カンヌ映画祭で柳楽優弥が主演男優賞を受賞したことで話題になった、是枝監督の邦画作品。
大人が知らない東京の片隅で、置き去りにされひっそりと身を寄せ合って生きた子どもたちを淡々と描写する映画です。
あらすじ
母、2男2女の母子家庭が都内のあるアパートに引っ越してくる。
最初は和気藹々と過ごしていた一家だったが、母は好きな人ができたことで次第に家を空ける時間が長くなる。
やがて彼女は長男の明に現金を渡し、幼い弟妹の面倒を見るよう念を押すと何か月も家に帰ってこなくなってしまう。
巣鴨で実際に起こった子ども置き去り事件を下敷きにしたフィクション。
作りもの感のない時間
Wikipedia等で読む限り、実際の事件はもっと痛ましい様子だったようです。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/巣鴨子供置き去り事件
でも、この映画は途中まで子どもたちの暮らす様子が楽しそうで少しだけ救われます。
まだ母のいる序盤の風景もそうだし、お金に余裕があって仲睦まじくしている4人の置き去り初期の様子も。
最年長の明でも12歳くらい、妹や弟はもっと幼いので、母親を失っても子どもだけで楽しく生きているというのは、字面を見ると全然現実感がない。
だけど、子どもたちの演技が全員とても自然で、本当に演技と思えない。
是枝監督作品でよく言われていることですが、最初は本当にこれが映画なのかと思ってしまうほどです。
映画の中での時間の流れは、空白が多くて生活感があると言うか、台詞が終わったからと次の場面にテンポ良く切り替わっていく感じはありません。
映画を観ていると言うより、彼らの生活が自分の前で現実のこととして繰り広げられているような感覚になる。
そんなわけで序盤から中盤くらいまでは穏やかな空気で、ほのぼのと見守っていられる場面も多く、結構微笑ましかったりします。
けれども途中から明が「12歳の大人」としての役割を負いきれなくなってきて生活にもほころびが生じ始める。
彼らの家に姿を見せる女子中学生の紗希も、大人でない以上幼い友達を根本から救ってあげることはできない。
そして、彼女自身も大人の知らないところで孤独な状況に追い込まれている。
子どもの世界と大人の都合
お金が底をついてきたり、明の遊び仲間が家に出入りするようになると、子どもたちの家にも不穏な空気が漂い始めます。
待てど暮らせど母親は帰ってこないし、彼女は「自分にだって幸せになる権利がある」と疑いません。
そりゃそうかもしれないけど、その言葉はそっくりそのまま明たちにも当てはまるんだよ。。。
と観ている側は言いたくなりますが、幼い明は母に強くそう言われると抵抗できません。
どれだけ勝手で筋の通っていない理屈でも、知識や力で劣る子どもは大人に押さえつけられてしまいます。
基本的に子どもの世界メインで進んでいくストーリーですが、この場面は他の場面とは雰囲気が違っていました。
親になるときは誰でも、自分自身の意志ややりたいことを、少なからず諦めなければならないのでしょう。
彼らの人生半ばにして、母親はそれが嫌になってしまったわけですが、どうすればこの家族は幸せに暮らせたんだろうかと考えてしまいます。
あなたたちといても幸せじゃない、という趣旨の、明たちを突き放すような発言を、どうすればしなくて済んだのか。
実際の事件では、明の父親にあたる人物が、婚姻届も出生届も、出したふりだけして出しておらず、それを隠し続けたまま外に女を作り、挙句会社の金を使い込んで蒸発したことがわかっています。
母親はその後、父親の違う子どもを次々に産み、いずれも出生届を出していません。
最初の歯車が狂わなければ、この事件は起こらなかった。
だけど、長男への就学通知が届かなかった時に役所に届け出ていれば、存在している子どものためになら、公的機関の救済があったのではないか。
せめて、新しい恋人と同棲すると決めた時に、彼らを児童養護施設に預けてくれていたらよかったのか。
あるいは、彼らを『誰も知らない』存在にせず、周囲から早くに働きかけていれば、子どもだけで暮らしている彼らに助けが来たかもしれない。
「これはよくないから、こうすべき」という紋切り型のメッセージは、この映画にかぎらず是枝監督の映画にはありません。
しかし、だからこそいつまでも疑問が頭の中を回り続けます。
まとめ
子どもたちの世界は常に淡々と映し出されていて、あざといメッセージや露骨に教訓的な表現は皆無の映画です。
子どもたちが楽しそうだと、彼らの置かれた切羽詰まった状況を忘れてしまいそうにもなります。
それでも終盤になるにつれ、知識や経済力がなく、弱い立場にある子どもたちのことを考えてしまわざるを得ません。
大人の都合に巻き込まれた子どもたちはその後どうなったのか、彼らのような子どもは今どのくらいいるのか、深く考えさせられる映画でした。