映画『ブラス!』
Brexitに揺れる英国が、サッチャー政権の改革に揺れていたころの映画をご紹介します。
国策によって閉鎖される炭鉱お膝元の町が舞台ですが、Brexitのころ話題になっていたブルーカラー労働者コミュニティの強い結びつきに焦点が当てられています。
産業の喪失に向き合う町の中で、家族のつながりや友情、音楽について描く群像劇です。
あらすじ
60年代から70年代のイギリス病の後、「鉄の女」サッチャーによってサッチャリズムが推し進められる。
政策の一環として、イギリス中で多くの炭鉱が閉鎖されていくなか、グリムリー炭鉱にも白羽の矢が立っていた。
経営陣の提示する割増退職金を選ぶか、炭鉱存続をかけて労働争議を続けるか、労働組合員を対象とした投票が抗夫たちを揺さぶる。
苦しさを増す生活のなか、家族の絆も危うくなり、抗夫たちは所属するブラスバンドにかける情熱を失っていく。
産業と立地自治体
期待以上に見ごたえのある映画で驚いたというのが正直な感想です。
……これもっと有名でいいんでないの。
石炭の産地だった九州の一地域に住んでいたので、しみじみと感慨に浸りつつ観てしまいました。
あの町やあの町でも、炭鉱が終わるときにいろんなドラマがあったんだろうなと考えざるをえませんでした。
国費を注ぎ込んでまで斜陽産業を守ることは非合理的だと思いますし、それでは産業が代謝していきません。
また、職にあぶれたくなかったら、究極的には個人の努力で労働市場での価値を自分で高めていくしかないと思います。
なので、「どうして会社は何もしてくれないんだ」「会社が人生保障してくれ」という趣旨の訴えを聞くと、冷笑的な気分になってしまいます。
(日本のように年功序列制のもと硬直化した労働市場では、年齢が上がると一気に不利になってしまうと言う、個人ではどうしようもない事情もありますが)
ただ、グリムリーのように一つの産業に依存しきった地方自治体は、国を問わず存在します。
震災以降、何かと注目を集めている原発の立地自治体なんかもそうだし、製造業でもそんな町がいろんなところにあります。
そういった町に立地する企業が、住んでいる人々に与える影響は甚大で、彼らの「食べていく」ための営みを背負っている責任は否定できないし、無視もできません。
地元にいい企業があるから人生安泰だってぬくぬくしていたツケだろう、という考えもあるかもしれませんが、「食べていく」ために必死でもがいている登場人物たちを見ると、そういう言葉で切って捨ててしまえなくなります。
リアルな群像劇
この映画では、炭鉱で肉体労働に従事する坑夫たちだけじゃなく、ホワイトカラーであるグロリアや、抗夫たちの妻や子どもも出てきます。
グリムソープという町で起こった実話をもとにしたらしいので、そのへんの背景もより
物語を現実的に見せているのかもしれません。
いずれにしろ、登場人物一人一人だけでなく、お互いの人間関係がどのような結びつきかを自然に描いています。
また、炭鉱の情勢によって、経済的にも精神的にも追い詰められていく彼らの様子は、かなりシビアに描写されています(特に指揮者ダニーの息子フィルについて)。
お金がなくて今日食べるパンに事欠くのは恐ろしいことだけど、お金がなくて周りの誰とも生きたつながりがなくなってしまうのも、血の通った人間には充分残酷なことだと思います。
そういう意味で、「人はパンのみにて生くるにあらず」という言葉は真理を突いています。
だけど、そんなときに音楽が人間の魂を救えるかを問う映画ではないことは書いておきたいと思います。
音楽もみどころの一つ
ブラスバンドの音楽はこんなに楽しかったっけと思える映画です。
どっかで聴いたことのある名曲が散りばめられているというのもあるし、ところどころで登場する音楽が、それぞれ場面にマッチしています。
アランフェス協奏曲…
グロリア初登場時に演奏。
内戦の後、廃墟と化したアランフエスと、スペインの平和を祈って作られた曲。
重々しい炭鉱の状況を示唆する映像とともに流れます。
ウィリアム・テル序曲…
コンクールの大一番で演奏。
圧政から民衆を救うウィリアム・テルをモチーフとした曲。
時代の荒波を生き抜こうとするバンドメンバーの迫力が感じられる演奏でした。
