本と映画と時々語学

書評、映画評など書き綴りたいと思います。

映画『羅生門』

白黒映画史上屈指の映像美と、人間のエゴを浮き彫りにする脚本が国際的な注目を浴びた黒澤明監督作品のレビューです。

今は亡き三船敏郎さんの名演も特筆すべき特徴です。

ネタバレしながらお送りします。

 

 

あらすじ

疫病や戦乱、天災で町も人心も荒廃した、平安時代の京の都。

朽ち果てた羅生門で雨宿りをする下人は、居合わせた杣売りと旅法師から奇妙な話を聞かされる。

山中で武士・金沢の遺体を発見した杣売りは、検非違使に届け出た。

金沢が妻の真砂といるところを見かけた旅法師もまた、検非違使に事情を訊かれる。

調べの結果、金沢は盗賊の多襄丸に騙され、妻を目の前で犯された上に殺されたと判明した。

だが、ことの顛末は誰の目から語られたかによって全く違う様相を見せ始める。

 

映像の美しさ

モノクロ写真を見るのが好きな方は、この映画の美しさも余すところなく堪能できると思います。

白の柔らかさも、黒の引き締めも、灰色の階調も、観てて全部隙がないというか、どこを切り取ってもベストバランスになっています。

コントラストがぱきっとしつつも、粗さを感じ映像です(一体どうやったらこんな風に撮れるんだろう)。

個人的には短刀が手から落ちて落ち葉に刺さるところと、戦慄する真砂の目に日光が透けている横顔のアップがベストカット。

黒澤監督が「百点以上」と評したという宮川一夫氏の撮影技術は圧巻です。

有名な三船敏郎さんも、出てきた瞬間から凄まじい迫力があって画面が引き締まります。
一方で、真砂役の京マチ子さんの妖艶さも特筆すべきです。

めちゃくちゃ手綺麗だし、序盤で足だけが映るカットの艶かしさが尋常でない。

エロさとはイコール露出の多さではないと象徴する一瞬でした。

京マチ子さんは真砂役を演じることを熱望していたため、役に合わせて眉を剃ってオーディションを訪れ、熱意をみとめた監督が選出したとか。

その逸話が納得なほど、色気も内面の多面性も、この人しかいない!と思わせる熱演でした。

 

脚本の妙

いきなりネタバレですが、三人が語る事件の顛末には一つとして正しいものはありません。

最後の杣売りのネタばらしにより、全員が自分にとって都合のいいことを話していたと判明します。

この三人それぞれが語る嘘は、事実を隠しているんですが、一方で彼らの伝えたかったことを内包しています。

自分がどう見られたいか、相手の中に何を見たいかについては非常に雄弁な嘘だからです。

多襄丸は、気性の激しい女性を射止めた、無頼だが筋の通った男に、

真砂はか弱く優しく純粋な女性に、

その夫は妻を奪われた悲しい男に見られたがっている。

実際は、立派に闘ったどころか、真砂に焚きつけられて腰の引けた斬り合いをしただけだし、純粋どころか計算高いうえに、自分の打算の結果にも向き合いきれない、悲しみに暮れるどころか妻を蔑んでいる。

三人それぞれが好き勝手に事実を脚色したことに、人間の浅ましさを見て打ちひしがれる杣売りと旅法師。

生きるための嘘や盗みは悪いと思わない下人だけがあっけらかんとしています。

でも彼こそが、誰より冷静に人間の本質を見抜いているように思えます。

本当のことは言えねえもんだ。人間てのは、自分自身にすら白状しねえことが沢山あらあ

もっとも女というやつは何でも涙でごまかしやがる。自分自身までごまかすしな。だから女の話はよほど用心して聞かないとあぶねえ 

人間というものは自分に都合の悪いことは忘れちまう。都合のいい嘘を本当だと思ってるんだよ。そのほうが楽だからだ

達観したようなセリフと、ぶれない行動で何だか憎めないキャラクターです。

醜い部分も人間の、ひいては自分の一部として認め、受け入れているからこそ、スパッと本質的な発言が出てくるのでしょう。

だから、生きるための盗みも嘘も悪いと思わない。

一方で杣売りや旅法師には、そんな風には割り切れない、葛藤ある人物像が窺えます。

そして、盗みや嘘があっても、善意で補うことを諦めず生きていく、救いのあるラストを提供してくれる。

事件に絡んだ三人のみならず、羅生門に集った三人についても、印象的な群像劇になっていると思いました。

セリフの美しさや、人物造形の巧みさは、おそらく原作の芥川龍之介の力量によるところも大きいでしょう。

しかし、『藪の中』『羅生門』という複数作品を一つにまとめあげた手腕については、脚色の技術がいかんなく発揮されていたと言えます。

 

おわりに

平和な時代に生まれ育った自分からすると、(事件の顛末はともかくとして)生きるための盗みや嘘は全然エゴに見えないなと思ってしまいます。

でも今の人間の感情は、細部はともかくベースは弥生時代くらいまで遡って共有できるらしいので、環境が環境だとは言っても、葛藤を抱えて生きていたのかもしれません。

原作が芥川先生だからか、セリフが文学的で素晴らしかったです。

いつか絶対読みたいと思います。

美しいモノクロ映画、文学的な脚本を堪能したい方に是非お勧めしたい映画です。

 

 

 

羅生門 デジタル完全版

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  • 発売日: 2013/11/26
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映画『gifted/ギフテッド』

大好きな映画だけど複雑すぎてなかなかレビューを書けなかった一作です。

天才的な頭脳を持って生まれた女の子と、彼女にとってベストな環境を探る叔父の絆に考えさせられる作品です。

ネタバレでお送りします。

 

 

