本と映画と時々語学

書評、映画評など書き綴りたいと思います。

ミュージカル『レ・ミゼラブル』

先日、ロンドンでレミゼを観る機会がありましたので行ってまいりました。

ハリウッド映画版(ヒュー・ジャックマン主演)や、フランスTV映画版、原作小説を4/5読破した状態で観劇しました。

当日感想をメモした文章が、後から読み返しても興奮と躍動感に溢れていましたので、原文に忠実にお伝えします!!笑

余すところなくネタバレします。

 

公演開始まで

まずはミュージカルのチケットを押さえるべくアプリをダウンロード。

ハリーポッターの舞台は今日のが表示されなかった(売り切れか、そもそもやってないのか不明)ので、レミゼウィキッドで迷ってレミゼに。

ウィキッドはきっとブロードウェイで観るべきだよね。

アプリより何とかいうウェブサイトのが2000円くらい安かったのでそちらで購入。

レミゼを結構良さそうな席で観ることに。

途中までだけど小説読んどいて良かった。

映画観ておいて良かった。

定番曲は歌詞覚えるくらい聴いてるし、他の曲も大体サビはわかるような感じ。

ありがとうスーザン・ボイル

ありがとうヒュー・ジャックマン

ギリギリにクイーンズシアターに駆け込み、チケットオフィスで5分前に券ピックアップ。

「あと5分!」と発券係の陽気な兄さんに煽られる。

入り口から席へはすぐ。前から5列目の一階席という素敵立地。

 

公演レビュー

映画と同じく、ジャン・バルジャンの服役中の場面から始まるのだが、俳優さんたちの歌唱力もさることながら、オーケストラ生演奏の迫力が凄い。

日本でオペラやレントを観た時はこんなに素敵に聞こえない気がしたんだが、施設の音響のせいもあるのかな?(東京国際フォーラムとかは広すぎるのかなという気もする)

ただ、上野で見たフィガロの結婚と比べても音の安定感や厚みが全然違う気がする。

ていうか、映画のヒュー・ジャックマンですらこんなにも男声の高声が素晴らしく伸びてはいなかった気がする。。。

臨場感を差し引いても、有り余る技能の上に表現が乗っかってる感じが力強くてもう。

映像の世界の外にもこんな素晴らしい演技人たちがいるのか。

ジャン・バルジャンの俳優さんは今までのイメージ通り(ジャックマンよりフランス版のジェラール・ドパルデュー寄り)だったけど、ジャベール警部の役の人はイメージよりかなり若く見えた。

だけどそれが凄く良い方向に出てた気がする。

ジャベールの傲慢さや教条的な断罪の姿勢は、若い方がしっくりくると言うか人間味として受け入れられる(世間知らずの正義漢であるほうが、偏屈な中年よりも目を惹くし親近感が湧く)。

頑迷さが若さゆえだと思うと何かもう美しくすらある。

文学史上最も魅力的な悪役(というのも憚られるけど)の一人であるのは元々間違いないけど、その新しい形を見つけた感ある。

フランス版のジョンマルコヴィッチより、ハリウッド版のラッセルクロウよりこの人が良い。。。

ガラスの仮面』の劇中劇の『たけくらべ』で起こったことを観てるみたい。新しい解釈での表現。

At the end of the day, Lovely ladiesなどなど、役名のない人たちが大勢で歌ってるところも技量に余力があって、音程も迫力も素晴らしくて、ロンドンのミュージカル人材の層の厚さをバリバリ感じる。

控えめに言ってレントの来日公演より感動してる。

映画の方が撮り直しできるし、何度も歌ったうえで最高の回を採用してるはずだし、完成度は上回るかもしれないとか思うじゃないですか。

でも映画を下回ってるところが一個もなくて、むしろ上回ってるところが多々見つかるっていう。

なおファンティーヌの人の情感も素晴らしかった。

I dreamed a dreamの序盤の台詞が少し駆け足じゃないかなと思ったが、最初の一節を歌い出した瞬間からどこを切り取っても深みのある声に一発で変わって、情感も声量もどんどん如何なく発揮されていく。

完全に劇場の空間全部を取り込んでる。泣いた。

そしてコゼットがアフリカ系の少女というダイバーシティ

名前のない役にアジア人の人はいたけど、アフリカ系はこの人以外にはいないように見えた。

ハリーポッターの舞台で、ハーマイオニーを演じるのが黒人の人で話題になってたけど、ハリーポッター以外でも普通にあるんだな。

観衆がちょっとびっくりした気配はしたけど。

大人になってからのコゼットは少し肉厚感があったので、個人的にはフランス版のヴィルジニー・ルドワイヤンがベスト。

そしてテナルディエ夫妻ですよ。

夫人の方は特に、下品な発音を再現してるのか全然聞き取れなかった笑

でも言葉わかんなくても絶賛しちゃうくらいの見事な助演女優男優賞。息ぴったり。

映画では米仏ともに単なる「嫌な奴」だった気がするのだが、こちらはめちゃくちゃコミカルでこれもジャベールと同様新鮮だった。

何かもう、あの二人が現れた瞬間に全部持っていかれるよね。

終盤彼らが出てくると客席が「またお前か!笑」ってなってた。

確かにこの二人の行動様式って、徹頭徹尾人間味の塊なんだよね。。。

『沈黙』でいうキチジローみたいな。滑稽だけど圧倒的既視感があるっていう。

エポニーヌは若さとまっすぐさと不器用さが全面に出る王道な感じで、マリユスに対する態度とか観てて切なかった。

ていうかマリユス、エポニーヌにコゼットの行方を探させるとか鬼かよ。

学生たちの中でも半人前扱いみたいになってたし、どこまでも邪気のないお坊ちゃん。

マリユスはあんまり裁量が与えられない役かもしれない。

ハリウッド版マリユスがエディ・レッドメインだって気づいた時驚愕したよね。

あまりに役を忠実に再現し過ぎててレッドメインその人の印象までイマイチに固定化するところだった。

ファンタビで魔法生物学者を生き生きと演じてるところが観られて本当に良かったよ。

映画では全然記憶になかったけど、学生革命のリーダーのアンジョルラスが結構ウェイトのある配役なのね。

あとガヴローシュもいい感じに目立っててナイス。

ハリウッド版ではそもそも登場したっけってくらいだけど、台詞の中で名前呼ばれててようやく思い出した。

最後の挨拶でリーダーと一緒に礼をして、かつ互いに敬礼するところが粋すぎて死ぬかと思った。

ジャベールが自殺するところ、わかっちゃいたけど悲しくてやるせない。

映画では米仏ともに、自分が間違っていたと知ったジャベールが死を選ぶことについて「なるほどな、これが彼にとっての筋の通し方なんだな」と淡々と観ていたけど、今回は共感度が高かったせいかめちゃくちゃ悲しかった。