ダニー・ボーイ…
指揮者ダニーのために演奏される一曲。
威風堂々…
ラストシーンで演奏。
イギリスの石炭産業と彼ら自身の退場曲となります。これも胸に迫る演奏でした。
イギリス人の作曲家エルガーの代表作です。
イギリス社会の描写という点でも、とりあえず良いブラスバンド音楽が一杯聴けるという点でも、観て損はない映画です。ぜひぜひ。
映画を観る理由
映画を観るのは好きなのですが、何でそんなに観るのかと言われると色々理由があります。
いくつか整理してみました。
ストーリーを楽しみたい
大抵はまずこの欲求があって映画を観ます。
本を読むときも大体同じです。
アクションやミステリ、恋愛ものやサスペンスの場合は特にこの理由で手に取ることが多いです。
笑いたいor泣きたい
気分を切り替えたいときに映画を観ることがあります。
コメディで笑って明るい気持ちになりたい、
爽快な映画を観て前向きな気持ちになりたい、
感動する作品を観て癒やされたい、
思い切り泣いて悲しい気持ちを発散したい、
などなど。
レビューやあるすじを頼りに最新の注意を払って最適な映画を選びます。
ある社会について知りたい
外国語を習い始めたばかりの頃に、その言語を母語としている社会や文化を知りたいと思って映画を観ることがあります。
とりあえずその国で作られた有名作品を手に取ることが多いです。
スペイン映画と言ったらアルモドバル監督かな、
ドイツ映画と言ったらまずは『グッバイ、レーニン!』かな、
と言った具合です。
その土地の生活や習慣や考え方について、きっと少なからぬ情報が詰まっているだろうということで。
映画の中で登場人物たちが怒ったり笑ったりするポイントを観ていれば、その土地の精神文化を垣間見られるとも思います。
ただ、ハリウッド映画以外は相当コアな作品か、ものすごい大作、めちゃくちゃ流行ったものしか輸入されてきません。
なので、その土地のことを知りたくて観始めても、必ずしもその映画がその文化を代表しているとは限りませんね。
ある出来事について知りたい
関心を持った歴史上の出来事について、それを題材にした映画を観て勉強することがあります。
これまで主に紛争や内戦などについて映画で情報収集してきました。
ブラックブック
サラの鍵
顔のないヒトラーたち
スペイン内戦:
ユーゴスラヴィア紛争:
パーフェクト・サークル
ビフォア・ザ・レイン
ブコバルに手紙は届かない
映画は事実そのものではないので、観たそのままを事実としてカウントするわけではありません。
ただ、事実ベースの調べ物と並行して情報収集するには有効かと思います。
特に戦争や内戦といった事象についてはなるべく映画を観るようにしています。
遠い国のニュースや、教科書に載っている出来事としてでなく、その場所にいたのは自分と同じ人間であると実感することが、考えるためのスタート地点になるからです。
ざっとまとめてみました。
過去の名作は沢山あるし、毎年世界の色々な地域から傑作が生み出されていますので、映画好きは一生観る作品に困ることはないはずです。
また映画について思っていることを記事にしたいと思います。
- 作者: フィリップ・ケンプ,遠藤裕子,大野晶子,片山奈緒美,小林さゆり,高橋知子,寺尾まち子
- 出版社/メーカー: 三省堂
- 発売日: 2016/12/09
- メディア: 単行本
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映画『帰ってきたヒトラー』
現代ドイツを代表する社会派コメディをご紹介します。
ヒトラーが大きい声で力強く喋ってる映画なので、ドイツ語リスニングの教材として良いんじゃなかろうか。
《あらすじ》
ベルリンの戦いでヒトラーたちが避難していた壕の跡地で、アドルフ・ヒトラーその人が1945年から現代にタイムスリップしてくる。
彼を見つけたのは、職業人生の崖っぷちに立たされ、一発逆転のために斬新なネタを探し回っていたTVマン。
ヒトラーの正体を訝しく思いながらも、そっくりさんとして彼をドイツじゅう連れて歩き回った珍道中が話題になり、ヒトラーは何とコメディアンとして絶大な人気を博するようになる。
