分が幸せになるために夫を利用してる感とか、夫は夫で愛はなくて愛人を持ってるところとか。

この時代の女性が自力で人生を作るの難しいだろうけど、にしても分かり合えなさそうだなあ……

ヘス自身はだんだんと職務に嫌気が差しているようで、そんな状況で家族の支えを必要としているように見える。

でも夫人の方は、「いかに自分の理想の生活を続けるかにしか興味がないので、転勤とか勘弁! 仕事のことはそっちで都合つけてね感」が満載です。

 

終盤の場面の意味

ハンガリーの大規模作戦(ユダヤ人の大量殺戮をさらに推し進める作戦)を聞いた後のヘスは、最後にひとり嘔吐していました。

それはまるで、やがて自分があの敷地で迎える結末を暗示するかのよう。

そして終盤には、博物館として残されている現代のアウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所が映し出されます。私自身も学生時代に訪れた場所です。

大量のかばんや靴がある展示室に行ったとき、かばんに名前が書いてあるのを見て急に生々しさを感じたのを思い出しました。失われた命が生きていた間のことに、手触り感が生まれたと言っても良いかもしれません。

悲鳴や銃声に名前はついてなくて、個人の気配を感じることがなかった。だからこそ、ヘス夫人たちは何も気に留めないまま暮らしていたのかもしれない。

その人たちに夢や、愛する人や、大事にしてくれた親兄弟や、何気ない毎日を分かち合っていた友人がいたとは思わなかったから。

ホロコーストや歴史の悲劇を扱う作品が大抵、観る人が共感できる視点人物や、個人のドラマを作ることに心血を注ぐのは、そのほうが感情移入できるとわかっているからだと思います。

そしてそれは大抵、当事者であるユダヤ人だったり、彼らの側に立って力を尽くす人物だったりする。

この作品は犠牲者個人の解像度は粗いものの、そこにかまけて甘い汁を吸っている加害者側の解像度が高くて気持ちのやり場がない……だからこそ、考えさせる構成になっていました。

 

おわりに

人間は加害を行う時、被害者を人間として見ていない。

関心領域の外へ、相手を追いやっているから。

人が人に寄り添うことをやめたとき、想像力を持たなくなったとき、どこまで人間が怪物になれるのかを、淡々と描き出す映画でした。

ドラマチックさや派手な演出はありませんが、だからこそ多くの人に見て欲しい作品だとも感じました。


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映画『七人の侍』

巨匠・黒澤明監督の言わずと知れた名作映画のレビューです。

レビューサイトでもよく言われている通り、70年前の映画と思えない普遍的な面白さを持った映画です。

ネタバレでお送りします。

 

 

あらすじ

戦国時代後期、世は荒れに荒れ、農村に暮らす者たちは野武士の襲来や略奪に怯えて暮らす日々を送っていた。

ある日、小さな村の農民・利吉は、野武士たちが村を襲う計画を立てていることを知り、何とか自衛しようと村の住人たちに訴える。

長老の発案により、侍を雇って村を守ってもらおうと画策する利吉たち。

しかし、大した報酬も払えない中、数十人いる野武士たちの相手をする侍を集める道は前途多難で……

 

シナリオの特徴

本作は3時間を超える長尺の大作となっています。

そのため、途中だれるんじゃないかとひそかに心配だったのですが、最後に向けてどんどんストーリーの密度が高くなっていくため杞憂に終わりました。

 序盤のじっくりした描写にジリジリするものの、加速がかかってくると俄然止まらなくなる!という感じですね。

現代の映像作品は、配信などを意識して(途中離脱を防ぐために)冒頭の密度を高める傾向にあると思うのですが、昔の小説を読むような懐かしさがありました。

序盤の展開はゆっくりなものの、前半で散りばめられた要素がちゃんと後半で活きていき加速していきます。

なので、終盤になればなるほど引き込まれる。

それぞれの登場人物が印象深くキャラが立っているのも、話が進めば進むほど面白い理由の一つだと思います。

そしてもう一つ驚きだったのは、現在にも通じるバトル、アクションの要素が散見されることです。

侍の仲間探しの際、技量を見極めるために物陰から斬りかかってきた相手をばっちり迎え打てるとか、果ては待ち構える勝四郎の気配を察して木賃宿に入る前に立ち止まるとか、週刊少年ジャンプの世界の原点がここに……!笑

偉大な作品と呼ばれるだけあって、その後の様々なコンテンツに影響を与えた要素があったんですね。

 

キャラクターとドラマの魅力

まず注目すべきは、侍たちのリーダーとなる勘兵衛の存在感です。

老練な策略と確かな武術の腕で、侍たちをまとめ、農民たちに自衛の策を叩き込みます。

農民たちに対し、いったんは侍を雇うなんて無理だと諭すものの、やがて気持ちを改め、『この飯、おろそかには食わぬぞ』と言って利吉たちの思いを受け止める場面は序盤の見せ場。

また、三船敏郎演じる菊千代は、農民と侍をつなぐ役割をしていて、目立ちたがりでトラブルメーカーな性格だけではない特別感があります。

数多くの黒澤作品に出演している三船敏郎

『用心棒』は三船敏郎のプロモーションビデオと化してる感があったものの、こちらは『羅生門』と同じく必然性がありぴったりの適役でした。

 

本作、観てみる前は、アクション活劇としてのエンタメ性が評価されているのだと思っていました。

しかしそれだけでなく、ヒューマンドラマとしての描き込みが充実していたことがわかりました。

侍と農民が立場を超えてわかりあう関係になるために、3時間半は必要な長さだったんだなと。

ただのご都合主義のヒーロー劇じゃないんだ、とわかる象徴的なシーンがあります。

三船敏郎演じる菊千代が、農民たちの隠し持っていた武器や鎧を、侍たちの前に持って来させます。

その武具が、農民たちによる侍狩りで、落武者たちから奪い取ったものだとわかると、侍たちはにわかに意気消沈。

戦で負け、さらに農民に追われて身ぐるみ剥がされた落武者たちのことを思えば、この農民たちのために戦う気力が失せて当然です。

リーダーである勘兵衛も

落武者になって竹槍で追われた者でなければ、この気持ちはわからん

と俯いてしまいます。

農民たちも言葉をなくす中、沈黙を破ったのは菊千代。

やい、おまえたち。いったい、百姓を何だと思ってたんだ? 仏様とでも思ってたか、ああ? 笑わしちゃいけねえや! 百姓ぐらい悪ずれした生き物はねえんだぜ!(略)