あらすじ

7歳のメアリー・アドラーは叔父のフランクとフロリダの長閑な町で暮らしている。

メアリーの母ダイアンは天才的な数学者だったが、若くして自ら命を絶ってしまったため、以来フランクが育てている。

入学した小学校で、ダイアン譲りの数学の才能があることを見抜かれ、特異な才能を持った子ども向けの私立校へ転校を勧められるメアリー。

しかし、メアリーを普通の子どもと同じように育てたいフランクは提案を断る。

そこへ、フランクの母イヴリンがやってきて私立校への転校を強硬に勧める。

彼女は自分やダイアンが果たせなかった数学史上の難問を、メアリーに解かせる夢を叶えようとしていた。

渋るフランクに業を煮やした母は、メアリーを養育する権利を裁判で取り上げようとする。

 

天才的な子どもということ

人と違うということは、特に子どものうちはとても生きづらいと思います。

メアリーの場合、頭が良すぎて普通の授業ではつまらないという側面もあり、ますますクラスメイトとの距離が開いてしまう一面もあります。

「何でこんなこともできないの?」という感情を器用に隠せる年齢ではないし。

間違っているもんは間違っていると理解できてしまう手前、子どもらしいいじめっ子への恐れでそれを引っ込める臆病さも(幸か不幸か)ない。

しかし、こうした特性にも生身の自分で子どもの頃から向き合っていかないといけません。

大人になってからできるようになるのは難しいし、誰も自分の人生を代わりに生きてくれないからです。

フランクに校長が勧めたように、ギフテッド向けの学校に入れる選択肢もあると思います。

でもたいていの場合、天才であっても「普通の人々」とまったく関わらずに生きていくことは難しい。

そう思ったからこそ、フランクは地元の小学校にこだわったのでしょう。

数学の本を読むことは止めていませんし、メアリーだからできる数学の勉強についても、メアリーが家でしたい範囲でさせていく方針のようです。

 

イヴリンの執着とダイアン

イヴリンはまるでメアリーのことを第一に考えているかのように、フランクとメアリーの生活に干渉しようとします。

しかし、彼女が本当にしたいのは、自分の人生の敗者復活戦、ないしは娘ダイアンという失われた成果物の回復です。

夫を支えるために数学の道を諦めたのは事実だとしても、人の人生を自分の成果物や敗者復活戦と見做される方はたまったもんじゃありません。

主人公が何で母親にあんなに紳士的に対応してるのかわかりませんでした。。。

自分の人生に中身がないからと娘や孫に固執するのはやめろ、と突き放しても良いと思うのに。

父親のことはほとんど映画に出てきませんが、「ごみ捨てに行くにもブルックス・ブラザーズのスーツを着てた」という言葉に何だか納得してしまいます。

父親もイヴリンと同じく、世間体や成果・評価を第一に考える人物だというのが、この一言だけでよくわかる。

ほんの一瞬、家の外に出るだけでスーツを着る行動に、「人からどう見られるか」を最も意識するという内面が象徴されています。

おそらく、人と良い関係性を築くことや、楽しい時間を共有することに興味はないタイプの人間でしょう。

恋人と出かけたダイアンを強制的に連れ戻すようなイヴリンを、経緯はどうあれ野放しにしていたようですし。

この二人が親では、温かくリラックスした雰囲気の家庭など望むべくもない。

なのに、家の外に温かい人間関係を求めようとしても、その可能性すら潰される。

イヴリンには、ダイアン(の数学の才能)しかないから。

成果や評価でしか人の価値をはかれない人には、友達と楽しく過ごす時間や、他者とのコミュニケーションを大切にする方法がわかりません。

自分がそこに価値を見出しておらず、従ってそのための手段を追求するという考え自体がないからです。

そんなことしなくても生きていける、友達と遊んでもお金は稼げない、などなど様々な信念のもとにそういう思想を持っています。

多分ダイアンやフランクは、両親といて心から楽しい時間をあまり持てていない。

きっと、成長して普通の人々が築いている温かな家庭や人間関係を見るにつけ戸惑いがあったでしょう。

他の人たちには当たり前にできることが、自分にはできない。

小さな頃は、学校で勉強ができて大人の言うことを聞いていれば、大抵は問題がない子どもと見做されます。

だから問題に気付かないまま思春期や青年期を迎えて、その後人との関わり方に戸惑う。

ダイアンが命を絶ってしまったのも、そうした生きづらさの蓄積が一因だったのではないでしょうか。

きっと、数学もそれ以外のことものびのび取り組めていたら、もっと違った人生になったでしょう。

しかし、イヴリンによって「数学しかない」人生にされてしまった。

天才という存在であるために、その苦悩を人に理解してもらうことは簡単ではなかったでしょう。

人間関係を円滑に築くすべをあまり知らないなら、なおさらのことです。

得意な(そして多分好きだった)数学も、こういう時にダイアンを救える存在ではありません。


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ダイアンのメッセージ

ナビエ=ストークス方程式の証明を持ってきたフランクは、イヴリンに「死後に公表してほしいと言われていた」と言います。

「もう死んでから七年も経ってるじゃない」とガチギレするイヴリンに、「姉さんの死後じゃない。あなたの死後だ」とフランクが言い返すやりとりが印象的です。

ダイアンはきっと、数学のことは好きだったでしょう。

でも同時に、その才能が母子の関係をがんじがらめにしたし、何より「この子は私が育てた」とイヴリンが自己正当化する理由を与えてしまう。

ダイアン自身はイヴリンの与えた子ども時代を望んでいなかったのに、です。

だからフランクに、「私の人生は母の成果物じゃない、私のもの」という意味合いのメッセージを残した。

イヴリンが見ていたのはダイアンではなく、ダイアンの才能や成果だと誰より知っていたからではないでしょうか。

イヴリンと対照的なのが、フランクやロバータのメアリーに対する向き合い方です。

メアリーの素朴な質問に、哲学の先生らしくフランクが冷静に答える場面が好きでした。

「神様はいるの?」

「わからない。会ったことがない」

ロバータはいるって言ってた」

ロバータは神様を信じてるから」

楽しい時間を全力で共有してくれるロバータがいることも、メアリーにとっては心強いことです。

こんな風に子どもに向き合ってくれる大人に、ダイアンも早くに会えていたら、生きづらさを抱えることはなかったかもしれません。

教育環境を与えること(そこそこお金があって、でも愛情はない人にとって、これほど簡単に「親らしい振舞い」ができるソリューションは他にありません)だけじゃなく、本当に楽しいこと、号泣するほどの寂しさや悲しさを受け止めてくれる人が、子どもには必要なんだと、終盤のメアリーの涙を見て思いました。