映画の内容について
ヒトラーが現代にタイムスリップし、様々なメディアに登場して一躍人気者に。
ユダヤ人虐殺を推し進め、ドイツ史最大のタブーとなった人物が、如何にして現代人の人気を勝ち取っていくかが描かれます。
脚本のあるフィクションです。
原作も完全フィクションの小説です。
しかし、ヒトラーを連れてブランデンブルグ門付近やドイツの街を歩き回りながら、一般の人々の反応を撮影したり、外国人や移民に対する街頭インタビューをした映像も入っています。
それだけじゃなく、今ドイツで活動している右翼政党の本部に突撃したりしています。
このため、一部はドキュメンタリーとなっています。
世紀の大悪党が相手だからなのか、外国人や移民に対する厳しい見解についても一般の人々が饒舌になっています。
コメディが成立する理由
少しでもドイツの戦後思想をご存知の方なら(あるいはそうじゃなくても)、「あんな極悪人が人気コメディアンになるとか無理がありすぎない?」と考えるかと思います。
人道に対する罪を犯した大犯罪者の言うことなんて、笑いにならなくないか?という思いが浮かんで当然。
しかも舞台はドイツ。
戦後、国家トップがフランスの地面に膝をついて戦争犯罪を謝罪した国であり、他国を抑え付けて一国の勢力を拡大することや、全体主義的な人権の抑圧も、戦争の前段として忌み嫌う国です。
愛国心を剥き出しにできる場面はサッカーW杯くらい、という人もいます。
大体、70年前の演説の内容が今でもウケるわけがないと私は思っていました。
こんな絶叫するような感情的な演説が、現代の知的水準に受け入れられるわけがないという考えがあったからです。
一昔前なら情熱的と受け取られたかもしれないけれど、今なら常軌を逸した極右街宣としか見えないのではないか。
ところが、常軌を逸しているからこそ、滑稽なコメディのコンテンツとして成立しまいました。
滑稽さとインパクトがありすぎることによって、「何やってんだこの人!あはは」という展開になってしまった。
一応そっくりさんとして世に出たので、まさか本人だとは誰も思っていません。
また、戦後70年も経って、「もう笑いにしてもいいいいんじゃない?」という雰囲気が、ようやくドイツ国内に漂い始めていたのかもしれません。
そういう意味では、2016年だからこそ作れた作品なのでしょう。
10年近く前に留学していた頃は、「ナチ研究はずっとタブーだったけど、ここ何年かでようやく手をつけられるようになったんだって」とか言われていましたので。
見どころ・考えどころ
一応、特定の政治思想の具現としてのヒトラーは、理性的な大人なら認めるべきでないものと見なされています。
しかし、コメディのコンテンツとしてはどうでしょうか。
コメディアンとしてのヒトラーを笑いながらも、「確かにそーだよな!」と緩やかに共感をしてしまう人、人気を勝ち得ていくヒトラーをしめしめと思いながら眺めている人、自分のキャリアのために彼を利用する人、色々なリアクションが描かれています。
誰かが「これってやっぱりおかしくない?」と思い始める頃には、既にそんなこと言い出せない状況になっています。
それっぽくない皮を一枚被せたら、危ないものも簡単に人々の心に入り込んでしまうことを表現した映画でした。
彼を見て笑っている人は、「笑ったっていいよねコメディだもの」と思っているに違いない。
けれど、戦前のナチスの人たちも「ちょっと過激な人だけど良いよね、こんな苦しい時代だからこそ力のあるリーダーが必要なんだもの」と思ってたんじゃあるまいか。
倫理的に正しくなさそうなものでも、うまいこと聴き手の心にエクスキューズを与えてしまうという意味では、戦前のヒトラーもこの映画のヒトラーも同じだったかもしれません。
外国人は目障り、気の合う自国民だけで暮らしたい。
社会的弱者は足手まとい、能力のある同士だけでやっていきたい。
こうした思想は、ナチ時代だけに特有のものではなく、いつの時代にも、もちろん現代にもあります。
ただ、それを抑制する倫理があるから、特定のグループの人々が迫害されることを防ぐ力学が働いている。
倫理とは、分別ある現代人ならいつでも保てるものなのか?