正直面して、ペコペコ頭下げて、うそをつく。何でもごまかす。どっかに戦でもありゃ、すぐ竹槍作って落ち武者狩りだい! よく聞きな! 百姓ってのはなあ、けちんぼで、ずるくて、泣き虫で、意地悪で、間抜けで、人殺しだ! ちくしょう! おかしくって涙が出らあ!

だがな、こんなケダモノ作りやがったのは、一体誰だ? おめえたちだよ! 侍だってんだよ!

戦のためには、村焼く、田畑踏んつぶす! 食い物は取り上げる! 人夫にはこき使う! 女あさる! 手向かや殺す!

一体百姓はどうすりゃいいんだ! 百姓はどうすりゃいいんだよ! くそー、ちくしょう……ちくしょう……

このセリフが明らかにしている通り、菊千代の出自は武士ではなく農民でした。

しかも、野伏(野武士)に村を蹂躙されたという境遇の持ち主。

その彼の思いを吐露した長台詞によって、もう一度侍たちと農民たちが共闘する覚悟ができていきます。

お互い、決定的に立場が違うことを突きつけられるものの、生身の人間の叫びが再びその溝を埋めるというシーンは、本作を名作たらしめる重要な要素だと思います。

終盤のシビアな展開も、登場人物への理解がじっくり深まった末のものなので時代の厳しさが一際しみます。

 

リアリティの追求

時代物の代表といえば大河ドラマですが、見ていてよく「荒れていた戦国時代で、武将でも何でもない人たちがこんなこざっぱりと身ぎれいにしてるもんかなあ」と思っていました。

本作はそのあたりのリアリティ問題もばっちり解決されています。

農民や菊千代の衣装はボロボロに加工されており、つましい生活や流れ者の暮らしが伺える格好になっています。

Wikipediaを見たところ、黒澤監督がリアリティ追求のために衣装や髪型などもリサーチや作り込み(衣装の汚れや摩耗を再現するため何度も汚したり)を徹底的にしていたとあって納得しました。

他にもキャラクター造形や時代考証にかなりの労力を割いていたらしく、とくに殺陣には様式美を超えた迫真性やリアリティを求めていた模様。

たしかに殺陣も、時代劇や大河ドラマだと一種の舞踊のようで、あらかじめ決められた流れで動いているのが丸わかりですよね……美しくはあるけど、迫真性やリアリティはない。

しかし『七人の侍』では戦いの場の臨場感や混沌とした様子が伝わってきます。

そんな熱意もあって最後の土砂降りのなかの死闘は映画史に残る名シーンになったのかと。

黒澤明監督作品は、作りたいものを作ることを追求しすぎて、全作品総括するとあまり儲からなかったものも多いようです。

しかし少なくとも本作は、経営者としてよりクリエイターとしての情熱が強かったからこそ生まれた作品だというのは間違いありません。

野武士たちとの戦いのディティールも丁寧で、勘兵衛の立案のもと、少ない戦力で勝つため準備を進めます。

ときには全体のために一部の農民に負担がかかる場面もある(集落から離れていて守るのが困難な家を引き払わせるなど)のですが、反抗する農民にも勘兵衛は断固として総力戦の必要性をときます。

人を守ってこそ、自分も守れる。己のことばかり考えるやつは、己をも滅ぼすやつだ!

侍の勘兵衛が立てる作戦はどれも説得力があり、ストーリーを補強する要素にもなっています。

よい城にはきっと隙がひとつある。その隙に敵を集めて勝負をする。守るだけでは城は持たん

 

おわりに

名作と呼ばれる理由が見れば必ずわかる作品でした。

惜しむらくは音質が悪く農民の発言は何言ってるかわからない場面が多いこと。

とくに冒頭はそうなので、侍衆が出てくるまではどうか脱落せず観てほしいです。

ストーリー、キャラクター、リアリティどれもピカイチの作品でした。

 

 

 

映画『オッペンハイマー』

今さらながら映画『オッペンハイマー』のレビュー記事です。

テーマや前評判を聞いて不快な気持ちになることを覚悟して映画館に行ったのですが、思ったよりは拒否感が薄かったことは最初に申し添えます。

戦争は祖父母世代から聞いた体験談や歴史の授業の知識が主で、被爆地と強いつながりがあるわけではない私のレビューです。

ネタバレでお送りします。

 

 

あらすじ

第二次世界大戦下、アメリカで立ち上げられた極秘プロジェクト「マンハッタン計画」。

これに参加した J・ロバート・オッペンハイマーは優秀な科学者たちを率いて世界で初となる原子爆弾の開発に成功する。

しかし原爆が実戦で投下されると、その惨状を聞いたオッペンハイマーは深く苦悩するようになる。

冷戦、赤狩り―激動の時代の波に、オッペンハイマーはのまれてゆくのだった―。

(Filmarksより引用)

 

オッペンハイマーの葛藤の源

オッペンハイマーの抱える悩みがもっとも象徴的だったのは、原爆投下の成功後、拍手喝采大興奮のメンバーたちが不気味に描写されていた場面でした。

倫理的葛藤を抱えるオッペンハイマーはそのリアクションを分かち合うことができません。

序盤からずっと、「本当にこれでいいのか」「こんなものを作っていいのか」という不安や揺らぎが心象風景や音楽で描写され、たまりにたまった緊張と予感が爆発するのがこの万雷の拍手のシーンです。