 

メアリーにとっての最適解

最終的にメアリーは、大学レベルの講義を受けつつも、もともと通っていた公立校の子どもたちと遊んだりして過ごす生活になります。

個人的には、フランクが冒頭で公立校に固執していたのもどうかなーと思っていたので(メアリーが数学を好きなら、思いっきり取り組める環境があるのは良いと思う)、良かった良かったと安心しました。

何がメアリーにとって最適なのかは、正直「やってみなければわからない」側面もあるでしょう。

でも少なくとも、最高水準の指導を受けていても、フランクやロバータやフレッドと引き離され、爆発しそうな寂しさを抱えながら過ごす毎日が良くないのは確か。

今後も、メアリーの考えを聴きながらフランクやロバータが寄り添ってくれる暮らしが続けばいいなと思います。

 

おわりに

メアリーほどの天才ではなくても、ちょっと勉強のできる子どもが生まれて舞い上がってしまった親には、誰しもイヴリンのような思想に陥ることがありうるのかもしれません。

その時、子ども自身がそれを望んでいるのか、心に寄り添ってくれる人がいなければ、大人になっても消えない生きづらさを抱えることになってしまう。

一方フランクも、メアリーとの情緒的な絆の在り方を再確認したことで、「普通の学校で過ごさせなければ」という頑なさを緩和できた変化が良かったと思います。

子ども時代に少しでも寂しさを感じたことのある方に、ぜひおすすめしたい映画です。

 

 

 

gifted/ギフテッド (字幕版)

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  • 発売日: 2018/05/23
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gifted/ギフテッド (吹替版)

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映画『トールキン 旅のはじまり』

ロード・オブ・ザ・リング』原作者の半生を追った映画のレビュー・紹介記事です。

基本的には『ロード・オブ・ザ・リング』を観た方、原作の『指輪物語』を読んだ方向けのお話です。

私は映画視聴済み、原作読了済みなので、もちろん隅々まで堪能してまいりました。

ネタバレしながらレビューをお送りします。

 

 

あらすじ 

世界中で読まれる児童文学の傑作『指輪物語』を生み出したJ.R.R.トールキン

しかし、彼の子ども時代は決して裕福でも穏やかでもなかった。

幼少時代のトールキンは弟とともに、母によるたくさんの自作の物語を聴きながら育った。

十二歳で母を亡くしたトールキンは、後見人のモーガン神父のはからいで裕福な老婦人に引き取られる。

老婦人は愛情深い人物とは言えなかったが、名門高校へ彼を送り出してくれ、そこで出会った学友たちとT.C.B.Sなる仲間を結成し、芸術の力で世界を変えることを誓い合う。

また、同じ家に引き取られて暮らす三歳年上のエディス・ブラットと恋に落ちる。

しかし、大学進学を前にエディスとの仲を神父に反対されてしまう。

 

旅の仲間

原題は”Tolkien”のみですが、日本語題の『旅のはじまり』は、『指輪物語』の第一部『旅の仲間』を意識しているのがわかります。

そして本作を観ると、『指輪物語』の旅の仲間のホビットが四人だった意味もわかります。

フロドについてきてくれる仲間の名前がサムと言うことも。

T.C.B.Sを結成した四人の仲間は、戯作や詩作など、芸術の力で世界を変える決意を固めています。

戦争で亡くなった仲間たちの存在も、物語を書くトールキンの心を支え続けたはず。

そのことが、『指輪物語』で異なる旅路を行くことになっても、それぞれ闘い続けたホビットたちの姿と重なります。

そして、第一次世界大戦ソンムの戦いで、トールキンについてきてくれたサム。

主人公フロドから絶対に離れなかったサムの姿を思い起こさせました。

映画は、トールキンの幼少時代から始まる過去の記憶と、ソンムの戦い以降の場面を行き来する構成です。

これが若干わかりにくいor展開がぶつ切りになり見づらい、というレビューも時々あり、確かに少しもったいないと感じました。

作り手の意図としては、夢と情熱を持っていた少年が、戦いで命の危機にいるという対比を強調したかったのかもしれません。

トールキンが従軍してソンムの戦いに参加していたことは、この映画で初めて知りました。

同時に、『指輪物語』で戦いが決して武勇伝の場として語られず、辛い犠牲としての一面が描かれた下地になったのかもしれないと思いました。

子供向けの本だからと言って、楽しさや明るさだけを前面に押し出すのではなく、長旅の大変さや、戦いで出る犠牲の悲しさも描くこと。

そうした読者への真剣さと、人間への冷静な向き合い方のルーツがわかった気がします。

 

