カトリック教会で長年横行していた児童への性的虐待を暴いたボストン地方紙の、ジャーナリストたちの活躍が映画化されていました。
彼らの葛藤や真剣な思い、虐待司祭への怒りなど、密度の高いヒューマンドラマが展開されます。
あらすじ
ボストン・グローブ紙の編集長に、ユダヤ人のマーティ・バロンが着任した。
彼は長期取材を基にした記事を載せるコラム『スポットライト』で、ゲーガン神父の性的虐待疑惑を追うよう指示する。
はじめは疑惑を持たれる神父個人の問題と捉えていたジャーナリストたちだったが、次第に彼と同じような不審な異動を繰り返し、性的虐待を続けていた神父が多数いることを知る。
虐待が明るみに出そうになるたびに、神父を異動させて事態を有耶無耶にし、神父は異動した先で新たな虐待をする負の連鎖だった。
教会の隠蔽体質と、神父の卑劣な行為により成り立っていた状況を暴くため、記者たちは怒りと使命感を持って取材を進めるようになっていた。
カトリックの聖職者について
カトリックの聖職者は下から順に助祭、司祭、司教の位があり、司教の中でも大きな範囲を束ねる者が大司教で、彼らのトップにはローマ法皇がいます。
今回焦点が当たるのは主に司祭と呼ばれる人々で、一般的に神父という敬称をつけて呼ばれています。
彼らは修道院で集団生活をする聖職者と違い、教会など一般信徒のそばで暮らします。
プロテスタントと違い、結婚せず生涯独身を貫くことが求められますが、この伝統が性的虐待を生み出す理由の1つだと劇中で指摘されていました。
抑圧された性的欲求の対象に、子どもたちが選ばれてしまったためです。
「ボストンに13人もの虐待神父がいる疑いがある」と話すジャーナリストたちに、教会の精神療養所で働いていたサイプ氏は言います。
少なすぎる 全体の6パーセントは小児性愛者のはずだ
卑劣な虐待行為と隠蔽
性的虐待を行う時、司祭たちは社会的に特に弱い立場の子ども、すなわち親の庇護が見込めない子どもをターゲットにしていました。
そうした家庭は経済的に困窮したり、社会的に孤立したりしており、家の外に助けを求めることも難しかったようです。
また子どもたちは、キリスト教徒を指導する立場の司祭たちは神様の立場を代表する人であり、批判してはいけないという認識があったため、誰にも苦しみを訴えることができないまま。
貧しい家の子ほど、指導者である神父に構ってもらえることに嬉しさを感じるというのも、問題の背景の1つでした。
そして被害者は、苦しいときにこそ救いとなるはずの宗教の指導者に、どん底に突き落とされた結果、どこにも救済を求められなくなってしまいます。
大人になっても心の傷が癒えないまま、薬物や飲酒にのめりこみ、最悪の場合命を絶ってしまう被害者も多かったとのことです。
『スポットライト』のその後…生き抜くことができなかった神父による性的虐待の被害者 - シネマトゥデイ
さらに、カトリック教会は、構造的に性的虐待問題が続いていることを知りながら、彼らを転属させて別の教区に配置したり、
療養休暇の名目で教区から離したりして、問題を隠蔽していました。
虐待神父が何度も転属や療養していると突き止めた彼らは、今度は転属や療養の回数が多い神父を洗い出していきます。
カトリックとボストン
誰かが虐待を白日の下にさらそうとするたび、教会の妨害が入っていたことも明らかになります。
前述の、教会の精神療養所で働いていたサイプも、記者たちに虐待被害を訴えたサヴィアーノも、神父を告発しようとしているガラベディアン弁護士も、
教会によって情報を握りつぶされたり、頭のおかしい人間だと評判を立てられたり、資格を剥奪されそうになったりしていました。
神父の虐待を隠ぺいするだけでなく、被害を告発しようとする者を攻撃したこともまた、カトリック教会に自浄能力が皆無だったことを示しています。
教会は、宗教的・社会的権威を守るためだけに、子どもたちの信仰と尊厳を踏みにじったと言えるからです。
劇中でジャーナリストたちが義憤に煮えくり返るのと同じように、いち社会人として強い怒りを覚えます。
しかし、ボストンにおいてカトリック教徒は大きな割合を占めており、コミュニティ内で存在感を持つ教会に対する批判は、持ち上がることはありませんでした。
『スポットライト』で虐待神父を取り上げるよう新編集長のバロンがかけあったのも、彼がボストンの外から来たいわばよそ者で、カトリックではなくユダヤ教徒だったために、しがらみなく真実を追求できたからでしょう。
ジャーナリストたちの群像劇
明らかにされた虐待の実態について主に書きましたが、取材を進めるジャーナリストたちのヒューマンドラマも見どころの一つです。
記者たちは、虐待神父に対する激しい義憤や、自分の子どもを守りたいという切実な思い、人々の生活に密着したカトリックを糾弾するジレンマなど、様々な感情に見舞われます。
終盤の印象的な場面は、記者の1人が過去に自分の書いた小さな記事について、チームの前で告白する場面です。
自分はかつて虐待神父についての告発を受け取っていたが、大きく扱わず、小さな記事で済ませてしまったことを後悔していたのでした。
編集長バロンが言った言葉が記憶に残りました。
タイトル『スポットライト』の内容にぴったり合う言葉です。
私たちは毎日闇の中を手探りで歩いている
光が射して初めてそこが間違った道だとわかる
以前何があったかは知らないが
君たち全員本当によくやってくれた
おわりに
『スポットライト』のスクープが出た後、世界中でカトリック司祭による虐待が告発されました。
ラストシーンの後、「カトリック聖職者による性的虐待被害が明らかになった都市は次の通り」と表示され、
画面が切り替わると何十もの都市名が書かれていた時には心底ぞっとしました。
しかも、それが1回だけじゃなく、画面何枚分も表示されていたので…。
何人もの子どもの心が踏みにじられてきたことに胸が痛む一方、
日本相撲協会もびっくりの自浄能力のなさに言葉もありませんでした。
しかし、スペイン映画『バッド・エデュケーション』でも、神父による性的虐待について周りの誰も咎めていなかったことを思い出しました。
台詞が多く、展開も速く、なかなか頭を使う映画ですが、見ごたえは充分です。
昨今のアカデミー賞は社会派作品に寄りすぎとの批判もあるようですが、 そういう批評があろうとなかろうと、沢山の人に観てもらいたい映画だと感じました。