本と映画と時々語学

書評、映画評など書き綴りたいと思います。

映画『すずめの戸締まり』

新海誠監督の最新作のレビューです。

予告編は多くを語らない構成になっており、私自身も事前知識ゼロで鑑賞し、衝撃を受けたので熱のこもったレビューになると思います。

何年前の鑑賞だ! という話ですが笑

ネタバレでお送りします。

 

 

あらすじ

九州で叔母と二人暮らしをする高校生のすずめは、ある日旅の美しい青年から「近くに廃墟はないか」と尋ねられる。

すずめが教えた閉園したテーマパークに向かった彼を、後から追ったすずめ。

そこで奇妙な置物を動かしたことで、廃墟にある災いの扉が開き、さらには扉を閉じて回る『閉じ師』である彼との奇妙な冒険が始まることになる。

 

過去二作との違い

新海誠作品の「世界(普通の人々の普通の日常)を救う」「会いたい人に会いに行く」の二本柱は過去二作と同じです。

しかし個人的には、『君の名は。』より『天気の子』より今回が一番好きです。

すずめの個人的なドラマと、世界を救うことの必然性がしっかりリンクしていたし、それが全部結びつくラストのカタルシスは凄まじい。

今回すずめたちが向き合う災いは、彗星より異常気象より、日本で映画を観る人にとって一番身近な危機だからかもしれません。

そして、終わり方が3作の中で一番劇的かつ爽やかに感じるのは、脚本の完成度が高いことの証だと思います。

また、天気の子より世界観や理屈がしっかりしていて展開に説得力があります。

個人的に、新海誠作品は大人不在感が目立つかも、と思っていたのですが、それも過去二作と比べて格段に減っていたのは叔母である環の人物描写のおかげだと感じました。

序盤の伏線張りタイムは正直もたつくと言うか、「このシーン要るかな?」と思う描写も色々あるのですが(それもちゃんと終盤で効いてきます)、三分の一を超えたあたりからストーリーが俄然加速し始めます。

音楽と映像の迫力が凄いので、ぜひ映画館で観てほしい作品です。

なおRADWIMPSの音楽は今回劇中では登場せず、純粋に映画の世界観に沿った音楽が使われています。

こっちのが良いんじゃないか? と正直思っています。

また、とりわけ『天気の子』では大人の世界と子どもの世界の隔絶が顕著で、大人はほとんど不在と言ってもいい(主人公たちの意思決定にあまり踏み込まない)印象が強かったです。

しかし、本作ではおもにすずめの叔母である環さんの役割によって、この溝がかなり解消されており、ドラマ全体も深化した印象を受けます。

もしかしたら、監督自身が「親」となってからの年月が積み重なったことにより、心境の変化があったのかもしれません。

 

以下の記述は本格的なネタバレを含みます。

 


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閉じ師の仕事

青年とすれ違った後、突如町の空に現れた禍々しい影。

それが例の廃園になったテーマパークだと気づき、すずめは現場に駆け付けます。

そこには、必死で廃墟の扉を閉めようとする青年の姿が。

無我夢中で扉を閉めるのを手伝うすずめの目の前で、彼は不思議な鍵で影を扉の中に封じます。

草太と名乗った彼が閉めたのは『後ろ戸』。

廃墟にある後ろ戸からは、日本の下にひそむ化け物・ミミズが出てきてしまうことがあり、飛び出したミミズが地面に倒れ込むまでに扉を閉めなければ、地震が起こると言います。