間違っていたと認めて生きたっていいのにと思ってしまう。

寿命を迎えたジャン・バルジャンを、ファンティーヌやエポニーヌが迎えにくるところも泣いた。

もうどんな鎖もあなたを縛らない場所へ、って言う台詞で絶句した。

確かにパンを盗んだ罪って言う鎖をずっとジャベールが追ってくる人生だった。

で、One day moreの大合唱を最後に聴いて泣かないわけがないんですね。泣いたよ。泣いた。

音響や舞台美術の迫力も、歌唱力の層の厚さも、演出の作り込みも、どれを取っても隙がない舞台だった。

その根底に、素晴らしい楽曲があり脚本があり原作があるのは勿論なんだけど。本当に観てよかった。

人生のどうにもならなさに必死で向き合いながら生きる情感とか、信念に従って生きたいと思う人間の気持ちとかを強烈に表現してる作曲を改めて実感。

原作がそう言ったテーマを余すところなく描き切ってるから出来ることだと思うけど、だからと言ってそれを余すところなく汲み取れる作曲家もそうそうおらんよね。

個別の人物の人生を描いてるのにとても普遍的で、かつ、原題どおり悲惨な人たちの群像を描いているのに、何でこんなに観た人に希望を持たせるんだろう。

ハリウッド版の「愛とは、生きる力。」っていうコピーが本当にぴったり。

変えることのできない状況の中で、人間の気持ちだけが唯一の救いであり続け、人間すら変えていく。

音楽を効果的に配置して、原作と楽曲の良さを最大限に発揮させている脚本も凄い。

あんな陰鬱で長大な小説を、こんなにもわかりやすくパワフルな演劇にした人って誰なんだ。

フランスが舞台の物語をロンドンで観るってのは思ったより違和感なかった。

ヨーロッパの話だからむしろイギリス英語で観られることに謂れのない安心感を覚える。

Look downからバリバリのイギリス英語を感じた時にうおおーと思った。

ハリウッド版や、日本語吹き替え版にないしっくり感。

フランスは外国なので、イギリスから見て非日常感がありつつも、文化的文脈に共通な部分も多くて違和感はない。

たぶんフランスでやってたとしてもフランス語なまりの英語で聴いたらちぐはぐ感あっただろうし、フランス語で上演されても理解できないし…結果として、遠過ぎず近過ぎない、ベストな距離感のエキゾティシズム。

ハリウッド版のサウンドトラック聴いてみたけど、やっぱり間違いなくミュージカルの方が巧い。声の伸びが全然違う。

男声が物足りなくて口直しにウィーンミュージカルの『エリザベート』聴いちゃったよ。

映画の中ではアン・ハサウェイが一番うまい。

ヒュー・ジャックマンも良かったと思うんだけど、ジャベールは舞台の圧勝。

 

おわりに

世界中で愛されるミュージカルたる理由が大納得できた時間でした!

英語が得意な方でも、ミュージカル映画版やサウンドトラックで予習して行った方がより深く理解でき、楽しいと思います。

ロンドンに行く機会がある方はぜひ検討してみてください!

 

レ・ミゼラブル 全4冊 (岩波文庫)

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映画『万引き家族』4

ついに最後の人物、祥太のことを書く記事がやって参りました。

めちゃくちゃ長くなりました。。。

これまでの記事はこちらです。

映画『万引き家族』 - 本と映画と時々語学

映画『万引き家族』2 - 本と映画と時々語学

映画『万引き家族』3 - 本と映画と時々語学

 

祥太

祥太はりんがやってくるより前から、信代と治に育てられていた男の子です。

二人とは血は繋がっていません。

たぶん十歳くらいで、住民票の関係からか学校には行かず、どこからか拾ってきた国語の教科書を熱心に読んでいます。

治が「学校は自分で勉強できない奴が行くところ」と教えていたからです。

でも、何となく学校や他の子どもに興味を持っているのは察せられます。

ここが後半の展開に結びつく、彼の重要な特徴と言えます。

疑似家族の理念をある程度納得して加わったであろう亜紀と違い、祥太は物心つく前に信代と治によって家族に入れられました。

そして、りんよりは周りのことを理解できる年齢になっていますから、初枝の死がなくとも自分の環境に疑問を抱き始めたであろう気配があります。

祥太は治から教えてもらった万引きで、家族の生計を支えるのに一役買っていますが、だんだんと盗みをすることの意味について悩み始めました。

万引きの常連だった駄菓子屋さんで、ある日店主のおじさんから「妹にはやらすなよ」と言われたことがきっかけです。

万引きのせいで駄菓子屋さんが潰れたと思った(実際は店主が亡くなり閉店した)ことが悩みに拍車をかけます。

信代に、店のものは誰のものなのか訊いて、「まだ誰のものでもない(から盗っていい)」と言われても、もちろん納得できません。

お金を払ってものを買う理由も、

万引きは人にばれないようにしないといけない理由も、

「妹にはやらすなよ」と言われた理由も、

信代の答えでは説明できていないからです。

治も車上荒らしの意味を訊かれてうまく答えられていません。

切ないけど、この流れが説明していることは、信代や治の一つの限界と言えます。

親から学べなかったことも、子どもは社会から学んでいく。

とくに祥太は賢い子なので、大人のご都合主義の言葉なのか、本当に彼を思って出てきた言葉なのか、直感的に察知している。

治も信代も人並みの煩悩を持つふつうの人間だと理解してしまった経験も、祥太と外の世界を引きつける力を補強しています。

序盤では、りんがやってきて万引きの手引きを受けることに対し「何で慣れてない小さな女の子と一緒にやらなきゃいけないの」と不満に思う子どもらしさもありましたが、後半は俄然、自分の意思を持ち、今まで見えていなかった親の人間的な部分が見えてきてしまう、子どもから少年への成長が見て取れます。