寂しさと物語

トールキンは『指輪物語』の著者として有名ですが、それ以前にオックスフォード大学の教授でもあります。

そのことだけは知っていたので、何となく「きっと知的な上流家庭の出身なのだろう」と思っていました。

実際にはそうではなく、裕福ではなくても母との思い出が詰まった子ども時代と、母の不在を友情や恋で補うことを知った少年時代を過ごしています。

友人や恋人に恵まれたから乗り切れたものの、人によっては鬱屈して生きづらくなっても不思議はない環境だったことに驚きました。

でも、だからこそ、寂しい子ども時代に居場所をくれた友人や恋人、妻との原体験が物語の底に生きているのかなという納得感もあります。

貧しさや寂しさのなかでも虚構が一部心を支えたのを見ていると、フィクションだからこそ人間を救えることがあると思わされました。

教訓を与えてくれるような物語でなくても、日常を忘れられるようなストーリーに思い切り浸るだけで、次の日を迎えるための元気が得られる。

小さな頃の読書体験を振り返ると、そんな気持ちが大きかった気がします。

トールキンも、母と物語の世界を楽しんだ経験から、自分自身も子どもが心を解放し、飛び込める世界を作りたかったのかもしれません。

実際、母がトールキンに言い聞かせる教えは、内面の幸せを見出すことを強く訴えています。

でも宝は目に見えるとは限らないでしょ 見えない宝もある

幸せさえ感じれば、そこが我が家だ

彼のようにいくつもの言語に通じて世界を変える物語を書きたい、と毎日思っていた十代の頃を思い出しました。

この人がもし戦争で亡くなってしまっていたら、世界中を夢中にさせた物語は書かれず、自分の青春もどうにもなってなかったのかなと思って感慨深かったです。

原作や映画に夢中になった十代の頃を思い出しました。

 

ファンタジーで人間を描く

T.C.B.Sの仲間が口にする印象的なセリフがあります。

どう死ぬかは運命の女神次第 自分じゃ決められない でもどう生きるかは自分で決められる 女々しく生きるか 男々しく生きるか

その言葉通り、彼らは戦争すらも生き延びて芸術で世界を変える時を待ち望んでやみません。

友情と情熱にあふれた一貫した生き方には、派手な英雄的要素はなくても心を打つものがあります。

トールキンが描く世界はハイファンタジーと呼ばれ、私たちが生きる21世紀の世界とも、トールキンが生きた20世紀の世界とも全く違います。

しかし、そこに生きる人々は私たちを同じ心を持ち、感情を共有することができます。

どんな状況で生きていようと、大切なのは魂や心の在り方なんだとしたら、どんな世界に生きている人のところにも、言葉や物語は読者を連れて行ける。

同じ心を持って生きている人のもとへなら。

また、ファンタジーだからこそ、現実世界でのリアリティを度外視してメッセージの純度を高めることもできます。

そうした物語の在り方は、内面の幸せや誇りを大切にしたトールキンの生きざまをぶつける世界として、何より適したものだったかもしれません。

 

おわりに

脚本や展開については、やや地味な映画と言えます。

しかし、トールキンのファン、『指輪物語』のファンであれば、ぜひご覧いただきたい映画です。

子どもにも大人にも、冒険を通じた成長を教えてくれた著者トールキンの半生を垣間見たい方に、ぜひおすすめしたい作品です。

 

  

 

トールキン 旅のはじまり (字幕版)

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  • 発売日: 2019/11/29
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トールキン 旅のはじまり (吹替版)

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ブログとカクヨム

ブログについて

春以降、焼けぼっくいに火が点いたかのように再び更新を続けております。

昨年度は、映画や本のインプットだけではなく、アウトプットの活動にも注力しており、ブログからすっかり遠ざかっていました(ブログもアウトプットなんですけどね)。

執筆活動や、自主映画の撮影など、自分の創作意欲をぶつけられるというのは、何歳になっても楽しいなと実感していました。

今は、映画業界も、映画館など上映の場、撮影などの制作の場、その他さまざまな関連業種の方が大変な時期を迎えられていると思います。

配信サービスだけは巣ごもり需要で好調かもしれませんが、一度コンテンツを渡してしまうと、クリエイターの方から反響が見えにくいという課題もあるようですし、難しいところですね。

(ただ配信事業そのものは凄い成長産業みたいですね、特にネットフリックスの時価総額トヨタクラスだとか)

何とか危機を乗り切っていただき、新しい映画が次々生み出され、観たい人が次々映画を観に行ける状況が戻ってきてくれるのを待つばかりです。

 

今年度は、コロナ及びそれ以外の諸般の事情で、自主映画の現場に関われることはなさそうです。

なので、アウトプットの機会はブログと、執筆活動のみです。

ブログは過去記事でGoogle流入が定着しているものがあり、更新が続くとそれに上乗せされてPVが増えるような状況です。

一番の人気記事は、和製ヌーベルヴァーグの『月曜日のユカ』でした。

kleinenina.hatenablog.com

kleinenina.hatenablog.com

とは言っても更新頻度も高くないし、PVは微々たるものなのですが。

ただ、時折PVがバコーンと数百跳ね上がる日があり、一体どこから見ていただいているのか心底謎です。

だいぶ前にはSmartNewsに掲載されたことがちょくちょくありましたが、今はチェックしてみてもその形跡がなく。謎。

でも見ていただけるのが嬉しいのでできる限り続けます。

ヨーロッパの歴史事情が絡む映画や、難解な哲学のある映画を、本質を損なわずわかりやすく説明する、ということを続けたいと思うので。

ドラマもちょくちょく記事書いていきます。

 

カクヨム始めました

ブログは途切れ途切れですが続けてきたので、書くものに戸惑うことはあまりないのですが、純然たる創作の執筆活動にものすごい時間を取られています笑

シナリオだったり小説だったりしますが、今のところ楽しさ先行で続けています。

ほとんどの作品は未公開の状態の中、一作品だけカクヨムで公開しています。

kakuyomu.jp

唐突感が否めませんが、ジャンルは古代日本ファンタジーです。

レビューしてる映画とリンクする要素が一個もない…!

