映画『ドリームプラン』
伝説的テニスプレーヤーのウィリアムズ姉妹を育てた、彼女たちの父親を主人公にした映画をご紹介します。
本作でウィル・スミスがアカデミー賞主演男優賞を受賞したことと、授賞式でのビンタ事件が有名ですが、作品自体の魅力もぜひ知られてほしいです。
ネタバレでお送りします。
あらすじ
黒人世帯ばかりの町コンプトンで、妻とともに5人の娘を育てるリチャード・ウィリアムズ。
最も年下のヴィーナスとセリーナを伝説的テニスプレーヤーにするため、彼は馬車馬のように働きながら、毎日2人の練習に付き合っていた。
ある日、マッケンローやサンプラスのコーチがヴィーナスの指導についたことから、家族の運命は大きく動き始める。
試合に出ないヴィーナスを、最高のコーチのもと、無料でプロに育て上げさせるというドリームプランは、順風満帆かに見えた。
しかし、ヒンギスら有望な同世代の選手を見ているうちに、ヴィーナスは焦りを抱き始める。
リチャードの計画の背景
娘たちを伝説的テニスプレーヤーに育て上げるため、生まれる前から70ページ以上の計画書を書いた、というリチャード。
普通に聞いたら「えっ」と引く人も多そうなエピソード。
しかしここには、アメリカならではの事情があることをお伝えしておきたいです。
彼らが住むコンプトンの風景を見ればわかりますが、黒人が多い地域の治安や経済状況はあまりよくありません。
少年少女は高確率でマリファナや犯罪に手を出し、安定した仕事につけるチャンスは少ない。
そうした環境要因に巻き込まれないよう、リチャードと妻は心を砕いているわけです。
上の娘3人も、成績はクラスで一番、というのもその方針の一環。
環境に負けず頑張ればいい、という言葉では片付けられないアメリカ社会の現状を見ると、「ゆるぎない技術や学歴をつける」のは正解と言わざるをえません。
しかし、そうして立身出世したはずのセリーナ・ウィリアムズですら、出産後に危険な症状を訴えても、なかなかCTを撮ってもらえなかったそうです(黒人の妊産婦は、白人の妊産婦の数倍、死亡率が高いとされています)。
厳然と立ちはだかる人種の壁に、懸命に抗おうとした、というのがドリームプランの背景と言えます。
ヴィーナスという先駆者
娘たちの指導を最初にかって出てくれたコーチは、無料での指導は一人しかできないと言います。
そのためリチャードは、姉のヴィーナスの指導を依頼。
現在も第一線で活躍し続けているセリーナは、雌伏の時を過ごすこととなります。
セリーナの偉人ぶりを知っている私たちからすると、ちょっと意外な事実でした。
でも確かに、デビューやグランドスラムでの活躍は、ヴィーナスが先でした。
ということは、黒人のプロテニスプレーヤーという新境地を切り拓いたのも、彼女だったと言えます。
それまでは、世界で活躍するテニスプレーヤーはほぼみんな白人という状況で、ヴィーナスが初参加したジュニア大会での対戦相手も、全員白人。
ウィリアムズ一家が会場に入るだけで、アウェー感がバリバリに漂っていました。
それはさておき、コーチがついた後は、ヴィーナスとリチャードの関係性をメインにドラマが展開していきます。
リチャードはヴィーナスを試合に出さず、学校や音楽のレッスンもおろそかにしないよう、徹底的に生活を管理します。
しかし、彼女を積極的に試合に出し、知名度も高めていきたいコーチとはたびたび衝突することになってしまいます。
リチャードの葛藤
ヴィーナスを世界的プレーヤーに育てたい。
でも、テニスだけをしていては、スポンサーやマスコミに使い捨てられ、人生が破綻することにもなりかねない。
だからこそ彼は、彼女を試合に出さず、学業を優先させることにしていました。
しかし、ヴィーナスの才能や実力を知るコーチは彼女をプロデビューさせることを勧めます。
何よりヴィーナス自身が、同世代のヒンギスらがデビューしていくことに、焦りを覚えていました。
二人目のコーチのリックからそのことを告げられ、リチャードは自身の抱える葛藤を吐露します。
かつて、とても些細なことから白人の大人に暴力を振るわれたこと。
それを見ていた彼の父親は、目を背けて立ち去り、彼を護ってくれなかったこと。
だからこそ、娘たちを絶対に護れる親になろうと誓ったこと。
ヴィーナスが彼の護れない場所に行ってしまわないよう、大会出場やスポンサー契約から遠ざけようとしたこと。
本音でヴィーナスと語り合ったうえで、彼女の試合出場を認めたリチャード。
ヴィーナスのプロデビューを見届けることになりますが、その顔はどこか解放された表情にも見えました。
映画冒頭から、「自分の子どもをここまで信じてサポートできるって凄いけど、ここまで来ると過干渉なのでは」という違和感がありました。
妻であるオラシーンや、コーチたちの助言も聞き入れない、ワンマン体制なのでなおさらです。
でもこの場面で、ヴィーナス自身と語り合ったことにより、リチャードが子離れしたことが描かれていて、観ている人をホッとさせます。
ウィリアムズ家というチーム
リチャードのワンマン体制で突き進んでいたチームですが、ヴィーナスのデビューをめぐっては大人たちの関係も変化していきます。
敬虔なキリスト教徒として、夫をひたすら立ててきたオラシーンが、「家族はチームなのに、なぜあなたがすべてを決めてしまうのか」と言い募る場面があります。
自身の過干渉に気付いたリチャードは、リックの説得もあり考え方を見直していくことに。
粛々とリチャードを支えるオラシーンがいたからこそ、リチャードは信じた道を突き進むことができた。
そして、プロフェッショナルかつ客観的なリックがいたからこそ、軌道修正ができた。