りんを庇うために目立つ逃げ方をしてしまうところなんか、りんへの向き合い方が序盤と全然違います。

逃げた時の怪我で入院した彼を置いて、親たちが夜逃げしようとした行動との対比が切ないです。

話を少し戻すと、親から学べなかったことを学ぶために、普通の社会で暮らしていくために、祥太は保護された警察で、これから学校に行くことを告げられます。

「学校は自分で勉強できない奴が行くところ」と信じていた祥太から、「学校でなければできないことってなに?」と訊かれた刑事は「『出会い』かな」と答えます。

この男性刑事、スクリーンに登場する時間は短いのですが、高良健吾さんがそれはそれは素晴らしく演じてらっしゃいます。

祥太に向かってそう答える時の顔が優しくて優しくて感動しました。

答えている内容もこれ以上ないほど的確です。

たぶん祥太は、家族という小さな世界ではわからなかったことを、学校を始めとした外の世界で学んでいく。

駄菓子屋のおじさんはもういないし、この刑事に会うことも恐らくもうないけれど、祥太はこれからもいろんな人から少しずつ学びを得ていく。

家族に限らず、小さな世界でできる成長には限界があるからこそ、学校や何かをきっかけに広い世界へ行くことに意味があるんだと思います。

(祥太と背景は全然違うけど)家族から学べなかった大切なことを学校その他の社会からたくさん教えてもらった一人としては、高良さんの台詞がとくに印象的でした。

実際、家族の離散後、しばらくして治と会った祥太は逞しく成長して、友達もできたみたいです。

治たちが彼を置いて逃げたと聞かされた祥太は、治に何も言うことなく施設に帰るバスに乗ります。

治は発車したバスを祥太の名を呼びながら追いかけ、祥太はその姿をずっと見つめていますが、バスを降りたり、泣いたりはしません。

別れるべき時が来たこと、自分は外の世界へ行く準備ができていることを、どこかで理解していたからでしょう。

祥太とは本来、治の本名なんだと刑事が指摘していました。

治は、おそらくは愛情に恵まれなかった小さな頃の自分を、同じ名前の子どもに愛情を注ぐことで自ら育て直していたのかもしれません。

そのことにもし治が深く癒されていたとしたら、祥太との別離は眠っていた小さな頃の寂しさを思い起こさせるものだったかもしれません。

 

子どもたちのその後

この映画を観て間もないころ、家族が離散したあとの亜紀や祥太やりんのことを考えてこんなツイートをしていました。

しかし、いつも悲しい映画も感動する映画もほぼ百発百中泣くのに、この映画では泣かなかったなと思って少し考えが変わりました。

泣かなかったのは寂しい子どもがいなかったからです。

亜紀や祥太やりんは、少なくともこの家族にいる間は守られていて、心理的支えがあります。

だからこの子たちは、血の繋がった相手でないけれども、家族から(誰かの身代わりや、親の人生の敗者復活戦としてでなく)自分自身として愛されたことがあります。

とくに亜紀は4番さんからも自分自身を必要とされた気持ちをもらえています。

よく言われる自己肯定感や自尊心は、自分自身を見てもらえたこと、愛されたことで築かれるなら、この3人はきっと「自分を愛してくれる人は確かにいる」「ある場所で会うことができなくても、世界のどこかには絶対いる」という気持ちを今後も持つことができるのではないでしょうか。

そうした気持ちで広い世界へ出ていくことができれば、安心できる友人やパートナーや家族をもうけることはきっとできます。

だから、あの家族は離散してしまったけれど、3人のなかに「愛された記憶」という大切なよりどころを残していったと思えてきました。

それは理屈を超えて心の奥で、これから3人の人生を支え続けるんじゃないかと感じます。

亜紀には、彼女と向き合ってくれるパートナーに巡り合って自分を大事にしながら生きて欲しいです。

離散後に家を見に来ていたし、初枝の隠し事にショックを受けていたので、立ち直るまでには少し時間がかかるかもしれませんが。

祥太も、万引きの習慣や非就学など、イレギュラーな幼少期を消化しつつ、たくさんの人と満ち足りた人間関係を築けたらいいですね。

友達いっぱいできそうだし、優しいし賢いから大きくなったらモテそうだし、これから大変だとは思うけど心配なさそうです。

一番心配なのはりんです。

親元に戻されてしまったりんは、再び虐待を受けながら生活することになってしまいました。

しかしりんは、自分を本当に大切にしてくれる人の存在を知ったので、身勝手で情緒不安定な母親に縋り付くことはもうありません。

自分を好きでいてくれる人はどんな風に接してくれるものか、体験として知っているからです。

だから、自分を愛してるならするはずのない行動を繰り返す人たち相手に、「良い子にすれば愛してくれるかも」と儚い期待を持ちつづけることはないでしょう。

すぐに経済的に自立できるならそれで万事解決ですが、りんはまだ親の養育なしに生きていくことはできません。

子どもの感情に寄り添う気持ちがないのに、自分は子どもにとって唯一最愛の親でなければ嫌、という歪んだ親もいます。

そうした人は、冷たくしたあと、暴言を吐いたあとに子どもが泣いて追い縋ってくる様子を見て、自分の優位を確かめます。

また、ストレス発散の八つ当たりをする相手がいなくなるのは嫌という思考回路の可能性もあります。

りんの両親がそういうタイプかはわかりませんが、もしそうだったら簡単に彼女を手放したりしないでしょう。

しかし、りんがいなくなっても何ヶ月も警察に届けなかった両親ですから、まだ希望があるかもしれません。

 