21世紀にもなって社会が倫理を失うことなんて本当にありえないだろうか?
そう言った問いの投げかけもしている作品です。
まとめ
色々書いたのですが、純粋なコメディとして笑っちゃう場面もたくさんある映画でした。
特に、ゼンゼンブリンク局長による『ヒトラー 最期の12日間』のパロディとか…
ドイツ社会とナチスの関係について知ってみたい人に、強くお勧めする映画です。
映画『モネ・ゲーム』
ハリウッドのクライムコメディ映画をご紹介します。
ロマンスとかどうでもいいから痛快で楽しい映画が観たい人にお勧め。
《あらすじ》
冴えないキュレーターであるハリー・ディーンが、傲慢で高圧的な上司シャバンダーに一矢報いるため、モネの贋作を用いて彼から大金を騙し取ることを計画する。
計略の片棒を担がせるのは、溌剌としたテキサス娘のPJ・プズナウスキー。
誰とでも快活に話すPJと、相変わらず傲慢な雇い主シャバンダーのおかげで計略はなかなか思い通りにいかないうえ、ハリーは突然クビを言い渡されてしまう。
1966年の映画『泥棒貴族』のリメイク。
2人の主人公
キャメロン・ディアスの明朗快活さと、主人公の冴えなさがいい配合です。
アメリカンでぶっ飛んだ冗談と、イギリス的な皮肉に富んだ笑いがいい感じのバランスに仕上がっています。
途中で日本のサラリーマンの皆さんが盛大にディスられてるけど、そんな極東の労働者たちとも意思疎通ができてしまうヒロインのコミュニケーション能力が素晴らしい。
日本人役の人たちは多分日本人じゃないと思うけど笑
同時に、主人公のコミュ力のなさに関しての描写がリアルで、同じコミュ障としては共感を禁じえません。
世渡りをこなすだけの狡さや賢さ、大胆さがないと生きていくのは大変なんですよね。
そんなハリーが一大決心をして大胆な計画を実行しようとするも、今までそんなものやったことがないので悪戦苦闘します。
奮闘ぶりもリアルだけどコミカルで、共感しつつもやっぱり笑ってしまいます。
脚本の良さ
コメディなのにちゃっかり伏線も回収しているところが個人的にはポイント高かったです。
ぶっ飛んだ展開も、序盤で伏線を用意しておくことで観客を納得させてしまうという。
ちょっと短めの映画ではありますが、テンポが良いのも特徴の1つです。
笑いどころや小ネタが次々に出てくるので飽きることなく楽しめます。
軽快なクライムコメディですが、出演者がコリン・ファース、キャメロン・ディアス、アラン・リックマンという大物揃いでした。
コリン・ファースは『王様のスピーチ』で演じた誠実で苦悩する国王という役柄とは打って変わって、ひねくれて悩むサラリーマンを演じています。
でも全然違和感なくストーリーに入っていけるのは、俳優としての実力が高いからなんでしょう多分。
アラン・リックマンは『ハリー・ポッター』シリーズでスネイプ先生を演じた人ですが、役柄と雰囲気が違いすぎて同一人物だと見抜けませんでした。
またこんな映画出てこないかなと思います。
爽やかに観終われました!