公開前から、原爆の被害についての具体的な描写がないことに批判が起こっていた本作。

広島長崎の被害の描写をしなかったのは、人道的葛藤の比重が大きくないからかと思っていたのですが(オッペンハイマーの栄光と凋落の話であり被爆地の情報を入れると別の話になるからかなと)、そんなことはなくメインテーマの一つでした。

だから、被爆に関する描写を入れても、別の話になってしまうということはなかったと思います。

なのになんで、はっきりした視覚情報として被爆地の状況を入れなかったのかは理解に苦しんだポイントです。

映画としては完成度が高かっただけに余計、個人的な思いとしてはその要素を入れて欲しかった。

死の灰が降り注ぐようすとか、熱線で身体が焼き飛ばされる暗示とか、アメリカ人とかヨーロッパ人には原爆被害のことだと伝わるの? 無理じゃない? と思うんですよね。

どんだけの被害だったか具体的なイメージない人がほとんどであろう中で。

これ以外には、原爆で身体的被害を負った方の写真を見て、オッペンハイマーが顔を歪める場面が一瞬あるだけです。

ハリウッドで活動する映画監督スパイク・リーが本件に苦言を呈してくれたのは、同じ有色人種として寄り添ってくれたのかなと思います。

なお昔、長崎の資料館で体験談を読んだ時、「これ以上は思い出すのが辛いのでここまでにさせてください」と締めくくっている人が多かったのを思い出しました。

痛みにたえて語ってくれた人たちのおかげで今があるわけで、なのでノーランお前だって勇気出してくれよ……という率直な気持ちがあります。

被害状況がピンと来なければ、なぜオッペンハイマーがあそこまで罪悪感を持ち、葛藤したのかわからないと思うんですよね。

しかし、そういった情報すら盛り込めないほど、米国での原爆正当化の認識が根強いということなんでしょうか。

原爆の被害を発信した方たちも、戦後すぐは日本国内からすら誇張やプロパガンダと言われたらしいので、まして正当な行為と思ってる米国内では受け入れられないと判断したのかもしれません。

 


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科学者としての理想と現実

オッペンハイマーにとって、原爆開発は当初ユダヤ人としての反ナチの戦いでした。

核兵器の開発をナチスも進めている中、連合国軍がそれに遅れを取るわけにはいかない。

そうした信念のもと、オッペンハイマー核兵器開発のチームに参加します。

メンバー集めに奔走した際、こんな恐ろしい兵器を作っていいものか、と迷いを吐露する研究者が、彼にこんな問いかけをします。

爆弾は善人も悪人も無差別に殺す 物理学300年の集大成が大量破壊兵器なのか

それに対し、オッペンハイマーもまた率直な気持ちを打ち明けていました。

分からない そんな兵器を僕らが預かっていいか だが、ナチスではいけない やるしかないんだ

しかし、ドイツは開発中の1945年春に降伏。

開発チームはターゲットを失い、使うならまだ降伏していない日本相手に、となります。

ところが、人間に対して核兵器を使うことについてのオッペンハイマーの躊躇いは置き去りにされ、反共の思惑も相まって投下そのものが目的となっていきます。

当初は「ナチスに先を越されるわけに行かない」だったのが、ナチスが降伏して戦争の終わりが見えてくる。

米国政府は次の戦い(冷戦)を視野に入れはじめ、「共産勢力(=ソ連)に先を越されるわけに行かない」に状況が変わっていきました。

だから、戦争を終わらせることよりも、核兵器を使うこと自体が目的になっていってしまった。

そうした中でもオッペンハイマーは、「前代未聞の破壊力を目撃して恐怖した人類が、戦争そのものから手を引く」ことを望んでいたのですが、結局歴史上の新たな火種になってしまいました。

これまで、どれだけの武器弾薬を作り使えるかが軍事力だったとすれば、それが核兵器に置き換わっただけだったのです。

これまでの大砲や爆弾の何倍も恐ろしい核兵器が。

戦後はソ連との軍拡競争で、米国での開発の手はさらに恐ろしい水爆に伸びます。

原爆だけでは勝てないならもっと威力のある核兵器を、となったためです。

原爆の使用で苦悩を抱えるようになったオッペンハイマーが、さすがに水爆の脅威にまで加担できない、と開発に反対する流れは明快に描かれていました。

技術をどう使うかを決める責任は自分たちにはない、科学者は研究開発を進めるのが務めだ的なことを、劇中でオッペンハイマーは口にしています。

言ってはいますが、本当はそうじゃないのは本人が一番わかっていたはずです。

自分自身も大義のためにメンバーになったわけだし、作ったものが何をもたらすか一番理解しているんですから。

この技術を完成させるのがナチスだったらマズいという背景はありつつ、当初の大義がなくなったあとも、すべてが政治的に動く戦時下ではもう止めることはできなくなっていました。

科学者の仕事は、技術が完成したらおしまい。

あとは政治家の手に運命が委ねられるという戸惑いも、複数の場面から垣間見えました。

使う責任を負えないからこそ、作る者としての責任があったのではないか。

そう気づいた時には、事態はオッペンハイマーの手を離れていました。

 

日本人目線で思ったこと

上記の通り、オッペンハイマーという人が辿った数奇な運命と強い葛藤について、丹念に掘り下げられた作品だったと思います(被害についての視覚情報が乏しいのは前述のとおりですが)。

ただ、投下を報じるラジオが「軍事拠点を破壊した」と言っていたのは、戦時中だからそう言うだろうけど違うだろと思わざるを得ませんでした。

投下されたのがなぜ、軍港のある呉や佐世保ではなく広島や長崎だったのかと言えば、比較的空襲の被害が少なかったエリアで、なるべくまっさらな場所でどのくらいの被害が出るかを見たかったからというのは描写されていません。