声に出して呼んで

この映画のタイトル候補には万引き家族のほか、『声に出して呼んで』というものがあったそうです。

振り返ってみると、

お母さんと呼ばれたかった信代、

吃音で思うように話せない4番さんから(さやかであれ亜紀であれ)名前を呼ばれたことのない亜紀、

お父さんと呼ばれたかった治、

追いかけてくる治にバスの中で何かを呟いた祥太、

放置された屋外で何かを呼ぼうとしたりん、

など、それぞれこのフレーズに当てはまりそうな場面が目に浮かびます。初枝だけわからないけど…。

戸籍上の名前や、法律上の関係性ではなく、普段交わす言葉や行動だけによって家族関係を作っていた彼らには、これもぴったりのタイトルだったかもしれません。

しかし、わかりやすさや初見の人への訴求力のために『万引き家族』に落ち着いたと予測します。

結果としてタイトルのわかりやすさも多くの人に見てもらえることに貢献したなら何よりですね。

家族や、人の心を支える愛は何かということについて考えるのに、これほど重厚な問いを持った映画はないと思うからです。

 

家族の持続可能性

大人も子どもも帰る場所になっていた疑似家族、

実の家族にはない愛情を得られた柴田家ですが、物語の終わりに離散します。

面会に来た祥太に信代が、祥太を誘拐した時のことを話していました。

パチンコ屋の駐車場で、車内に放置されていた祥太を連れ去ったこと、その車のナンバー、会おうと思えば車のナンバーを辿って実の両親に会えることを伝えます。

その場にいて、戸惑っていた治に「私たちじゃダメなんだよ」とすっきりした表情で言い切ります。

確かに、死体遺棄のみならず、りんや祥太の連れ去りが明るみに出たときから、家族の離散は避けられないことでした。

信代や治が祥太を守ることはもうできません。

だから信代は祥太がこれからの人生で自分の実の家族を知りたいと思った時に、せめて邪魔はしたくないと思ったのでしょう。

血の繋がりや法律上の家族は、イコール安心できる居場所を意味しない。

しかし、血縁や法律で繋がっていなくても、愛情や信頼で繋がることはできる一方で、

長期的に、誰からも何からも守りたい家族がいるなら法律の力を味方にすることは必要となる。

そうした法律的・心理的家族のかたちについて、大人が責任を負えなければ、子どもたちが安心できる居場所を持ち続けることはできない。

この現実的な状況を克明に切り取ったのがこの映画だと言えます。

本作は血や法律を徹底的に関係なくしたところでの愛や信頼を描いていますが、同時に現実世界で生きていくために法の支配の文脈を受け入れる必要も無視しません。

家族の心の機微を描く有機的な目線と同時に、冷静なバランス感覚が窺えました。

大人が家族のかたちに責任を持つというのは、何も一人一人の親個々人に限った義務ではないと思います。

一つでも多くの家族が健全な繋がりを築き、一人でも寂しい子ども、寂しい大人が生まれないようにするためには、何をしたらいいのか。

それを問い続けるという責任が、どんな大人に対しても存在すると考えます。

 

おわりに

感情を刺激されて泣いたり感動したりというより、じっくり考え込むのをいつまでもやめられなかった作品です。

最も感情を動かされた場面を挙げるとすれば、家族で音だけの花火大会を楽しんだり、海へ出かけて遊んだりするところでしょうか。

小さい頃花火大会や海に行った思い出がなかったので、単純にとても羨ましかったし、なんて温かい家族なんだろうと感銘を受けてました。

そして、大人になってからの人生で一緒に海にも花火にも出かけてくれる家族や友人に会えたことの幸せをじわじわ噛み締めてました。

お金と時間をかけて、損得なしに誰かと出かける理由って、単純に「その人と過ごしたいから」ですよね。

映画の展開上も重要なシーンだったと思います。

祥太が言っていた通り、一人では生きていけない人間でも、誰かと一緒にいて強くなれることはいくらでもあります。

一緒にいたいと思えて、一緒にいれば強く生きていける人に会えたら、その人生はとても幸せだと思います。

 

有機的でありながら論理的で、真摯に家族とは何かを問いかけた映画でした。家族について考えたいとき、是非お勧めしたい映画です。

 

 

万引き家族【映画小説化作品】 (宝島社文庫)

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映画『万引き家族』3

思いが有り余る『万引き家族』のレビュー3記事目です。

これまでの記事はこちら。

映画『万引き家族』 - 本と映画と時々語学

映画『万引き家族』2 - 本と映画と時々語学

 

本記事では亜紀について書きます。

亜紀と祥太について書くつもりが、亜紀ソロで一記事になってしまった。

 

亜紀

初枝をおばあちゃんと慕い、口うるさい姉のような信代をあしらい、時々りんを可愛がってあげる亜紀。

若いし健康そうだし、天真爛漫な可愛い少女です。

風俗店でアルバイトしているので、家族のなかでは自由になるお金が多い方ですが、家にお金を入れないことを信代に咎められたりします。

でもおばあちゃんに甘えて絡んで乗り切ります。笑

初枝が訪ねて行った亜紀の実家を見るに、どうやら亜紀は一般的なサラリーマン家庭で金銭的には不自由なく育ったようです。

半分廃屋で、水回りもめちゃめちゃ古くて、そこらじゅうとっ散らかっている初枝の家と、新しくて、ちょっと息苦しいくらい整然として清潔な亜紀の実家は、鮮烈な対比です。

父母と妹の四人家族で、妹はまだ中学生か高校生の様子。

短い場面なのですが、ああこの家庭内カーストに耐えられなくて家出たんだろうな…と察しがつきます。是枝監督恐るべし。

家庭内カーストの最上位は母親でしょう。

セリフは一言二言しか言わないけど、そこから余すところなく「不機嫌なVERY妻」ぶりが伝わってきます。

家の中を不機嫌で支配したり、気に入った子ども(次女)だけ優遇したり、この人なら絶対してるだろ…と確信させるに余りある圧迫感。

亜紀の父である夫は引き攣った表情でそれを宥めています。

パートナーたる妻とまともに話し合えずに「お、お母さんが言ってるんだからしょうがないだろ」「お姉ちゃんなんだから言うこと聞きなさい」とか言って亜紀ちゃんを我慢させてたであろうことが目に浮かびます。