そして、一般文芸寄りのストーリーなので、ライトノベルが多いWeb小説界で圧倒的に浮いています笑

けどこれはこれで楽しく続けたいと思います。

内容は日本神話をベースとした世界での大河ファンタジーとなっております。

 

引き続きどうぞよろしくお願いします。

映画『パラサイト』

今年のアカデミー賞作品賞受賞作をご紹介します。

ネタバレせざるをえないのでネタバレしながらレビューいたします。

 

 

あらすじ

半地下の薄汚い住居で暮らす四人家族、キム一家は、全員失業中。

貧しいが家族の仲は良く、悪態をつきながらもなごやかに暮らしていた。

ある日、息子のギウが友人の家庭教師の仕事を引き継ぐことを打診される。

留学する間だけ、裕福な家の女子高生のダヘに英語を教えてほしいという。

妹ギジョンの作った偽造入学証の助けもあり、見事家庭教師の仕事をもらうギウ。

さらに、ダヘの弟の家庭教師や、運転手、家政婦に、失業中だったキム一家は次々とありついていく。

だが、山の手の高級住宅地に住むダヘの一家には、ある秘密が眠っていた。

 

前半と後半のメリハリ

卓越した余韻の残し方が特筆すべき本作。

観終わった後まずは、「後味…!!」としか言えませんでした。

前半は『万引き家族』と『デスパレートな妻たち』を足して2で割って若干『アンダー・ユア・ベッド』した感じかなと思いながら観ていました。

でも、後半の緊張と絶望のゲージの高め方が凄い。

万引き家族』でも『デスパレートな妻たち』でも上手いことスルーされていた視点を、油断してる間に突きつけられた感があります。

「貴方たちはいいよね。だって持ってるんだから。でも私たちにはないの」と言われてる感じ。

万引き家族』は「貴方たちが持ってるものを私たちは持ってない。でも私たちは貴方たちが理解できないものを持ってる」だったのと好対照です。

デス妻』も家政婦とか運転手とかいった立場の人々が出てきますが、その辺は全部スルー。

触れないのがマナーというのが確立されてそうだし、アメリカでやるのは難しそうな切り取り方です。

持たざる存在と徹底的に向き合って、「救うべきは社会なんだ」って訴えるヨーロッパ映画の論調とももちろん違います。

国自体が上り調子で豊かになれる希望があるわけでもなく、かと言って全部社会のせいにできるほど荒れた国でもなく、という絶妙な諦念がある韓国だから切り取れたんじゃないかと。

本気でやればもっとしんどく描けるところを、この重さに留めたのは、あくまでエンタメとして仕上げようという意図からでしょう。

前半の和気藹々とした家族と、後半の鬱屈の積み上がり方の対比が鮮やかでした。

 

比較と不幸

後半の展開は、人は比較するから不幸になる、という原理のお手本のようです。

前半は、偽造入学証書を手に出かけるギウに「お前は我が家の誇りだ」とおどけて語る父ギテク、抜群のチームワークを見せる兄妹、肝っ玉母ちゃんのチュンスクが和気あいあいと暮らしています。

次々とパク一家の家庭教師、運転手、家政婦に就職する手際は鮮やかなもの。

それも全員が一致団結しているからこそできることです。

住んでいる地区はガラが悪く、住居も清潔とは言えないものの、特段悲観しているようにも見えません。

パク家に入り込めたのも、「羽振りのいい家に就職できたぜラッキー」という無邪気な喜び。

しかし、彼らの不在中にコソコソ酒盛りし、あわや前任の家政婦に弱みを握られそうになり、テーブルの下に身を隠し……と、「金持ちのおこぼれをもらうしかない立場」に気付かされる瞬間が次々やってきます。

極めつけは豪雨による洪水。

家が水没してめちゃくちゃになり、どうすればいいのか途方に暮れながらも、パク家のパーティーのために出勤しなければなりません。

キム家の水没など知る由もないパク夫妻は、「雨が降ってかえって良かった」「分をわきまえて仕事をしなさい」など、知らず知らずのうちにギテクの心をえぐる発言を繰り返します。

ギウも、突然のパーティーの誘いにも颯爽と集まり、チェロ演奏や雅な会話を繰り広げるパク家の知人たちを遠い眼で見ています。

自分たちの暮らしの中で幸せを味わっている内は、気にならなかったこと。

それが、他人の幸せを垣間見た途端に、色あせて見えてきます。

このへんは、特にSNSとともに生きてきた世代の人に、世界中で共感されるポイントではないでしょうか。


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金持ちだからこそ

裕福なパク家の奥様ヨンギョは、人が良い美人。

運転手の仕事で彼女と関わるうち、ギテクは好感を持ち、秘密の酒盛りで妻とこんなやり取りを交わします。

ギテク:奥様は本当に純粋でお優しい方だ 金持ちなのに

チュンスク:私に言わせれば“金持ちだから”だよ!

 このセリフは本作の本質を突いているのではないでしょうか。

ギテクの一家も、家政婦のムングァンも、人に言えない後ろ暗い事情を抱えています。

秘密がないのは奥様をはじめとするパク一家だけ。

ギテクを追い込む発言にしても、彼らがアンダー・ザ・テーブルの時の行動にしても、パク夫妻なりの真面目な生き方や幸せを実践しているだけ。

自然体なのに清く正しく幸せでいられるのは、彼らが豊かだから。

自分だって、富裕層の家に生まれれば、後ろ暗いことなんてしなくて済んだ。

そう思った瞬間に、今まで胸の奥に淀んでいた嫉妬が、一気に激しさを増したかもしれません。

アメリカほど激しい格差社会じゃなくても、紛争国や政情混乱のある国じゃなくても、お金がなければ生きることはやはり大変です。

しかも、平和な国であればあるほど、優雅な幸せや丁寧な暮らしを噛みしめている人の姿がすぐそばに見られてしまう。

この点は、日本人も共感できるポイントではないでしょうか。

命が危ないほどの困窮ではなくても、自分が「持たざる者」だと思い知らされることは、精神衛生の維持を著しく困難にします。

本作は社会問題を問う作品ではなく、エンタメだとは思いますが、世界中でたくさんの人が感じながらも形にできなかった感情を、鋭く描き出していると思います。

 