完成後はオッペンハイマーの手を離れた原爆が、使用については政府の意思しか反映されなかったと伝えるためにも、そのへんを描いて欲しかったと思います。

そして、日本に落とさないでくれともちろん思った一方で、ドイツが降伏して枢軸国唯一の残りになっても、首都の空襲で十万人死んでも、沖縄地上戦始まっても降伏しなかった日本側に「人の命をなんだと思ってんだコイツら」と思う気持ちが湧いてしまいました……。

今思っても致し方ないことですが、だからこそ尚更。

この泥沼がなければ、広島や長崎が被爆地になってしまうことはなかったでしょう。

 

おわりに

とにかく情報量が多く、3時間があっという間に感じる映画でした。

難解と言われるのはとくに序盤で時系列が行ったり来たりするからでしょう。

背景知識については、第二次大戦の終戦が見えてきて、課題が反ナチ・反枢軸国から反共へ移行したと知っていれば何とかなるかと思います。

そして、キリアン・マーフィオランダ語を聞くという嬉しい驚きがありました。


最後に、もっとも印象的だったせりふをご紹介します。

反戦主義だったアインシュタインは、原爆の開発には参加しなかったものの、オッペンハイマーからの相談を受けたことはありました。

その際、「原爆の爆発により大気に引火し、大気圏に延焼して世界中が火の海になる可能性はあるか」と訊かれたアインシュタインは「その可能性はほぼない。世界中を破壊しつくしてしまうような兵器ではない」と答えます。

その後、原爆投下の結果を見たオッペンハイマーは、アインシュタインに語り掛けます。

「あなたは、僕たちが世界を破壊してしまう兵器を作ったのではないと言ったね」と。

その後、彼はぽつりと呟きます。

I believe we did.

 

 

 

映画『すずめの戸締まり』

新海誠監督の最新作のレビューです。

予告編は多くを語らない構成になっており、私自身も事前知識ゼロで鑑賞し、衝撃を受けたので熱のこもったレビューになると思います。

何年前の鑑賞だ! という話ですが笑

ネタバレでお送りします。

 

 

あらすじ

九州で叔母と二人暮らしをする高校生のすずめは、ある日旅の美しい青年から「近くに廃墟はないか」と尋ねられる。

すずめが教えた閉園したテーマパークに向かった彼を、後から追ったすずめ。

そこで奇妙な置物を動かしたことで、廃墟にある災いの扉が開き、さらには扉を閉じて回る『閉じ師』である彼との奇妙な冒険が始まることになる。

 

過去二作との違い

新海誠作品の「世界(普通の人々の普通の日常)を救う」「会いたい人に会いに行く」の二本柱は過去二作と同じです。

しかし個人的には、『君の名は。』より『天気の子』より今回が一番好きです。

すずめの個人的なドラマと、世界を救うことの必然性がしっかりリンクしていたし、それが全部結びつくラストのカタルシスは凄まじい。

今回すずめたちが向き合う災いは、彗星より異常気象より、日本で映画を観る人にとって一番身近な危機だからかもしれません。

そして、終わり方が3作の中で一番劇的かつ爽やかに感じるのは、脚本の完成度が高いことの証だと思います。

また、天気の子より世界観や理屈がしっかりしていて展開に説得力があります。

個人的に、新海誠作品は大人不在感が目立つかも、と思っていたのですが、それも過去二作と比べて格段に減っていたのは叔母である環の人物描写のおかげだと感じました。

序盤の伏線張りタイムは正直もたつくと言うか、「このシーン要るかな?」と思う描写も色々あるのですが(それもちゃんと終盤で効いてきます)、三分の一を超えたあたりからストーリーが俄然加速し始めます。

音楽と映像の迫力が凄いので、ぜひ映画館で観てほしい作品です。

なおRADWIMPSの音楽は今回劇中では登場せず、純粋に映画の世界観に沿った音楽が使われています。

こっちのが良いんじゃないか? と正直思っています。

また、とりわけ『天気の子』では大人の世界と子どもの世界の隔絶が顕著で、大人はほとんど不在と言ってもいい(主人公たちの意思決定にあまり踏み込まない)印象が強かったです。

しかし、本作ではおもにすずめの叔母である環さんの役割によって、この溝がかなり解消されており、ドラマ全体も深化した印象を受けます。

もしかしたら、監督自身が「親」となってからの年月が積み重なったことにより、心境の変化があったのかもしれません。

 

以下の記述は本格的なネタバレを含みます。

 


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閉じ師の仕事

青年とすれ違った後、突如町の空に現れた禍々しい影。

それが例の廃園になったテーマパークだと気づき、すずめは現場に駆け付けます。

そこには、必死で廃墟の扉を閉めようとする青年の姿が。

無我夢中で扉を閉めるのを手伝うすずめの目の前で、彼は不思議な鍵で影を扉の中に封じます。

草太と名乗った彼が閉めたのは『後ろ戸』。

廃墟にある後ろ戸からは、日本の下にひそむ化け物・ミミズが出てきてしまうことがあり、飛び出したミミズが地面に倒れ込むまでに扉を閉めなければ、地震が起こると言います。

実際、戸締まりが間に合わず、すずめの住む町は地震に見舞われてしまいました。

ミミズには確たる意思も目的もなく、ひずみがたまれば暴れるという存在。

厄介な現象を鎮めるため、閉じ師の草太は全国を旅して回っていると言います。

彼の怪我を手当てしたすずめの前に、突然痩せ細った猫が現れます。

「うちの子になる?」と話しかけたすずめに、「うん」と答える猫。

呆気に取られる二人の前で、「おまえは、じゃま」と言い放った猫は、草太をすずめの持っていた子ども用の椅子に封じてしまいます。

猫の正体は、すずめが廃墟で動かしてしまった置物。

ミミズを封じていた要石(かなめいし)が封印を解かれたため、扉が開いてしまったのでした。

要石を取り戻し、元の姿に戻してもらうため、猫を追おうとする草太ですが、椅子の姿ではめちゃくちゃ目立つし、当然うまく行きません。

責任を感じたすずめは、彼とともに家出同然の旅に出ることに。

 