映画『シン・ゴジラ』
昨年話題になった『シン・ゴジラ』をご紹介します。
どんな層にウケてたのか調べてないけども、学生さんが観ても面白いんでしょうか。
社会人が観ると、風刺的な描写にあるあるーと見入ってしまいます。
《あらすじ》
首都圏近海に巨大な恐竜のような生物が出現した。
巨大不明生物は京浜地区に上陸し、破壊活動をしたあと一切の動きを止める。しかし、暫くののちに再び動き出し、日本の人口が集中する首都圏の壊滅が危惧される事態となった。
ゴジラと名付けられた生物を止めるには核を用いるしかないかと思われた矢先、特別編成されたチームがある作戦を練り始める。
ちょいちょいネタばれしております。
SF映画として
あの生物の正体を特定して対策を考えなければ、と奔走している傍らゴジラが暴れていて一刻の猶予もない!という緊張感がある映画でした。
ゴジラの第一次暴動では、これまでのビジュアルと一線を画す、ノーマル爬虫類感満載のゴジラが出てきます。しかも気持ち悪い。
アップデートが行われると、我々の知っている姿に近づきます。
SF映画でありつつ、「国難とも言える重大な脅威が迫った時に日本人は対処できるのか」という問いを含んでいます。
だから、長谷川博己さん演じる主人公はこの非常事態の対応にあたるで官房副長官であり、他の登場人物も政治家や行政関係者がほとんどを占めているのでしょう。
官僚組織の描写
言わせていただくならば、どこの弊社かしらと思うくらい役所の役所感がリアル。
地方公務員でも国家公務員でもないのですが、とても官僚的な組織で働いているので、初っ端から「あるある」が多くて目眩がしました。
誰の担当?誰が決めるの?これうちの仕事じゃなくない?ということを議論し尽くさないと何も進まない感じが特に。
山ほどの会議があるのも同じです。
でも少しだけ仕事をしてみた感じ、現実の霞が関の人はもう少しレスポンス良いんじゃないかと思いました。
誇張して描かれていると思いますので、実際と違うことは致し方なしですが。
ボトムアップ
本当のところは現場しかわからない。
だから部下が事実から結論にいたるまで誂えた報告を上にあげ、その指示を実際に「出す」役目だけをボスが負う、ということを端的に示している場面があります。
トップ自身の意志を示すのではなく、トップなのに指揮系統の歯車になってしまっているように見えます。
はみ出し者
なお、各省庁や研究機関のはみ出し者が集まって好き勝手やるドリームチームの設定ですが、残り物には福ばかりみたいなのはさすがに夢見がちな気が。
あとさすがに最高識者集めたらもっとマシなコメント出ると思いました。
実力がありすぎて浮いてしまい、組織の中で能力を発揮できていないというドラマチックな存在は現実そんなに沢山いないと思います。
ただ、おじいさんばっかりの会議の場面に比して、特撮災害対策本部は働きざかりの人が沢山いたことについてはちょっとリアルだなと思いました。
年功序列の組織では若手の暴れる機会がないので、非常事態でもなければ打順が回ってきません。
年取ったはみ出し者は、天下りして省庁を出て行ってしまうので、現役のはみ出し者は比較的若い人たち。
皮肉ですが、組織のピンチが若手のチャンスになりました。
若手といってもアラフォー、若くてもぎりぎりアラサーくらいの人たちだったと思いますが、高齢化してる以上若手の定義にも見直しが必要かも。
市井の力
ゴジラを駆除するための作戦が終盤で計画・実行されますが、作戦準備には日本中の化学メーカーの力が必要とされました。
そのため、あらん限りの設備と能力を投じて目的の物質を製造しにかかります。
主人公は官房副長官で、群像劇の登場人物は主に行政立法関係者だけど、それだけで国が動くわけではないことを示唆していた重要な場面でした。
作戦実施は全部自衛隊がやっていたけど、本当は化学メーカーや重機のオペレーターなど、もっと沢山の職業の人が現場に行く必要があったと思います。
まとめ
これまでのゴジラの世界から全く離れ、国防上の危機としてゴジラを描いた作品です。
東日本大震災という非常事態の記憶が生々しい時代だからこそ、「日本は重大な脅威に立ち向かえるのか?」というテーマが話題を呼んだのだと思います。
日本的組織の特徴、国際関係論上の日本の立ち位置などを絡め、ゴジラという国難を現実世界の中で描くことに真摯に向き合っているのが印象的でした。