扱いに耐えられず亜紀の方から飛び出して行ったのに、初枝の家にいることはわかっているのに、その初枝相手にすら、亜紀が海外留学している体を貫き通して話し続ける。

問題があってもないふりをし続ける不自然で緊張した家庭、なのに次女が出かけるときは連れ立って見送る、これだけで亜紀が飛び出した理由が表現されています。

形骸化した家族なのに、なぜ亜紀がいなくなった事実を直視できないのかといえば、「付き合いを続ける気はもうないけど、あんな奴に自分が『フラれた』という状況には我慢ならない」からでしょうか。

「見放すのは私であってお前ではない」と思ってるからでしょうか。

それとも、娘を愛してない親と世間様から思われるのが嫌だからなのでしょうか。

それらが入り混じった理由なんじゃないかとうっすら想像はつきます。

ただその考えには全く共感できないし、心底したくないです。

こうした父母に素直に甘えるなんて夢のまた夢だったでしょう。

だからこそ対照的に初枝の家では、今まで甘えられなかった分も甘えていたのではないかと推測します。

信代がいるから長女ポジションは負わなくていいし、親子より祖母と孫の方が緊張感はずっと少ない関係です。

亜紀は年金を下ろす初枝に着いて行ってご飯を食べたり、アルバイト先での話をしたり、初枝といると楽しそうで和気藹々としています。(「1192作ろう鎌倉幕府」に亜紀が突っ込むところや、「ドテゴロってなあに?」「童貞殺しだよ」のくだりはいつ思い出しても笑ってしまう。。。)

初枝に話したアルバイト先での働き方は特に印象的です。

彼女の源氏名はさやかで、実の妹の名前を拝借しています。

妹の名前で風俗バイトをすることで間接的に妹を貶めているわけで、初枝はそんな亜紀を「あんたも悪いねえ」と言ってやんわり受け止めます。

いやーあの不機嫌なVERY妻が聞いたら発狂しそうなエピソードですね。

そのバイト先で、亜紀はいつもガラス越しに自分を指名してくれる客と対面することになります。

お客さんは上手く喋れない男性だけれど、他の誰でもなく亜紀を必要としてくれることに気付き、(さやかとして働いているにも関わらず)自分が亜紀だと強く実感できたみたいです。

この経験はきっと、信代とシンクロする部分じゃないでしょうか。

生まれた家族の中に安心できる場所がなくても、家の外に出てそんな人間関係を見つけることはできる。

亜紀と恋話をする信代が「私も店のお客さん好きになった」と言われている場面があったことから、意識して重ね合わせている経過ではないかと思います。

そんな亜紀は、初枝の死後、警察で親が自分の居場所を知っていたこと、親が初枝にお金を渡していたことを知ります。

その絶望は如何ばかりだったか。

屈託なく自分を受け入れてくれるはずだった初枝にとって、亜紀は復讐の道具だったのか、金づるだったのか、と悩んだに違いありません。

お金に関しては、使わずに取ってあったのが見つかっており、すぐさま初枝自身のために使ったわけじゃないことがわかっています。

復讐の道具だったのかという点については、多分その側面は否定できないのではと思う一方で、細かいことはどうでも良くて亜紀を可愛がるのが楽しかったんじゃないかとも思えます。

復讐が動機だったとしても、亜紀に対して大切に思う気持ちを少しでも持っていたのであってほしいと思わざるを得ません。

 

次は最後の人物、祥太について書きます!

 

 

 

 

映画『万引き家族』2

前記事に引き続き、主人公家族の一人一人について書いていきます。

前記事はこちらです。

映画『万引き家族』 - 本と映画と時々語学

 

信代

信代は元夫のDVから救ってくれた治と内縁関係で、母親からの愛情を受けられなかった子ども時代を生き直すかのように、祥太とりんの母を演じています。

亜紀のことは、女同士で恋話したり叱ったり、それなりに可愛がっています。

初枝との間に切実な愛はなさそうで、つかみどころのないばーさんとの奇妙な共犯関係、あくまで共同体意識に留まる関係に見えますが。

信代はこの物語のキーパーソンです。

というのも、誰よりこの疑似家族を必要としていたのは信代だったと思うからです。

信代のちょっとした言動行動から、彼女がむかし家族に求めたかったこと、手に入らなかったものがいちいちよくわかります。

りんを両親の元に返さないと決めた時には、「親だからって子どもにこんな扱いをしていいわけない」という批判が見えるし、

「『好きだから叩く』なんて嘘なの。好きならこうやってするの」とりんを抱きしめる場面では、「元夫はわたしを愛してなかったし、自分の親もりんの親も子どもを愛してなかった」という断罪が見えるし、

同僚に脅される場面では、「子どもには全力で守ってくれる存在がいてしかるべきだ」という決意や子どもたちへの愛を感じます。

元夫と築けなかった関係を治と築き、信代は安心できる家族がいる幸せを初めて知ったんだと思います。

だから、(治から信代への愛があるのは確かとしても)同居を望んだのは信代でしょう。

治はいつも、時には法律的にまずい領域に踏み込んででも、信代の感情に寄り添い続けるからです。

詳細には語られないものの、治は元夫の暴力から信代を守るために法を犯したと言及されています。

また、りんと暮らすことも最終的に治は受け入れています。

りんは元々治が連れてきたんですが、長期的に暮らすことを最初に決めたのは信代。

血が繋がっていなくても、

法律的に家族じゃなくても、

安心信頼できる人間関係があるなら、

人はそういう相手と暮らすべきだ

と言う思いもあるし、後でわかった通り、子どもが持てない体だったのも理由です。

愛されなかった子ども時代も、

満たされなかった結婚生活も、

子どもが持てない悲しみも、

すべて絡み合って疑似家族という選択をしたのが、端々の振る舞いからわかります。

考えてみると、信代は誰よりも必死にこの家族を維持しようとしていました。

つかみどころのないばーさん初枝が、なんの断りもなく家族とこの世から去ってしまった時も、

工場の同僚からりんをネタに脅されても、

祥太が補導されて追い詰められた時も、

信代はいつも家族の離散をしなくていい方の選択肢を取ります。

祥太のことも(実現するかはともかくとして)迎えに行くつもりだったはずです。

心の拠り所になる人間関係は絶対に手放したくない、家族にも手放させたくない、そんなに簡単に見つかるものじゃないからです。

そしてまた、家族をつなげる温かい母親というものに全力でなりたかったんだと思います。

まだそういう母親を信代自身も知らないけれど、でも自分の親やりんの親がなれなかったものに、彼女はなろうとしていました。

取調室で言い放つ「産んだらみんな母親になれるわけ?」にその気持ちが痛いほど表れています。

「産まなきゃなれないでしょう」と切り返さなきゃ警察の仕事にならんのだとわかっていても、聞くのが辛い台詞です。

更にこのあと、子どもたちからお母さんと呼ばれたことがないのを指摘され、拭っても拭っても止まらない涙が出てくる。

一体どうすれば彼女はそう呼んでもらえたのだろうと考えてしまったのは、私だけではなかったと思います。

 