おわりに

正直、展開の上では期待が膨らみすぎていたぶん驚きはまずまずでした。

しかし、「この後どうなるのか」という想像のつかなさ(つかせなさ)が一貫しているストーリーです。

テンポのいい展開に、最後まで飽きることなく観ることができました。

それだけに、後味の残し方も鮮烈で、見事に監督の術中にはまった自信があります。

「計画を立てると、人生は必ずその通りに行かなくなる」というセリフは、最後のギウの計画の行方を暗示しているようでした。

なお、ギテクのとあるセリフで、ユン運転手が再登場するのかなと予想してたので、そっちかーい!と裏をかかれたことも告白します。

息つく間もないミステリーが観たい、という時におすすめの作品です。

 

 

 

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パラサイト 半地下の家族(吹替版)

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映画『蜜蜂と遠雷』

人気音楽小説の映画化作品をご紹介します。

原作を読んだから、松岡茉優ちゃんが好きだから、というある意味安直な理由で観てみた本作ですが、これが大当たりでしたー。

原作より素晴らしいと思った映画化作品は初めてかもしれない。

映画館で観てから時間が経っていますが、振り返りながらネタバレレビューします。

 

 

あらすじ

天才少女と呼ばれ、小学生の頃からリサイタル活動をしていたが、母の死をきっかけに表舞台から去っていた音大生・栄伝亜夜。

かつて日本で暮らしていたが、現在はジュリアード音楽院で勉強中のマサル

岩手で家族と会社員生活をしながら、ピアノコンクールへ再挑戦する明石。

欧州で養蜂を営む父と移動生活をしながら、誰のものでもない音楽を追求してきた塵。

近年注目度を高めてきた芳ヶ江国際ピアノコンクールで、若い個性のぶつかり合いとドラマが映し出される。

 

原作との比較

全体的に、登場人物を絞り込んでドラマが凝縮され、密度が高まっていました。

さらに、原作ではお茶を濁されて終わった本選の演奏をクライマックスに持ってきていたことに大満足。

後半に登場する鹿賀丈史さんの役もドラマを引き締めてました。

実は、原作では松岡茉優ちゃんの役があまり好きじゃなかった(ついつい「練習しろよ…」と思ってしまうし、才能を活かさない本人に対して周囲が優しすぎる)んですよね。

高校時代、音大受験のため修学旅行ですら犠牲にして毎日練習時間を確保してた同級生を見てたら、「才能あるのに何言ってんだ」と思えてしまい…

何かを持って生まれたことはその人の罪ではないけど、他の人が血の滲むような努力をして手に入れたかったものを、何でおざなりにするんだ、と思わせる絶妙なイラっと感がありました。

しかし映画では、内省的で自分の音楽を解き放てない役が確立されてた結果、終始彼女に感情移入しながら観ることができました。

マサルとのイチャイチャが抑えめに書かれていたことも貢献してると思います。

内面に閉じこもりがちなキャラクター、所在なさげな心持ちが、画面上の彼女を観ているだけでバキバキに伝わってきました。

それだけに、塵が不意にあやの心に入ってくる場面場面でどうしようもなく涙を誘われます。泣く映画だとは思わなかったのですが。

お母さんとの突然の別れに向き合えず、お母さんの記憶と結びついた「音楽への愛」にもどこか蓋をしてしまっていた亜夜。

全編を通じて、ままならない鬱屈に苛まれる彼女の姿を観るからこそ、最後の晴れやかな笑顔に心が洗われます。

すべてをぶつけた演奏を通じて、観ている自分も亜夜と一緒にカタルシスを共有できたような気持ちになれました。


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映像の美しさ

今更これを書くのもなんですが、機会があれば絶対に絶対に映画館で観るべき作品だと思います。

音楽映画なので、ぜひ良い音響環境でご覧いただきたい!というのも勿論あります。

加えて、音楽映画は絵面的には地味と思われるかもしれませんが、そんなこともないんですよね。

国際コンクールの会場となる芳ヶ江は、架空の都市で実在はしないようです。

(コンクール自体は浜松のコンクールをモデルにしている)

しかし、ところどころ映し出される海辺の町の風景は、おそらく瀬戸内海沿いの町かなと思わせる風光明媚さがあります。

特に亜夜が工房へ向かう場面の青い夕闇が綺麗でした。

後半の砂浜は瀬戸内にしてはちょっと雄大で寂寞感あふれる感じで、これは違うロケーションで撮ったのかなと思いますが。

でもこの場面も非常に印象深い映像になっていて好きです。

そして何より万感のラストシーンは特筆すべき。

マサルや塵の最後の演奏はこれまでと比べるとなんか抑えめじゃない?と思ったり、弾いてる演技は茉優ちゃんより他の3人のがうまいかなと思ったりしてたけど、「このラストシーンを創るためだったのか!」と謎が全部解けました。

 

個性あふれる群像劇

コンテスタントたちの個性は、セリフや行動にももちろん表れているのですが、何と言っても演奏に注目が集まります。

特に『春と修羅』は全員が同じ曲を弾くので、解釈の違いが鮮明に表れます。

その中でも、カデンツァと呼ばれる即興部分をどのように演奏するか、各演奏者についてクローズアップされています。

原作の文学作品の美しさを抽出しようとする演奏、東北の冬の酷薄なまでの厳しさを投影する演奏、豊かな個性でその時感じたままを映し出す演奏と、弾き手によって全然違う音楽が生み出されます。