二つの旅

猫はあちこちでSNSに写真をアップロードされたり、ニュースに撮られたりと有名になり、いつの間にかダイジンと呼ばれるように。

その痕跡を辿って愛媛、神戸と旅するすずめたち。

ダイジンの現れる場所では常にミミズが暴れ、すずめたちは間一髪のところで戸締まりを成功させていきます。

そして辿り着いた東京で、今までにない強大なミミズを目にするすずめたち。

ダイジンを要石に戻し、ミミズを抑えようとする草太ですが、ダイジンは拒絶。

「役割はお前に移した」と言われ、自らが要石になるよう定められてしまったことに気付く草太。

すずめは、東京に住む何百万もの命が喪われることを恐れ、草太を要石としてミミズを封印。東京の後ろ戸を閉じます。

意識も身体も失い、椅子の姿で常世に留まる草太を取り戻すため、すずめは幼い頃くぐった後ろ戸を目指すことに。

草太の祖父から、「人が一生に通れる後ろ戸は一つだけ。かつて通った扉を探しなさい」と言われたためでした。

亡き母を探して迷い込んだ後ろ戸を探し、実家を目指します。

このように前半はミミズを追いかけ封じる旅、後半は草太を取り戻すための旅というストーリーになっています。

 

すずめの過去

草太を取り戻すための旅は、故郷の後ろ戸――すなわちすずめの過去を辿る旅でもありました。

すずめの過去の夢をトップシーンで見た時、パッと北海道っぽいと思ったので、じつは絵日記を掘り起こすまで何があったのかまったく気づきませんでした……

事前情報全くなしで観たからこその驚きでした。

絵日記の日付を見た途端あれもこれも伏線が結びついて(すずめだけ九州弁じゃなく標準語(だから余計北海道かと思いました)、死ぬのは怖くない・生きるか死ぬかなんて運でしかない発言など)、そういうことだったのかと。

北海道に向かっていると思っていたから、北上してても何も思わず……(ミスリードされすぎ)。

でも、チラっと映る地名はどれも、あの頃ニュースで何度も見たところばかりでした。

家が基礎しか残ってなくて真新しい防潮堤の真横というところでようやくあれっ、と。

あんなに広大でひらけた土地は北海道にしかないと思いましたが、それはあの時だからこその光景だったんですね。

そして、常世に飛び込んだすずめの見る火の海は、あの日の気仙沼の夜のニュース映像にそっくり。

考えてみればダイジンの行く場所は神戸とか東京とか、かつて大きな震災が起こったところばかりでした。

 

すずめが乗り越えたもの

草太を喪って悲しむすずめの姿を見、さらに彼女ともう一度だけ心が通ったダイジンは、みずから要石の役割を再び引き受けます。

おそらくは、「ありがとう」と言われたから。

要石から猫の姿になったダイジンは、痩せ細りボロボロの姿でした。

それほどの姿になるまで務めを果たしても、誰にも顧みられないことに飽きたからこそ逃げたのでしょう。

そして、「うちの子になろう」と言われるものの突き放されるところがすずめと重なります。

そのすずめだからこそ、ダイジンの心をもう一度癒すことができたのでしょう。

なお、さらっと登場してさらっと闘ってますが左大臣かっこよかったです。

ダイジン(右大臣)と左大臣の助けを得て、ミミズを封じるすずめと草太。

しかしすずめには、もう一つ向き合わなければならない相手がいました。

それは、あの日以来、あの時空で泣き続けている自分自身です。

東日本大震災の日以来、夢の中で泣き続けていた自分の前に、いつも現れていた長い髪の、裾の長い服を着た大人。

草太かなと思っていたのですが、それは髪をほどき、彼の服を羽織ったすずめ自身でした。

子どものころの自分に等身大の言葉をかけるすずめを見て、ずっと泣き続けている幼い頃の自分は、根本的には自分自身で癒すしかないというメッセージがある気がしました。

大切な存在に巡り合ったすずめにその用意ができたとき、その瞬間がやってきたというのが良いです。

大好きなお母さんや、思い出の詰まったふるさとを喪い、絶望している子どものすずめに、少女のすずめが言います。

私は、すずめの明日!

トラウマの治療に取り組んでいる精神科医の方がインタビューで、「過去の傷を乗り越えるには、まずは現在を肯定できる状態にならなければならない。そうでなければ、あの状況を乗り越えて生きていてよかった、と思うことができないから」とおっしゃっていました。

草太の存在や、環さんとの絆を再確認できたからこそ、笑顔で昔の自分にそう言うことができたのだと説得力がありました。

なおすずめの苗字「岩戸」(=天岩戸)は、神話上で開かなければならない扉でしたが、草太の苗字「宗像」は旅の安全を司る神様がいる場所。

草太は閉じ師でありつつ、あくまですずめの成長に寄り添う旅のパートナーだったのかもしれません。

 

環さんの存在

家出かのように突然飛び出していき、その後も帰ってこないすずめを(当然ながら)心配する叔母の環さん。

同級生も周知の愛情弁当を持たせてくれる熱心な保護者ですが、すずめにはどこかその関係がしっくり来ていない様子があります。

だからなのか、環さんの愛情や心配はどこか空回り気味で、そのフラストレーションが北上の旅の途中でお互いに爆発。

すずめを引き取ったことで人生が大きく変わってしまった環さん、それをわかっているからこそ彼女の愛が重いと感じるすずめ。

これ、親になる前に見たらどんな感想を持ったかな……すずめには共感しても、環さんの気持ちはわからなかったかも。

「すずめを引き取るって自分で決めたんでしょ?」と思ったんじゃないかな。

というのも、親であるが故の大変さに直面した時、「自分で決めたことだから」って思うこと、すでに一億回くらいしてる気がするからです笑

でも一方で、環さん大変だっただろうな、というのもすごくわかります。

彼女の場合は、お姉さんの死によってすずめの存在が自分の人生に加わったから、きっと折り合いをつけるのはもっともっと大変だったはず。

けど、一方でしばらく後に彼女が言ったせりふも、首がもげるほど同意したい。

全然、それだけじゃないとよ

親になったことで何かを諦めたことが一度もない人というのはいないと思います。

でも彼女の言うとおり、「それだけじゃない」んですよね圧倒的に。

それを補って余りあるものがあるから、圧倒的に子どものことが大切なんです。

君の名は。』や『天気の子』では、主人公たちの大人との関係はあえて見てみぬふりをされているというか、とくに親子愛の描写は意識して避けられている印象でした。

本作では、直接の親子ではないものの家族との絆の描写が深化していて、監督の作品に新たな奥行きが加わっていたように思います。

 