信代の内縁の夫である治は、飄々としつつもいつも信代に寄り添っていて、優しいパートナーです。

原理原則に立てば、法を犯さず心を満たす方法を考えるのが最良の手段なのでしょうが、治や信代にわかるかたちで社会からの救済手段がオファーされているかというと、多分そうじゃない。

心の満足を一番に考えて、法律とか社会常識と言った文脈は一切合切無視しているように見えます。

信代のために元夫に何らか制裁を加え、

信代を尊重してりんを受け入れ、

信代に迫られたら抱くし、

家族を維持するために初枝の遺体を埋めます。

家庭人としては、あくまで家族と運命を共にしようとしたことは才能と言えるのかもしれません。

社会人としてはベストな生き方じゃないですが。

彼自身がどんな家庭で育ったかは、ほとんど映画の中で語られません。

しかし有力なヒントとしては、万引きをりんに教える意味を祥太から聞かれた時、「何か役割があった方が居やすいだろ?」と言ったことが挙げられます。

多分、治自身は「役に立たないと居づらい」家族のなかで過ごしたんだろうと察せられました。

親や家族から必要とされる何かをしなければ居てはいけない、という考えがあるからこその発言なんじゃないか。

だから彼は、信代から必要とされることに応えてあげられるのかもしれません。

治本人はそうした条件付きの愛情を、祥太やりんに課しているようには見えないんですが。

学校に行き始めた祥太の話も聞いてあげているし、祥太の世界が広がってもそれを阻んだりする執着や心の狭さはありません。

終始優しい治は、犯罪を犯さず堅気の仕事をして、気の合う人と家族を持っていたら、とても良い親になったんじゃないかという気がします。

でも、祥太以外の家族で逃亡を図ったのに、祥太の乗るバスを追いかけた顛末は、その優しい場面の積み重ねがあったからこそ、とりわけ遣る瀬無かったです。

 

あっという間に2300字を超えてしまったので、また次記事に続きます。

残る亜紀と祥太について書いていきます。

 

 

 

 

映画『万引き家族』

どうしても書きたかったので書いてみました。

自然な演出は、他の是枝監督作品と同様に健在です。

『誰も知らない』より身近なテーマを扱ったストーリーでしたので、より多くの人の感情や思考を揺さぶったり考えさせる作品だったと思います。

有機的ながら、とても論理的な映画でもありました。

最後までネタバレします。

 

 

あらすじ

東京下町の、廃屋のような一軒家に暮らす柴田治は、ある日、寒いなか屋外に放置されている少女ゆりを見つける。

両親からネグレクトや暴力を受け、表情もないゆりの様子や、彼女の家から響く罵声で家庭環境を察した治の妻・信代は、ゆりを連れ帰って一緒に暮らすことを決める。

2人の暮らす家には、息子の祥太のほか、信代の妹の亜紀、その祖母の初枝らが暮らしており、にぎやかな共同生活を送っていた。

彼らは、治や信代の高くはない給料や、治と祥太の万引き、初枝の年金などで細々と暮らしていたが、治が怪我をして働けなくなってしまい、信代もあるきっかけから仕事を失う。

さらに、ある朝突然初枝が亡くなっていた。

家族を取り巻く環境が厳しくなる中、6人に血縁・法律上のつながりがないこと、なぜ彼らが共同生活を始めることになったかが明らかにされていく。

 

実話とフィクション

この作品は、親の死亡を届け出ないことにより、親族が何年も故人の年金を詐取し続けていた実話をベースとしています。

しかし、映画全体を通して描かれる「家族とは何か」という問いの中には、老いた親と子ども以外にも様々な関係が描かれています。

年金詐取事件はあくまで一つのモチーフであり、ストーリーが進むきっかけであって、メインテーマではありません。

親と子、子と親、夫婦など、6人の中に映し出される様々な家族の関係がすべて丁寧に描かれていました。

次の項目から、家族一人一人について考察を書いていきたいと思います。

6人の辿った経緯のどれもにリアリティがあり、映画と同じ状況ではないにしても、いつか人生の中で目撃したり、直面したりする可能性がありそうに見えてきます。

貧困、夫婦間の暴力、兄弟姉妹間で不均衡な親との関係、非就学児、幼児虐待など、多様な問題のただなかに立たされている登場人物たちは、観ている私たちと同じ人間なんだと強く感じました。

そう思わされたのは、演技に見えない自然な演出と、細やかな人物描写の結果でしょう。

 

ゆりという少女

寒い夜に家の外へ放置されていたゆりを、思い付きで家に連れ帰ってきたのは治です。

しかし、ゆりを帰そうとした信代は家の前まで来たものの、響いてくる罵声を聞いて引き返します。

そして、(法律的には誘拐になるにもかかわらず)ゆりを連れ帰って一緒に暮らすと決めます。

ゆりは明らかに暴力を振るわれた傷なのに「転んでけがした」と言ったり、虐待されているのではと疑う信代たちに「お母さんはとっても優しいの。お洋服買ってくれるの」と言ったりします。