実際、戸締まりが間に合わず、すずめの住む町は地震に見舞われてしまいました。

ミミズには確たる意思も目的もなく、ひずみがたまれば暴れるという存在。

厄介な現象を鎮めるため、閉じ師の草太は全国を旅して回っていると言います。

彼の怪我を手当てしたすずめの前に、突然痩せ細った猫が現れます。

「うちの子になる?」と話しかけたすずめに、「うん」と答える猫。

呆気に取られる二人の前で、「おまえは、じゃま」と言い放った猫は、草太をすずめの持っていた子ども用の椅子に封じてしまいます。

猫の正体は、すずめが廃墟で動かしてしまった置物。

ミミズを封じていた要石(かなめいし)が封印を解かれたため、扉が開いてしまったのでした。

要石を取り戻し、元の姿に戻してもらうため、猫を追おうとする草太ですが、椅子の姿ではめちゃくちゃ目立つし、当然うまく行きません。

責任を感じたすずめは、彼とともに家出同然の旅に出ることに。

 

二つの旅

猫はあちこちでSNSに写真をアップロードされたり、ニュースに撮られたりと有名になり、いつの間にかダイジンと呼ばれるように。

その痕跡を辿って愛媛、神戸と旅するすずめたち。

ダイジンの現れる場所では常にミミズが暴れ、すずめたちは間一髪のところで戸締まりを成功させていきます。

そして辿り着いた東京で、今までにない強大なミミズを目にするすずめたち。

ダイジンを要石に戻し、ミミズを抑えようとする草太ですが、ダイジンは拒絶。

「役割はお前に移した」と言われ、自らが要石になるよう定められてしまったことに気付く草太。

すずめは、東京に住む何百万もの命が喪われることを恐れ、草太を要石としてミミズを封印。東京の後ろ戸を閉じます。

意識も身体も失い、椅子の姿で常世に留まる草太を取り戻すため、すずめは幼い頃くぐった後ろ戸を目指すことに。

草太の祖父から、「人が一生に通れる後ろ戸は一つだけ。かつて通った扉を探しなさい」と言われたためでした。

亡き母を探して迷い込んだ後ろ戸を探し、実家を目指します。

このように前半はミミズを追いかけ封じる旅、後半は草太を取り戻すための旅というストーリーになっています。

 

すずめの過去

草太を取り戻すための旅は、故郷の後ろ戸――すなわちすずめの過去を辿る旅でもありました。

すずめの過去の夢をトップシーンで見た時、パッと北海道っぽいと思ったので、じつは絵日記を掘り起こすまで何があったのかまったく気づきませんでした……

事前情報全くなしで観たからこその驚きでした。

絵日記の日付を見た途端あれもこれも伏線が結びついて(すずめだけ九州弁じゃなく標準語(だから余計北海道かと思いました)、死ぬのは怖くない・生きるか死ぬかなんて運でしかない発言など)、そういうことだったのかと。

北海道に向かっていると思っていたから、北上してても何も思わず……(ミスリードされすぎ)。

でも、チラっと映る地名はどれも、あの頃ニュースで何度も見たところばかりでした。

家が基礎しか残ってなくて真新しい防潮堤の真横というところでようやくあれっ、と。

あんなに広大でひらけた土地は北海道にしかないと思いましたが、それはあの時だからこその光景だったんですね。

そして、常世に飛び込んだすずめの見る火の海は、あの日の気仙沼の夜のニュース映像にそっくり。

考えてみればダイジンの行く場所は神戸とか東京とか、かつて大きな震災が起こったところばかりでした。

 