意見を言いたくなる場面もありましたが、そのくらい夢中になって観てしまった作品でした。
お勧めできるか訊かれたら間違いなくお勧めですが、日本的組織の特徴をよく知らない人が観てもピンと来ないところは多々あると思います。
なので、海外ウケが芳しくなくても致し方ないところ。
とは言え、一日本人として見ておきたい作品でした。
ドラマ『情熱のシーラ』2
引き続き『情熱のシーラ』の魅力を語ります。
前回はシーラ個人を描いた作品としての魅力を語りましたので、今度は大河ドラマとしての面白さをご紹介します。
大河ドラマとして
スペイン語の原題はEl tiempo entre costurasで、直訳は「縫い目の間の時間」という意味です。
スペイン内戦から第二次世界大戦という2つの大きな歴史的事件の間、激動の時代という意味かと思われます。
シーラという個人の人生を印象的に描きつつも、これらの時代背景を描写する大河ドラマとしての完成度も追求されていました。
スペイン内戦
舞台がモロッコに移って間もなく、シーラは人の裏切りや大きな挫折を経験します。
あまつさえスペイン内戦が始まってしまい、マドリッドに帰ることも、残してきた母に会うこともできなくなります。
そんな時にシーラの世話を焼き、構ってくれたのが下宿の女主人や店子たち、下宿を紹介してくれたバスケス警察署長。
皆、シーラにとってかけがえのない存在になり、大変な思いはしつつも、モロッコでの生活は徐々に順調さを増してきます。
そして内戦の終わり。一応の平和の訪れではあるものの、下宿の住人たちの小競り合いを見ていると、皆が手を取り合って喜べる終わり方ではなかったようです。
共産主義に対する反応が立場によって異なり、内戦が終わってもスペイン国内にしこりが残ったことを示唆していました。
また、モロッコにいたシーラたちは内戦の惨状を目にしていませんが、その後再会したシーラの母の表情の暗さから、内戦がスペインに与えた傷の深刻さを窺い知ることができます。
加えて、内戦終了後も共産主義者への弾圧が続いたこと、それが内戦後の人々に暗い影響を与えていたことも詳しく描写されていました。
別記事で紹介した『パンズ・ラビリンス』の状況と同じですね。
第二次世界大戦
内戦が終結したスペインの回復を待つことなく、ヨーロッパに第二次世界大戦の影が忍び寄ります。
スペインに再び戦争に持ちこたえる力はない。
内戦を見ていた母の言葉にも後押しを受け、シーラはスペインが戦争に巻き込まれないための諜報活動に身を投じることを決意します。
ヨーロッパで不穏な緊張感を高めているナチスドイツと、内戦後のスペインを治めるフランコ独裁政権の距離を引き離すこと。
そのためには、重要なポストにいる親英派の人物を突破口として、スペインとイギリスの仲を取り持つ必要がある。
シーラの任務は、工房にドレスを仕立てに来る要人の妻や娘たちから、重要人物たちの動きについて情報収集を行うこと。
その情報を活用して、外交上の作戦や暗闘が繰り広げられます。
だんだんとシーラの活躍がハイレベルになっていき、終盤には「これもう協力者どころじゃなく立派な工作員やんけ!」というレベルになります。
ドラマ後半は手に汗握る展開がこれでもかと続き、はらはらが止まりません。
ロザリンダとの友情
工房のお得意様の一人であり、要人ベイグベデルの愛人でもあるロザリンダ・フォックスは、ドラマ後半の重要な登場人物です。
イギリス人ですが、モロッコで暮らしており、あるきっかけを通じてシーラとは顧客と仕立て屋以上の間柄になります。
美しく豊かで、全てを手にしているように見えますが、夫との関係が良好でなかったり、人間らしい面を持つ人物でもあります。
リアルな人物描写もこのドラマの魅力の一つ。
彼女とシーラはモロッコにいる間じゅう強い友情で結ばれ、その後も互いに何かと思い出される存在です。
こんな素敵な女同士の友情が沢山あったらいいですね。
激動の時代に強い絆で結ばれた2人の様子はとても印象的でした。
ロザリンダを介し、シーラの人生にとって重要な人物となるローガンにも出会うことになります。
余談ですが、ドラマに登場するヨーロッパの都市マドリッドやリスボンはもちろん、モロッコのタンジールやテトゥアンにも、様々な国から来た人が暮らしています。