服を買うのは愛情ではなく扶養だと告げたくても、彼女がそう言う時の生気のなさを見たらとても言えません。

ゆりが虐待に適応してしまった末に子どもらしさを失っているのは、素人目にも分かります。

直接的には言及されないものの、信代は小さな頃の自分にゆりを重ねていることが明らかになっていきます。

誘拐事件としてゆりのことが報道されても、信代は彼女を帰そうとはしません。

帰る場所として適切でないことを、身をもって知っているからです。

だから信代は、「りん」という名で彼女を呼んで、別の子であるかのように装わせてでも匿い続けました。

自分からはまったく喋らなかったりんが、子どもとして愛情や保護を受けるうちに、徐々に活気を得ていく様子がリアルでした。

彼女は最終的に虐待する両親のところに連れ戻されてしまいますが、相変わらず父から母への暴力により家の雰囲気は荒んでいます。

そんななか、暴言でりんを追い払ったあと我に返り、「お洋服買ってあげる」と猫撫で声を出す母親に、もう彼女は駆け寄りません。

母親が本当にりんに興味がなければ、このまま親子の心の距離はどんどん開いて、18歳位になればりんは家を出ていけるでしょう。

でももし、意のままにできる子どもがいなくなったら嫌だとか、(パートナーや社会とはまともな関係が築けないから)せめて小さな子どもは自分を泣いて求めるべきだとか、愛情なき執着に親が捕らわれていたら、りんが独立しようとした時に妨害するかもしれません。

ラストシーンの余韻も相まって、とにかくりんには無事に成長して家を出て欲しいという気持ちが、終わった後も脳内を回り続けていました。

 

祖母の初枝

祖母の初枝は、撮影後に亡くなった樹木希林さんが演じています。

元夫が別の女性と家庭を作った末に亡くなったらしく、その「別の家庭」に生まれた孫・亜紀をこの家族に引き込んでいます。

彼女は飄々として、あまり感情を表に出さず、地上げ屋の訪問ものらりくらり交わしています。

なので、亜紀の親に内緒で彼女を同居させているように振る舞いつつ、実は彼らからお金をもらっていたことを、どう考えているのか正直わかりません。

舞台が彼女の家である以上、この疑似家族の存在を望んでいたのは確かなはずなんですが。

亜紀を巻き込んだのは、初枝の家庭を壊した人たちへの意趣返しだとしても、亜紀に対して同居人以上の愛があったんじゃないかなと思いました。

亜紀以外の家族に対してもそうです。

劇中で亡くなる直前、家族で海へ出かけた時に、誰にともなく海へ向かってお礼を言う場面があります。

海へ出かけるなんて仲良しの素敵な家族だなと思います。

初枝も、日常から少し離れた楽しい時間も共有できる家族に恵まれ、幸せに思っていたんだと信じたいです。

 

あっという間に長い記事になってしまったので、次の記事に続きます。

 

 

 

 

レビュー執筆時に参照するもの

レビューを書く時に、自分の記憶だけを頼りに書く時もあります。

しかし、念のため登場人物の名前を確認したり、脚本や監督にまつわるエピソードを調べるため、あるいは自分以外の人がどう感じたか知りたいために、何かしら参照することも多いです。

そうした時に参照する映画関連サイトをご紹介します。

 

調べもの系

Wikipedia

言わずと知れたみんなの百科事典。

最近、登場人物の名前をよく忘れるので、レビューを書く前に調べることが多くなりました。

かなしい。

あと、序盤に何が起こったか復習するためにも使うことがあります。

結末まではあまり書いていないので、最初の部分だけ確認したい時に頼ります。

監督にまつわるエピソードや、映画が作られた背景などの情報があることが多いのはWikipediaの強みです。

リアルタイムで情報を拾えない昔の映画の場合、そうした豆知識が貴重なので見ていることが多いです。

 

あらすじ紹介サイト

hmhmのようなあらすじサイトも時々参照します。

あまりにも辛くて途中で観るのをやめた映画の結末だけ知りたかったり、中盤でちょっとだけ出てきたあの人の名前なに?と思ったりした時です。

先般、Twitterにブログでの紹介依頼をいただいたMIHOシネマさんのページも拝見してみたら、驚きの記事数で絶句しました。

MIHOシネマ | 映画ネタバレあらすじ結末

人気映画ならたくさんの解説ページが見つかりますが、ニッチな作品はそうはいかないので、在庫の多いあらすじサイトで復習しながら分析できるのはありがたいです。

ちなみにMIHOシネマさんではあらすじだけでなく、最新映画の口コミや評判もご紹介されています。

 

レビュー系

Twitter

私にとって、最近強力な存在感を発揮しているのがTwitterです。

試写会と初日にレビューツイートが急増する新作映画は、否が応でも注目してしまうし、ハイクオリティのことが多いです。

ブログ記事よりも投稿のハードルが低い分、ぶわっと感動の波が広がるのがよりわかりやすく伝わってきます。

あと、フォローしている方のお気に入りの映画一覧や、名刺がわりの映画10選に、気になっていた映画が何度か登場していたら、「あの映画やっぱり面白いんだ」と思ってリストの中で順位が繰り上がります。

たくさんの方の映画アカウントや趣味アカウントをフォローしてみて、思わぬ収穫を実感しています。

 

Filmarks

ほかの映画ファンは一体何を考えたのか?が知りたいとき、ついついレビューを観に行ってしまいます。

だからと言ってレビューに書く内容を変えるかと聞かれればあまり変わらないんですが。笑

元ネタの実話を知っていなくても楽しめるかとか、友達と観に行くのに適しているかとか、臨場感あるコメントや生の声を拾うのに使っております。

 

レビューを書く時に参照するもの、というタイトルですが、映画ファンが映画情報を集める方法と言い換えてもいいかもしれません。

なるべく満遍なく情報をとって、ベストな視点で記事が書けるよう、引き続き心がけたいと思います。

 

 

 

映画『リメンバー・ミー』

メキシコに実在する祭日「死者の日(los muertos)」をテーマにしたアニメ映画です。

家族向け・子ども向けの映画ではありますが、観た大人が次々に勧めるのを見てトライしたところ、号泣しました。。。

途中までネタバレします。

 

 