おわりに

監督は本来、『君の名は。』で再会のラストを望んでいなかったと聞いたことがあり、「このままってことないよね?」と後半は終始ハラハラしておりました。

予告編が多くを語らない構成だったのは、トラウマを持った方たちへの配慮と思われます。

映画館の入り口にも、辛い描写があるかもしれませんという標示がありました。

そうした制限をみずからかけながらも、たくさんの方に観られた作品になったのは素晴らしいことだと思うし、それはひとえに作品の魅力やパワーによるものだと思います。

 

 

 

 

映画『ドリームプラン』

伝説的テニスプレーヤーのウィリアムズ姉妹を育てた、彼女たちの父親を主人公にした映画をご紹介します。

本作でウィル・スミスがアカデミー賞主演男優賞を受賞したことと、授賞式でのビンタ事件が有名ですが、作品自体の魅力もぜひ知られてほしいです。

ネタバレでお送りします。

 

 

あらすじ

黒人世帯ばかりの町コンプトンで、妻とともに5人の娘を育てるリチャード・ウィリアムズ。

最も年下のヴィーナスとセリーナを伝説的テニスプレーヤーにするため、彼は馬車馬のように働きながら、毎日2人の練習に付き合っていた。

ある日、マッケンローやサンプラスのコーチがヴィーナスの指導についたことから、家族の運命は大きく動き始める。

試合に出ないヴィーナスを、最高のコーチのもと、無料でプロに育て上げさせるというドリームプランは、順風満帆かに見えた。

しかし、ヒンギスら有望な同世代の選手を見ているうちに、ヴィーナスは焦りを抱き始める。

 

リチャードの計画の背景

娘たちを伝説的テニスプレーヤーに育て上げるため、生まれる前から70ページ以上の計画書を書いた、というリチャード。

普通に聞いたら「えっ」と引く人も多そうなエピソード。

しかしここには、アメリカならではの事情があることをお伝えしておきたいです。

彼らが住むコンプトンの風景を見ればわかりますが、黒人が多い地域の治安や経済状況はあまりよくありません。

少年少女は高確率でマリファナや犯罪に手を出し、安定した仕事につけるチャンスは少ない。

そうした環境要因に巻き込まれないよう、リチャードと妻は心を砕いているわけです。

上の娘3人も、成績はクラスで一番、というのもその方針の一環。

環境に負けず頑張ればいい、という言葉では片付けられないアメリカ社会の現状を見ると、「ゆるぎない技術や学歴をつける」のは正解と言わざるをえません。

しかし、そうして立身出世したはずのセリーナ・ウィリアムズですら、出産後に危険な症状を訴えても、なかなかCTを撮ってもらえなかったそうです(黒人の妊産婦は、白人の妊産婦の数倍、死亡率が高いとされています)。

厳然と立ちはだかる人種の壁に、懸命に抗おうとした、というのがドリームプランの背景と言えます。

 

ヴィーナスという先駆者

娘たちの指導を最初にかって出てくれたコーチは、無料での指導は一人しかできないと言います。

そのためリチャードは、姉のヴィーナスの指導を依頼。

現在も第一線で活躍し続けているセリーナは、雌伏の時を過ごすこととなります。

セリーナの偉人ぶりを知っている私たちからすると、ちょっと意外な事実でした。

でも確かに、デビューやグランドスラムでの活躍は、ヴィーナスが先でした。

ということは、黒人のプロテニスプレーヤーという新境地を切り拓いたのも、彼女だったと言えます。

それまでは、世界で活躍するテニスプレーヤーはほぼみんな白人という状況で、ヴィーナスが初参加したジュニア大会での対戦相手も、全員白人。

ウィリアムズ一家が会場に入るだけで、アウェー感がバリバリに漂っていました。

それはさておき、コーチがついた後は、ヴィーナスとリチャードの関係性をメインにドラマが展開していきます。

リチャードはヴィーナスを試合に出さず、学校や音楽のレッスンもおろそかにしないよう、徹底的に生活を管理します。

しかし、彼女を積極的に試合に出し、知名度も高めていきたいコーチとはたびたび衝突することになってしまいます。

 

リチャードの葛藤

ヴィーナスを世界的プレーヤーに育てたい。

でも、テニスだけをしていては、スポンサーやマスコミに使い捨てられ、人生が破綻することにもなりかねない。

だからこそ彼は、彼女を試合に出さず、学業を優先させることにしていました。

しかし、ヴィーナスの才能や実力を知るコーチは彼女をプロデビューさせることを勧めます。

何よりヴィーナス自身が、同世代のヒンギスらがデビューしていくことに、焦りを覚えていました。

二人目のコーチのリックからそのことを告げられ、リチャードは自身の抱える葛藤を吐露します。

かつて、とても些細なことから白人の大人に暴力を振るわれたこと。

それを見ていた彼の父親は、目を背けて立ち去り、彼を護ってくれなかったこと。

だからこそ、娘たちを絶対に護れる親になろうと誓ったこと。

ヴィーナスが彼の護れない場所に行ってしまわないよう、大会出場やスポンサー契約から遠ざけようとしたこと。

本音でヴィーナスと語り合ったうえで、彼女の試合出場を認めたリチャード。

ヴィーナスのプロデビューを見届けることになりますが、その顔はどこか解放された表情にも見えました。

映画冒頭から、「自分の子どもをここまで信じてサポートできるって凄いけど、ここまで来ると過干渉なのでは」という違和感がありました。

妻であるオラシーンや、コーチたちの助言も聞き入れない、ワンマン体制なのでなおさらです。

でもこの場面で、ヴィーナス自身と語り合ったことにより、リチャードが子離れしたことが描かれていて、観ている人をホッとさせます。

 