スペイン人、イギリス人、ドイツ人、各国の要人たちの思惑がモロッコで交錯する。
帝国主義全盛時代、列強が世界中に人を送り出していたことを実感します。
帝国主義は、植民地開拓の推進であったのと同時に、グローバル化でもあったのでしょう。
まとめ
とにかく夢中になって観てしまいました。
原作の小説がベストセラーだったと言うのも大納得です。
そのためか、細部までとてもクオリティの高いドラマに仕上げられています。
原作が持っているであろう登場人物の魅力や、物語の面白さ、歴史に対する洞察が最大限に活かされているのはもちろん、それぞれの都市の街並みや、衣装の美しさなど、映像作品としてのクオリティも惜しみなく付加されていました。
原作の小説はまだ読んでいませんが、いつかスペイン語で読めるようになりたいです。
周りのスペイン語学習者ガチ勢の女性たちも、皆このドラマに夢中になっていました。
スペインを代表する映像作品として、いろんな人にお勧めしたいです。
ドラマ『情熱のシーラ』
久方ぶりにドラマのご紹介。
スペイン制作の作品で、NHKの海外ドラマ枠で放映されていました。
ヒロインの成長記であり、時代の体験記であるというところから、スペインの傑作朝ドラとも言えるのではないかと思います。
核心部分に触れないようにしつつも、ちょくちょくネタバレします。
《あらすじ》
1930年代のスペイン・マドリッド。
お針子のシーラは母から裁縫の技術を学びながら、人生で初めての恋に落ちる。
恋人イグナシオは将来を約束された相手だったが、ある日情熱的な若者ラミーロに出会い、激しいアプローチを受ける。
シーラは少女らしい情熱に身を任せ、ラミーロを選ぶ。それはスペイン、モロッコ、ポルトガルなど幾つもの国をまたぎながら、スペイン内戦から第二次世界大戦への激動の時代に突入していく、壮大なドラマの始まりだった。
シーラの成長記として
家族との再会や別離、恋人との出会いや別れ、友情、職業人としての成功、祖国のための諜報活動など、激動の何年かを過ごしてシーラは大きく成長します。
ドラマ序盤の彼女は、頭も腕も良いかもしれないけれど純朴で初々しいお針子。生まれ育ったスペインで、母や友人や初恋の人と幸せに過ごしています。
しかし、恋に身を任せてラミーロを選ぶ場面では、彼女を諌めようとする母に毅然とした表情を見せます。
Es mi vida, madre.
私の人生よ 母さん
シーラは決して攻撃的でもやかましくもありませんが、自分の信じたことや大切な相手に真剣に向き合う姿勢を持っています。
また意志が強く、決めたことに対してすぐに行動し、着々と目的を達成していく行動力があります。自身のこうした性格が彼女の成長を積極的に後押ししていきます。
特に自分の工房を持ってからの彼女の仕事人としての成長は目覚ましく、営業や外勤の仕事をしている人には須らく視聴を勧めたいくらいです。笑
ちょっとした話術や機転で、仕事上の人間関係を円滑にしたり、信頼を得たりするヒントがたくさんあります。
こうしたスキルは諜報活動に協力する段になっても如何なく発揮されており、幾度となく修羅場を潜り抜けたり、重要な成果をあげることに成功したりしています。
ちょっとした違いを積み重ねて仕事で抜きん出ることは簡単そうで難しい。
その違いを発揮するにはいつも冷静でいなければならず、いつも冷静でいるには安定した実力がなければならないからです。
シーラの場合、お針子としての能力が確かなものだからこそ、その能力を応用しながら商売人あるいはスパイとしても優秀になれたのでしょう。
デザイン・衣装の美しさ
シーラの成長を示唆することにもなるのが、彼女が着たり仕立てたりしている衣装です。
序盤では綺麗だけども素朴な服が多いのですが、回が進むにつれどんどん華やかで上品な服装になっていき、初々しい少女から立派な淑女に成長するのが見て取れます。
服だけでなく、小物やインテリアもいちいち素敵で、毎回みとれてしまいました。
モロッコやポルトガルの風景も美しく、トータルの映像の美しさという点でも相当なハイスコアを叩き出しているドラマと言えます。
昔行ったリスボンにまた行きたくてたまらなくなりました。そしてタンジールやテトゥアンなど、見たことのないモロッコの町に行ってみたくなります。
情熱が溢れすぎて記事が長くなってしまったので、大河ドラマとしての魅力は次の記事で語りたいと思います。