映画『バッド・エデュケーション』
スペイン映画の巨匠・アルモドバルの半自伝的映画のレビューです。
抑圧的な寄宿学校で起こった性的虐待と、少年たちのその後をミステリアスに描きます。
「劇中劇と現在の交錯」以降は、核心ネタバレとなるのでご注意ください。
あらすじ
若くして成功した映画監督エンリケのもとに、寄宿学校の友人だったイグナシオが訪ねてくる。
彼らの少年時代をモチーフとした脚本を持参し、物語の重要な役を演じたいとエンリケに掛け合うイグナシオ。
エンリケは承諾するが、自分の知っているイグナシオと目の前の男が同一人物かを疑い始める。
一方、映画の撮影は進んでゆき、フランコ独裁政権時代のカトリック寄宿学校で、イグナシオが受けた性的虐待について描写されてゆく。
脚本の魅力
アルモドバル監督の映画でしばしばあることですが、本作も序盤では先の展開が全く読めません。
屈託のなさそうなイグナシオと、彼の様子に内心で疑念を抱くエンリケ、けれども映画製作の話は淡々と進み、彼らの少年時代の記憶が紐解かれていきます。
寄宿学校時代に彼らに何があったのか、
幼少時代の出来事と現在がどうつながるのか、
エンリケを取り巻く撮影状況と人間関係がどう展開するのか、
観る側に様々な好奇心を持たせたまま映画は静かに進んでいきます。
少年時代の事件
イグナシオとエンリケは、フランコ政権下の抑圧された時代、カトリック寄宿学校の同級生でした。
カトリックの神父が教諭・校長を務める学校で、イグナシオはその美しさと歌の巧さが仇となってマノロ神父に気に入られてしまいます。
マノロ神父が学校の要職を占めるようになったこともあり、イグナシオを彼から遠ざけてくれる者はいません。
お互いのことが好きだったエンリケにも、マノロ神父が目をつけ始めます。
マノロの手からイグナシオを守るどころか、喜んで差し出そうとする周囲の神父にも吐き気がしますが、
何より悪びれずイグナシオを自分の好きにしようとするマノロは、完全に倫理観を失っているとしか言えません。
イグナシオの歌う『ムーン・リバー』に魅了され、彼を見つめるマノロ神父の表情は鬼気迫っており、同時に欲望がむき出しで、観ている人間の背筋を冷やさせるのに充分な光景でした。
事件が起こったとき、イグナシオたちはおそらくほんの10歳ほど。
善悪を判断したり、大人に逆らってどこかへ助けを求めることも困難な年齢です。
全体的に緊張感のある学校時代のシーンですが、ハラハラすると言うよりも、同じ大人として、自分の欲望のためだけに子どもにトラウマを植え付ける神父に対し、単純に憤りを感じました。
劇中劇と現在の交錯
イグナシオが持ってきた脚本は、彼らの寄宿学校時代をモチーフにしたパートと、卒業後にドラッグクイーンとなった彼がエンリケと再会する架空のパートとに分かれていました。
イグナシオは、サハラと名乗るドラッグクイーンを演じたいと申し出ます。
少年の頃の面影がないイグナシオに、エンリケは違和感を覚えます。
そのためか、サハラ役を演じるべきではないと説得するものの、イグナシオはサハラ役に固執。
違和感をぬぐい切れないエンリケはイグナシオの故郷を訪れ、彼の身辺を調査します。
彼の実家に辿り着いたエンリケは、一緒に映画を作ろうとしているイグナシオが、かつて同級生だった人物とは別人だと悟ります。
エンリケに脚本を持ってきた人物の目的は何なのか、
脚本の中で、大人になってからマノロ神父に復讐しに行ったサハラ(イグナシオに当たる人物)は一体どうしているのか、
複数の謎が交錯したまま映画は進みます。
過去、劇中劇、現在の切り替えが見事で、物語に惹きつけられたままラストまで展開が進んでいきました。
単なるドラマだけではなく、ミステリーとしても先が気になってしまう映画です。
満たされない愛憎劇
イグナシオは亡くなり、一緒に映画を撮っているのは彼の弟フアンだと知ったエンリケ。
フアンの目的が分からないまま、映画を撮り続けますが、彼はクランクアップまで真実を明かすことはありませんでした。
そして、突然現れたマノロ神父本人によって、エンリケはイグナシオの死の真相を聞かされます。
幼いころのトラウマがきっかけでか、ドラッグに溺れ、自堕落な生活を止められなかったイグナシオは、人生をやり直す資金を得ようとマノロを脅迫していました。
マノロはイグナシオの弟フアンを見て恋に落ち、フアンもそれに応えます。
それだけでなく、2人で麻薬の過剰摂取に見せかけてイグナシオを殺したのでした。
死の真相は、イグナシオの人生の満たされなさを象徴するような出来事です。
幼少期にトラウマを追い、初恋の相手と引きはがされ、大人になってからは退廃的な生活を止められなくなってしまう。
一念発起してリハビリ施設に入ろうと決めた矢先、復讐しようとしたマノロ神父と実の弟に殺されてしまう。
死の真相は誰にも知られない。
それに対して、フアンの悪びれなさはマノロと同様恐ろしいほどです。
兄の人生を壊したマノロと関係し共謀する。
自分が殺した兄になりすましてエンリケを訪ねる。
殺人を咎められても、「田舎町で同性愛者の兄を持つことがどれだけ面倒なことか」と吐き捨てる始末。
フアンがイグナシオの脚本を世に出そうとしたこと、サハラを演じることに拘っていたこと、サハラを演じ切って泣いていたことについては、兄に少しの思い入れがあったのが理由だと信じたくなりますが。
愛も憎しみも果たせなかったイグナシオは、最期エンリケに会えたら何を語っただろうと考えてしまいました。
イグナシオの満たされなさと、エンリケの動揺を思って心が搔き乱されたまま終わる映画でした。