すずめが乗り越えたもの

草太を喪って悲しむすずめの姿を見、さらに彼女ともう一度だけ心が通ったダイジンは、みずから要石の役割を再び引き受けます。

おそらくは、「ありがとう」と言われたから。

要石から猫の姿になったダイジンは、痩せ細りボロボロの姿でした。

それほどの姿になるまで務めを果たしても、誰にも顧みられないことに飽きたからこそ逃げたのでしょう。

そして、「うちの子になろう」と言われるものの突き放されるところがすずめと重なります。

そのすずめだからこそ、ダイジンの心をもう一度癒すことができたのでしょう。

なお、さらっと登場してさらっと闘ってますが左大臣かっこよかったです。

ダイジン(右大臣)と左大臣の助けを得て、ミミズを封じるすずめと草太。

しかしすずめには、もう一つ向き合わなければならない相手がいました。

それは、あの日以来、あの時空で泣き続けている自分自身です。

東日本大震災の日以来、夢の中で泣き続けていた自分の前に、いつも現れていた長い髪の、裾の長い服を着た大人。

草太かなと思っていたのですが、それは髪をほどき、彼の服を羽織ったすずめ自身でした。

子どものころの自分に等身大の言葉をかけるすずめを見て、ずっと泣き続けている幼い頃の自分は、根本的には自分自身で癒すしかないというメッセージがある気がしました。

大切な存在に巡り合ったすずめにその用意ができたとき、その瞬間がやってきたというのが良いです。

大好きなお母さんや、思い出の詰まったふるさとを喪い、絶望している子どものすずめに、少女のすずめが言います。

私は、すずめの明日!

トラウマの治療に取り組んでいる精神科医の方がインタビューで、「過去の傷を乗り越えるには、まずは現在を肯定できる状態にならなければならない。そうでなければ、あの状況を乗り越えて生きていてよかった、と思うことができないから」とおっしゃっていました。

草太の存在や、環さんとの絆を再確認できたからこそ、笑顔で昔の自分にそう言うことができたのだと説得力がありました。

なおすずめの苗字「岩戸」(=天岩戸)は、神話上で開かなければならない扉でしたが、草太の苗字「宗像」は旅の安全を司る神様がいる場所。

草太は閉じ師でありつつ、あくまですずめの成長に寄り添う旅のパートナーだったのかもしれません。

 

環さんの存在

家出かのように突然飛び出していき、その後も帰ってこないすずめを(当然ながら)心配する叔母の環さん。

同級生も周知の愛情弁当を持たせてくれる熱心な保護者ですが、すずめにはどこかその関係がしっくり来ていない様子があります。

だからなのか、環さんの愛情や心配はどこか空回り気味で、そのフラストレーションが北上の旅の途中でお互いに爆発。

すずめを引き取ったことで人生が大きく変わってしまった環さん、それをわかっているからこそ彼女の愛が重いと感じるすずめ。

これ、親になる前に見たらどんな感想を持ったかな……すずめには共感しても、環さんの気持ちはわからなかったかも。

「すずめを引き取るって自分で決めたんでしょ?」と思ったんじゃないかな。

というのも、親であるが故の大変さに直面した時、「自分で決めたことだから」って思うこと、すでに一億回くらいしてる気がするからです笑

でも一方で、環さん大変だっただろうな、というのもすごくわかります。

彼女の場合は、お姉さんの死によってすずめの存在が自分の人生に加わったから、きっと折り合いをつけるのはもっともっと大変だったはず。

けど、一方でしばらく後に彼女が言ったせりふも、首がもげるほど同意したい。

全然、それだけじゃないとよ

親になったことで何かを諦めたことが一度もない人というのはいないと思います。

でも彼女の言うとおり、「それだけじゃない」んですよね圧倒的に。

それを補って余りあるものがあるから、圧倒的に子どものことが大切なんです。

君の名は。』や『天気の子』では、主人公たちの大人との関係はあえて見てみぬふりをされているというか、とくに親子愛の描写は意識して避けられている印象でした。

本作では、直接の親子ではないものの家族との絆の描写が深化していて、監督の作品に新たな奥行きが加わっていたように思います。

 

おわりに

監督は本来、『君の名は。』で再会のラストを望んでいなかったと聞いたことがあり、「このままってことないよね?」と後半は終始ハラハラしておりました。

予告編が多くを語らない構成だったのは、トラウマを持った方たちへの配慮と思われます。

映画館の入り口にも、辛い描写があるかもしれませんという標示がありました。

そうした制限をみずからかけながらも、たくさんの方に観られた作品になったのは素晴らしいことだと思うし、それはひとえに作品の魅力やパワーによるものだと思います。