あらすじ

メキシコのサンタ・セシリアに住む少年ミゲルは音楽が大好きで、将来は音楽家になりたいと思っていた。

しかし、高祖父が音楽家になりたいと家族を置いて出て行ってしまったため、家族や親戚から音楽を禁止されていた。

リヴェラ一族には曽祖母ココ以下、誰も音楽をする者はいない。

死者の日の祭壇へご先祖の写真を飾るときも、高祖父の写真はその中になかった。

ミゲルは祖母や家族から、靴作りを継ぐよう言われるものの、全く興味を持てない。

ある日彼は、自分の高祖父が有名な音楽家ラクルスかもしれないと知り、反対を押し切って音楽コンテストに出ようと奮闘する。

しかし、コンテスト用の楽器にデラクルスの遺品のギターを使おうとしたミゲルは、突然、生きた人間から見えない存在になってしまう。

 

死者の日とは

死者の日は、ラテンアメリカとくにメキシコで毎年盛大に祝われるお祭りです。

11月1日が子どもの、2日が大人の魂が戻って来る日とされています。

期間中には、死者の花とされるマリーゴールドで街中や家の中が飾り付けられます。

また、アルタールと呼ばれる祭壇に遺影や十字架、故人の好きだったものを飾って、魂が帰ってくるのを待つそうで、映画の中でも祭壇に写真を飾ることが重要な意味を持ちました。

日本のお盆と似た意味合いがあるものの、内輪でしめやかに先祖を迎えるというよりは、明るく楽しくお祝いして死者の帰還を楽しむようです。

本作に出てくるサンタ・セシリアの人々も、賑やかなお祭りを楽しんでいたし、死者の国の人々も生者の世界におめかしして出かける様子が描かれていました。

 

死者の国と生者の国

ミゲルは死者デラクルスの楽器を盗もうとしたため、死者の国に飛ばされてしまい、生者からは見えず、死者とのみ見たり話したりできる存在になってしまいます。

生者の世界に戻るため、血縁の誰かに許しのまじないをかけてもらわなければならないのですが、幸いすぐに故人の親類縁者たちに見つけてもらったミゲルは、高祖母ママ・イメルダの許しをもらうことに。

しかし、イメルダは「今後2度と音楽をしないこと」を条件にするため全く折り合いません。

音楽を諦められないミゲルは、自分の高祖父であるはずのデラクルスに許しを得ようと、親族から逃げて彼を探します。

夜明けまでに許しをもらわなければ戻れなくなるので、急いでデラクルスを探さなければなりません。

そんな中、生者の国へ行きたいはぐれ者ヘクターに、彼の写真を存命の娘に届ける交換条件で助けてもらうことになりました。

死者の日に誰でも生者の世界に行けるわけではなく、生者に写真を飾ってもらえなければ帰ることはできないらしいのです。

 

人はいつ死ぬのか

調子の良いことを言っているだけに見えるヘクターに、しぶしぶ着いていったミゲルは、彼の友達が死ぬ瞬間を目の当たりにします。

死者は骸骨の姿になって永遠に生きるのではなく、生きている人間に彼を覚えている人が誰もいなくなれば消えてしまうのでした。

誰かが覚えていてくれれば生き続けられる、祭壇に写真を飾ってくれれば生者の国へ行って子どもや孫に会える。

死者の日に盛大に亡くなった魂を迎えられるということは、死=消滅ではないのかもしれません。

でも、もし誰からも迎えられなくなったら、魂が帰ってくる場所はないし、死んでいるから誰かと関われる機会はないわけです。

そして、程なくしてミゲルはデラクルスという人物に重大な秘密があったことに気づきます。

しかし、気づいたその時にはヘクターの写真を取り上げられ、ミゲルも一緒に町外れの洞窟に放り込まれます。

ヘクターは意気消沈して、自分にも二度目の死が近づいていること、ずっと前に生き別れた娘のココが彼を忘れたら自分は死んでしまうと打ち明けます。

ミゲルはようやく、ヘクターが曽祖母ココの父であり、自分の高祖父であると気づいたのでした。

 

完成度と密度の高さ

子ども向けの90分程度の映画にも関わらず、ストーリーの密度が高いのであらすじ解説にかなりの字数を割きました。

オーソドックスで熱苦しい家族の絆物語かと思いきや、ミゲルは家族に理解されなくて寂しい思いをするし、二度目の死という重要な課題を解決するために奔走するし、デラクルスの秘密という意外なミステリーまで盛り込まれているしで、全く飽きさせない高密度な展開でした。

現れた問題を感情的なものとして登場人物の気持ちで解決させたり、偶然の幸運でごまかすのではなく、現実として整理をつけるところも誠実です。

前半で散りばめた伏線が後半に一気に回収されていくのも楽しかった。

ママ・イメルダを頂点としたリヴェラ一族の結束が固く、最初はそれに苦しむミゲルが終盤で彼らに助けられるところも、スカッとするわ感動するわで良かったです。

感動する一方で、メキシコらしい明るさやコメディ要素が強いのもあって、全然押し付けがましくないのも好感度高しです。

 

ミゲルとヘクター

映画の魅力を高めているのは、緻密な脚本に加えて主人公2人のキャラクターであることは間違いありません。

音楽をやりたい気持ちをミゲルが家族にわかってもらえない時には一緒に切なくなるし、

死者の国を奔走している時には思わず応援してしまいます。

それもこれもミゲルの真面目で賢い性格が共感を誘わずにいられないからでしょう。

ヘクターは最初ヘラヘラしたお調子者に見えるものの、妻イメルダや娘のココのことを一途に想い続ける気持ちは本物です。

また、二度目の死を迎える友達に寄り添ったり、多少の下心があるとは言えミゲルを助けたり、基本いいヤツです。

二人の家族を思う気持ちや一途な音楽愛に元気付けられる作品でした。

 

おわりに

家族のつながりが強く、死者との交流も明るく楽しく行うメキシコの風景を、鮮やかに取り出した映画でした。

メキシコ行ったことないから大層なこと言えないけど、メキシコに留学してた友人も絶賛してましたので良作と言えると思います。

家族を思う気持ち、夢を追う気持ちが揺さぶられる素敵な作品です。

 

 

 

リメンバー・ミー (字幕版)

リメンバー・ミー (字幕版)