純粋に音楽だけ、あるいは演奏の映像だけでは、普段クラシックを聴き込んでいない私のような人間には違いがわかりにくいかもしれません。

しかし本作では、蛇足にならない程度にわかりやすく、音楽の特徴を映像化して伝えてくれています。

一人一人のカデンツァの違いのみならず、他の選考での個々人の演奏も、個性を理解しつつ堪能できました。

そして、クラシック音楽について皆が確固たる信念を持っているのがかっこよかった。

音楽は選ばれたお金持ちだけのものじゃない、という信念のもと、一庶民としてコンクールに挑戦する明石。

大きなホールや特別な空間だけで演奏されるクラシックを、閉じられた世界から連れ出したいとの情熱を持つ塵。

かつてのヨーロッパでそうであったように、クラシック音楽の「新作」を生み出したいと考えるマサル

音楽はどこにでも宿っているから、コンサートピアニストにならなくても良いと思っている亜夜。

普段なかなか関わることのないクラシック音楽について、様々な切り取り方で魅了してくれる映画でした。

 

おわりに

全体的にかなりハイクオリティの邦画でした。

一つ言うとすれば、メインの四人が素晴らしかったけど、女性の端役が前に出過ぎてて総合バランスが惜しいところでしょうか。

特にブルゾンちえみさんは抑えきれない迫力(仕方ないかもしれませんが)。

あと審査委員長の斉藤由貴さん。

芸能界の事情がいろいろあるのだと思いますが、作品全体の仕上がりを考えればもう少し抑えめになったかもと思います。

とはいえ、上質なピアノ音楽と青春群像劇をお探しの方にはぴったりの一作です。

ぜひ良好な音響環境で視聴することをおすすめいたします。

 

 

 

蜜蜂と遠雷

蜜蜂と遠雷

  • 発売日: 2020/03/08
  • メディア: Prime Video
 

 

映画『17歳』

フランソワ・オゾン監督による、ある少女の一年を追った映画をご紹介します。

たくさんの人にあまねく響く内容ではないかもしれませんが、個人的にはかなりポイントの高い映画です。

性的描写の多い映画なので、苦手な方はスキップして頂いた方がいいかもしれません。

しかし個人的には、人間の心と体について真摯に描いた映画と認識しており、フランス映画の中でも最も好きな作品の一つです。

ネタバレしながらレビューします。

 

 

あらすじ

17歳のイザベルは、家族で夏の旅行に訪れた南仏で、同じくバカンスに来ていたドイツ人の青年と初体験をする。

その後、パリの家に戻ったイザベルは、出会い系サイトで不特定多数の男たちと会い、金と引き換えに身体を提供するのが習慣になる。

イザベルの身体を欲し、買春しておきながら、彼女の行動を罵り、蔑む男たち。

一方のイザベルも、男たちと会った後には執拗に体を洗うなど、彼らへの嫌悪感を持ちつつまた次の密会へと出かける。

しかし客の一人ジョルジュは、他の男たちとは違うやり方で彼女に接する。

ジョルジュの振舞いから何かを感じ取りかけたイザベルだったが…

 

映像の美しさ

オゾン監督作品は、『スイミング・プール』しか観たことがなかったのですが、その時にはここまで美しい映像を撮っていた人とは知りませんでした。

映像の流れが自然で、主人公イザベルが美しすぎて、本当に時間を感じさせません。

風景や人物の美しさに目を奪われている間に、何分も時間が経っているように思いました。華麗なる時間泥棒。

どこを切り取っても美しいし、次のシーンが見たくなります。

良いカット割りとは、カットが切り替わっていることを感じさせない、自然な映像の移行だと言われますが、まさにこの作品が典型なのではないかと。

特に序盤の南仏は良かったです。

夏の陽射しも、砂の手ざわりも、最も美しい色合いで切り取られているようです。

登場人物たちと近すぎず遠すぎない構図も、まるで自分がその場にいるかのように感じるのを手伝っています。

主人公の美しさについては、主演のマリーヌ・ヴァクトの多大な貢献によるものです。

美しくカメラ映えするし、よくぞここまで、と思うくらい脱いで体当たりの演技を披露しているのに、演技に見えない「普通の女の子」の雰囲気を纏っています。

 

語られない売春の動機 

イザベルがなぜ不特定多数に売春するようになったか、劇中で詳しくは語られません。

彼女の行動が露見し、警察から事実を告げられた母親は、「何ということをしてくれたの」と逆上して怒りをぶつけます。

その状況で動機の吐露なんてできないので、もちろんイザベルは何も語りません。

映画終盤でも、カウンセラーに二言三言、ジョルジュがどういう存在だったかを呟くだけで、セリフによる説明はほぼ皆無です。

映画の中の視覚情報に動機を求めるしかないわけで、となると、冒頭の初体験のシーンに立ち戻ることが不可欠です。

イザベルは浜辺での初体験で、まるで幽体離脱したかのように、ドイツ人青年と抱き合う自分を見つめているもう一人の自分を見ます。

多分、似た気持ちを味わったことがある人は少なからずいるのではないでしょうか。

性交渉が、映画や小説で描かれる通りの最上の愛の表現なのであれば、自分を冷静に見る視点など抱きようがなく、夢中になれるはず。

それなのに、違和感や痛みでそれどころではないし、時間や客観を忘れるほどの感情も押し寄せてこないし、でも何でか相手は満足している。

「え、これってこういうものなの」という戸惑いを排しきれなかったことが、抑えた演技からも伝わってきます。

映画や小説で描かれる表現とはあまりに隔たりがあって、でも事が起こる前とは違う自分がいて、しかも相手はなんか満ち足りてるしこんなもんなの?という当惑は、その後も解消しきれなかったのでしょう。