ウィリアムズ家というチーム

リチャードのワンマン体制で突き進んでいたチームですが、ヴィーナスのデビューをめぐっては大人たちの関係も変化していきます。

敬虔なキリスト教徒として、夫をひたすら立ててきたオラシーンが、「家族はチームなのに、なぜあなたがすべてを決めてしまうのか」と言い募る場面があります。

自身の過干渉に気付いたリチャードは、リックの説得もあり考え方を見直していくことに。

粛々とリチャードを支えるオラシーンがいたからこそ、リチャードは信じた道を突き進むことができた。

そして、プロフェッショナルかつ客観的なリックがいたからこそ、軌道修正ができた。

誰一人欠けても、ヴィーナスの成功には辿りつけなかったと思わされます。

 

メインキャストの演技力

残念ながら授賞式で物議を醸してしまったウィル・スミスですが、本作の演技のクオリティについて異議のある人はいないと思います。

ルイジアナ訛りから歩き方まで、ウィリアムズ家のお父ちゃんを完コピしたであろう振る舞いが見て取れます。

いい意味で、ウィル・スミスがウィル・スミスに見えない映画でした。

それに加えて、ヴィーナス役のサナイヤ・シドニーの存在感も特筆すべきものです。

ひたむきで可愛らしい演技が、観ている人を応援したい気持ちにさせます。

彼女がコーチのリックに、とてもめんどくさい性格のリチャードを説得してくれるよう頼む場面にも説得力があります。笑

大いに躊躇っていたリックが「おいおいそんな目で見つめられたら断れるわけ……わーかったよ俺がやるよ!」となる流れが最高でした。

 

姉妹を見て思うこと

ヴィーナスとセリーナを演じた二人は、演技もさることながら、テニスも上手。

そんな二人のキャスティングが叶ったことこそ、ウィリアムズ姉妹の功績を示しているのではないかと思います。

白人のスポーツだったテニスですが、ウィリアムズ姉妹を見て黒人の女の子たちが多数プレーするようになったのだろうと思うからです。

プレーヤー人口の層が厚くなり、その中に演技もできる人がいる、二人がそれほどまでに新しいグループにテニスを広げたんだなと。

何となく想像がついてしまう展開ではありますが、ラストシーンでは見事に泣かされてしまいました。

 

おわりに

欲を言えばセリーナの成長もみたかったけれど、観ると元気を貰える映画として文句なしのクオリティでした。

どんどん才能を伸ばしていくヴィーナスだけでなく、暴走気味だったリチャードも成長する展開が良いですね。

親離れというのは子離れでもあるんだな、と実感させられます。

そんな親子の成長が、テニス界で誰もできなかった偉業を成し遂げさせることになったとは。

エンドロール前に明かされる、姉妹の功績や現在にもジンとします。

勇気ややる気を貰いたいときに、おすすめの映画です。

 

 

 

 

ドラマ『チェルノブイリ』

ソビエト連邦時代のウクライナで起こった、あまりに有名な原子力事故に基づくドラマのレビューです。

ドラマとしてのクオリティもさることながら、骨太なメッセージが胸を打つ秀作です。

全5話のドラマで、米国の制作会社HBOによって制作されました。

ネタバレでお送りします。

 

 

あらすじ

1986年、ソビエト時代のウクライナ

原発の静かな城下町プリピャチが、ある夜発電所の火災に見舞われる。

消防士や、火事を見物に行った町の人たちが間もなく身体の異変を訴えるが、原子力事故に対応できる人員はおらず混迷を極める。

ようやくソビエト連邦政府から専門家レガソフや議員シチェルビナが到着するも、重大事故発生を隠したい当局に動きを制限され、思うように対応できない。

一方、300キロ離れたベラルーシミンスクで、異常な高線量に気づいた核物理学者ホミュックは、事故の発生とその原因を突きとめる。

体面を重んじる政府が決して公表しないであろう原因を、何とかして世に知らしめたいレガソフ、シチェルビナ、ホミュックだが……


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本作のメッセージ

本作はソビエト連邦時代の1986年に起こった、チェルノブイリ原子力発電所での事故をもとにしています。

チェルノブイリ原発のあるプリピャチは現在のウクライナ北部。

陸路で侵攻したロシア軍が現在掌握していると伝えられています。

それもあってこのドラマを思い出したのですが、本作は原子力事故の恐ろしさもさることながら、隠蔽体質の罪深さを余すところなく描き出した作品となっています。

異常を訴える人が病院に殺到しても、プリピャチ市ではまだ数十時間、人々は普通の生活を続けていました。

避難指示も出ず、発電所で何が起こったかも伝えられていませんでした。

あまりに前代未聞の事故だったために、ことの重大さが把握しきれていなかったというのはありますが、だったらとにかく安全確保のためになるべく遠くへ住民を移動させてしかるべきなのに。

なぜか。

ソビエト連邦政府は、大規模な避難指示や、情報周知によって、重大事故を発生させてしまったと知れ渡ることを怖れていたためです。

連邦内の他の地域、ひいては西側諸国に状況を知られては、ソビエトの面目は丸つぶれになるからです。

 

後手後手の対応

しかし、あまりに大量の放射線が漏出したため、何百キロも離れた地点でも異常な線量の上昇が観測され、西側世界も「何かが起こっている」ことに気づきます。

事情を知る登場人物が「西ドイツのフランクフルトでは、子どもを外で遊ばせないようにしているらしい」という話をしているとき、プリピャチではまだ子どもたちが学校に通っていました。

その後、主人公レガソフ博士の訴えに基づき大規模な避難が始まるものの、連邦政府が避難指示を実施したのは控えめな範囲のみ。

まだ「それほどの大事故ではない」との体裁を保ちたい彼らに、博士が苛立ちを爆発させる一言が胸に刺さります。

私が世間知らずでバカなだけかもしれないが これが世の中ですか?