初体験より前の場面で、イザベルは性的快感そのものは知っていることが示唆されています。

なので、「こんなんなら一人でやってた方が…」という気持ちもあったでしょう。

極端なかたちで性行為を重ねるようになったのは、売春と比べればあの体験が間違いでなかったことを確かめたいからなのか、

継父はいるけれども父親の不在をどこかで埋めたいと思っていたのか、

行為そのものについて、どういう体験なのかをもっと突き詰めて知りたいと思ったからなのか。

多分それらが入り混じった感情だったと推測します。

フランス映画らしく、詳らかに説明せず考えさせるお話であるうえ、難解な部分も多いからなのか、オゾン監督もインタビューで色々と雄弁に語っていました。

フランソワ・オゾン監督が新作『17歳』で思春期の自我とセクシャリティをテーマにした理由|男たちとの情事にのめり込んでいく少女イザベルの日常を綿密に描く - 骰子の眼 - webDICE

 

思春期の心と体

上述のインタビューから、オゾン監督の発言を抜粋します。

…思春期は人間としての複雑な移行期だ。それは痛々しいものだし、僕は何ら郷愁を感じない。僕は思春期を単に感情が揺れ動く時期としてだけ描くことから一歩踏み出し、思春期とホルモンの関係を掘り下げたかった。僕たちの体は強烈な生理学的変化を経験していくが、僕たち自身はそれを敏感に感じ取れていない。だから、何かを感じるために体をあえて傷つけたり、肉体的な限界を試したりする。売春というテーマにより、それをクローズアップして取り上げられるし、思春期に持ち上がる自我や性の問題を綿密に描くことができる。そこでは、性はまだ感情と密接な関係で結ばれていないんだ。

ここが、イザベルの売春の動機解明に最も重要な部分と思われます。

前項でも書きましたが、イザベルは性的快感は知っているものの、初体験がそれに結びつかないちぐはぐさを感じています。

本能レベルでは快楽に分類されていることのはずなのに、初体験は違和感しかなかった。

後半に出てくる女友達が、初体験が思っていたのと違って泣いている描写は、わかりにくいイザベルの内面を一部代弁させる役割があるのかもしれません。

そして、パリに戻ってから手を染める売春相手の男たちは露骨にひどい。

客に会う服に着替える場所がメトロの汚いトイレなところとか、神経質な表情でイザベルが体を洗うところから、イザベルが彼らに嫌悪感を抱いていることはあらゆる角度から伝わってきます。

あらゆる描写がガチガチにロジックなんですが、すべての映像が自然なところが凄まじいクオリティです。

それでも身を削っての探求をやめないイザベルと、客の一人のジョルジュは徐々に打ち解けていきます。

おそらく、身体が感じる性的快感と、心が感じるつながり、イザベルの中で融合しない二つの差を埋めるもの、その片鱗をジョルジュの中に見たのだと思います。

彼がイザベルから手っ取り早く快楽だけを得ようとせず、彼女を大切な存在として扱い、一緒にいる時間を味わおうとしたことが、心を動かします。

ジョルジュも買春している時点で紳士とは言えないのですが、少なくともイザベルにとっては、彼の優しさが嘘のない物に見えている。

この関係性から思い浮かぶのは、つい最近話題になった芸能人の不倫「本能の発露でしかない行為を愛につなげるのは、誠意ある手続きでしかないんじゃないか」という考えです。

誰かを行為の対象に選ぶことは、イコール愛しているということではない。

だから、愛を伝える別の手立てが存在して、その様々な様式を実践することによって体の愛と心の愛を統合していくのではないか。

早い段階で統合できる機会がなければ、またイザベルは売春に戻ってしまうんじゃないか。

本作を観て、そういう観点に気付かされたわけですが、あまり言葉にされないだけでどこかに皆抱いてる感覚だと思います。

「女の子の一番大切なものをあげられる」のは大切な相手である一方で、「一番大切なもの」だけを奪っていく態度は最も尊厳を毀損するものと見做される。

上記を、人間が日々やりとりする他のもの(お金や言葉)に置き換えても多少の類似性は見られるものの、やはり愛や体の関係ほどのインパクトはありません。

その点で、オゾン監督は今まで切り取られていなかったことを切り取ってくれたと言えます。

もし類似作品を挙げるとしたら、同じく身体の愛と心の愛の関係を掘り下げた映画、中平康監督の『月曜日のユカ』が挙げられます。

kleinenina.hatenablog.com

 

成長と不条理

イザベルが、客の男から売春行為を罵られる場面があります。

買っといて何言ってんだこいつと言うのが素直な感想ですが、彼としては切実な思いなのでしょう。

自分の本能が欲する身体を、値札をつけて金銭と引き換えにしやがって、という。

例えるなら、どうしても欲しい限定品に法外な値段をつける売り手を恨みたい気持ちのような。

未成年のイザベルが法律的には買春の被害者であるように、まだ彼女は守られるべき存在のはずです。

しかし、少女でなくなってから初めて持つ力のことを、男であろうと女であろうと危険視し蔑もうとする不条理も描写されていました。

本人にとっては成長の一過程であって、誰もが経験した通過点のはずなのに、子どもが女性になることに何らかの嫌悪が向けられる。

これもまた、オゾン監督が描きたかった思春期の混沌の一つなのでしょう。

 

おわりに

監督が真剣にリサーチして作ったというのも納得のクオリティでした。

性別も世代も超越した洞察力が凄いです。

筆者は女性ですが、これを男性監督が撮ったことに驚きを禁じえませんでした。

性描写がサービスショットや雰囲気モチーフとしてじゃなく、人間の切り離せない一部として取り上げられている、真摯な映画だと思います。

男女問わず様々な人からの考察を聞いてみたいです。

心と体の愛について考えたいときにおすすめの映画です。 

 

  

 

17歳(R-18バージョン)(字幕版)

17歳(R-18バージョン)(字幕版)

  • 発売日: 2014/09/05
  • メディア: Prime Video