官僚や党員の無知で気まぐれな判断で 大勢の人が犠牲になるなんて

計画経済のもと、人々の仕事も給料も生活も、すべては国が管理している社会では、一般市民はひたすら国や行政機構に従うしかありません。

逆らえば暮らしそのものが危機に瀕するからです。

言い換えれば、生殺与奪を国に握られてしまうということです。

非常事態になっても、自分の生死に関わる情報すら、国の都合ひとつで知らせてもらえない。

 

さらに、放射線に汚染された資材を撤去するため、高線量下でも動作する機器をドイツから借りるも、なぜかすぐに使いものにならなくなってしまいます。

シチェルビナが政府に問い合わせると、ドイツから借りる際「どの程度の線量に耐えうる機械が欲しいか」を正確に伝えていなかったと判明。

正直な数字を伝えると、どれだけ深刻な事故が起こったかがドイツ側に知られてしまうためです。

この期に及んでもメンツ優先の姿勢に、シチェルビナも怒りを隠しきれません。

 

真実の公表をめぐって

もう一人のメインの登場人物ウラナ・ホミュックは、ベラルーシにいながら高線量に気づいて現地に駆け付け、事故の原因を探り始めます。

彼女は原子炉のもともとの仕様に問題があったこと、それを連邦政府が長年隠ぺいしてきたこと、問題を指摘した科学者の声も隠されていたことを突きとめます。

KGBも関わっていた機密を公表したら、自分たちの命が危ない。

KGBとの取引を考えるよう諫めるシチェルビナに、ホミュックは、大量の放射線を浴びた妊婦が産んだ子が、四時間で亡くなったことを告げます。

母体の放射線を代わりに吸収したことで、致命的な影響を受けたためです。

この国では子どもが母親を救って死ぬ

何が取引よ 命など惜しくない 真実を語らなきゃ

その訴えの切実さを象徴するように、最終話のタイトルは『真実』となっており、 レガソフ博士も事故の本質について下記のように語ります。

秘密と嘘ばかり それが我々の姿です

真実が牙を剥けば数々の嘘で隠し忘れようとする でも真実は消えない

嘘をつくたびに真実へのツケがたまる ツケは必ず払わされる

RBMK炉の爆発を招いた本当の原因は“嘘”だ

 

真実と安全

発電所に限らず、どんなプラントでも工場でも建設現場でも、安全は永遠の課題です。

そしてそのためには、今ある状況から客観的に危険要素を洗い出し、改善していくことが不可欠です。

だから、ヒヤリハット報告がたくさん上がってくるのは良い現場なんですよね。

「こんなにヒヤリハットがあるとは何事だ」と威圧されて、危険予知ができなくなっては本末転倒なので。

ドラマでは、それと正反対の状況が描き出され、隠蔽体質を常態化させている社会主義体制の問題点がありありと伝わってきます。

国がすべての権力を握り、権威主義がはびこると、都合の悪いことは隠してしまえとなる圧力が否応なく働くわけで。

こんな社会へ絶対に時計の針を巻き戻してはいけないと思うのですが、プーチンが目指しているのは”偉大なソビエト”の復活らしいですね……

 

第1話の最序盤は、事故が発生したその瞬間の運転員たちの会話から始まります。

この会話がまた違和感満載で、というのも誰一人として「何が起こったか」にまるで見当がついていない。

おいおい本当に運転員の会話か? となるのですが、のちに理由が明らかになります。

原子炉の出力を停止するための制御棒を動作させるとき、一時的に出力が上がってしまうという仕様上の欠陥について、彼らはまったく知らされていないのです。

かつてそれを指摘した論文はKGBによって機密扱いに。

ソビエト原子力技術は至高でなければならず、欠陥は許されないためです。

それを知らないままイレギュラーな実験をしたことが、炉の特性に作用して事故を招いてしまった。

 

ソビエトの原子炉

東日本大震災福島第一原子力発電所が危機に瀕していた時、Wikipediaチェルノブイリ原発事故のページを読んだ日本人は多いのではないでしょうか。

私もその一人です。

当時、事故の起こったきっかけが、制御棒の動作の際の特徴にあったことは明記されていました。

しかし、「何でこんな仕様の炉を使っていたんだ?」という疑問を解消する記述はなく、ずっと不思議でしたが、ドラマを見て謎が解けました。

西側の原子炉より安価に建設することができるこのタイプの炉を、ソビエトは使い続ける必要があったんですね。

「間違っていた」なんて絶対に認めるわけにいかないから。

でも、ソビエトのプライドのためにウクライナの人々が強いられた犠牲は、どうやって説明したらいいのか。

 

おわりに

立ち退きを求めるソビエト軍に対し、現地の老女が「革命が起こっても、戦争になってもこの土地を離れなかった。今回も離れない」と言い放つ場面は鬼気迫るものがありました。

ここが自分の生きる場所だから、という言外の訴えが伝わってきます。

今もウクライナに留まって暮らしたり、戦っている人たちも、守りたいものや離れたくない場所をそれぞれに持っているのだと思います。

現在のロシアは、権威主義と独裁がまかり通っている状況でしょうから、自浄作用や軌道修正は、ソビエト時代と同様に望みにくいと思います。

ドラマの中のレガソフやシチェルビナ(二人とも実在の人物です)のように行動できる人が、ロシアにどれだけいるのか。

単純に両軍の物量や人員の差を比べればウクライナの現実には厳しいものがありますが、西側世界からの制裁や支援が少しでも良い効果をもたらすことを祈っています。