誰一人欠けても、ヴィーナスの成功には辿りつけなかったと思わされます。
メインキャストの演技力
残念ながら授賞式で物議を醸してしまったウィル・スミスですが、本作の演技のクオリティについて異議のある人はいないと思います。
ルイジアナ訛りから歩き方まで、ウィリアムズ家のお父ちゃんを完コピしたであろう振る舞いが見て取れます。
いい意味で、ウィル・スミスがウィル・スミスに見えない映画でした。
それに加えて、ヴィーナス役のサナイヤ・シドニーの存在感も特筆すべきものです。
ひたむきで可愛らしい演技が、観ている人を応援したい気持ちにさせます。
彼女がコーチのリックに、とてもめんどくさい性格のリチャードを説得してくれるよう頼む場面にも説得力があります。笑
大いに躊躇っていたリックが「おいおいそんな目で見つめられたら断れるわけ……わーかったよ俺がやるよ!」となる流れが最高でした。
姉妹を見て思うこと
ヴィーナスとセリーナを演じた二人は、演技もさることながら、テニスも上手。
そんな二人のキャスティングが叶ったことこそ、ウィリアムズ姉妹の功績を示しているのではないかと思います。
白人のスポーツだったテニスですが、ウィリアムズ姉妹を見て黒人の女の子たちが多数プレーするようになったのだろうと思うからです。
プレーヤー人口の層が厚くなり、その中に演技もできる人がいる、二人がそれほどまでに新しいグループにテニスを広げたんだなと。
何となく想像がついてしまう展開ではありますが、ラストシーンでは見事に泣かされてしまいました。
おわりに
欲を言えばセリーナの成長もみたかったけれど、観ると元気を貰える映画として文句なしのクオリティでした。
どんどん才能を伸ばしていくヴィーナスだけでなく、暴走気味だったリチャードも成長する展開が良いですね。
親離れというのは子離れでもあるんだな、と実感させられます。
そんな親子の成長が、テニス界で誰もできなかった偉業を成し遂げさせることになったとは。
エンドロール前に明かされる、姉妹の功績や現在にもジンとします。
勇気ややる気を貰いたいときに、おすすめの映画です。
ドラマ『チェルノブイリ』
ソビエト連邦時代のウクライナで起こった、あまりに有名な原子力事故に基づくドラマのレビューです。
ドラマとしてのクオリティもさることながら、骨太なメッセージが胸を打つ秀作です。
全5話のドラマで、米国の制作会社HBOによって制作されました。
ネタバレでお送りします。
あらすじ
原発の静かな城下町プリピャチが、ある夜発電所の火災に見舞われる。
消防士や、火事を見物に行った町の人たちが間もなく身体の異変を訴えるが、原子力事故に対応できる人員はおらず混迷を極める。
ようやくソビエト連邦政府から専門家レガソフや議員シチェルビナが到着するも、重大事故発生を隠したい当局に動きを制限され、思うように対応できない。
一方、300キロ離れたベラルーシのミンスクで、異常な高線量に気づいた核物理学者ホミュックは、事故の発生とその原因を突きとめる。
体面を重んじる政府が決して公表しないであろう原因を、何とかして世に知らしめたいレガソフ、シチェルビナ、ホミュックだが……
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本作のメッセージ
本作はソビエト連邦時代の1986年に起こった、チェルノブイリ原子力発電所での事故をもとにしています。
陸路で侵攻したロシア軍が現在掌握していると伝えられています。
それもあってこのドラマを思い出したのですが、本作は原子力事故の恐ろしさもさることながら、隠蔽体質の罪深さを余すところなく描き出した作品となっています。
異常を訴える人が病院に殺到しても、プリピャチ市ではまだ数十時間、人々は普通の生活を続けていました。
避難指示も出ず、発電所で何が起こったかも伝えられていませんでした。
あまりに前代未聞の事故だったために、ことの重大さが把握しきれていなかったというのはありますが、だったらとにかく安全確保のためになるべく遠くへ住民を移動させてしかるべきなのに。
なぜか。
ソビエト連邦政府は、大規模な避難指示や、情報周知によって、重大事故を発生させてしまったと知れ渡ることを怖れていたためです。
連邦内の他の地域、ひいては西側諸国に状況を知られては、ソビエトの面目は丸つぶれになるからです。
後手後手の対応
しかし、あまりに大量の放射線が漏出したため、何百キロも離れた地点でも異常な線量の上昇が観測され、西側世界も「何かが起こっている」ことに気づきます。
事情を知る登場人物が「西ドイツのフランクフルトでは、子どもを外で遊ばせないようにしているらしい」という話をしているとき、プリピャチではまだ子どもたちが学校に通っていました。
その後、主人公レガソフ博士の訴えに基づき大規模な避難が始まるものの、連邦政府が避難指示を実施したのは控えめな範囲のみ。
まだ「それほどの大事故ではない」との体裁を保ちたい彼らに、博士が苛立ちを爆発させる一言が胸に刺さります。
私が世間知らずでバカなだけかもしれないが これが世の中ですか?
官僚や党員の無知で気まぐれな判断で 大勢の人が犠牲になるなんて
計画経済のもと、人々の仕事も給料も生活も、すべては国が管理している社会では、一般市民はひたすら国や行政機構に従うしかありません。
逆らえば暮らしそのものが危機に瀕するからです。
言い換えれば、生殺与奪を国に握られてしまうということです。
非常事態になっても、自分の生死に関わる情報すら、国の都合ひとつで知らせてもらえない。
さらに、放射線に汚染された資材を撤去するため、高線量下でも動作する機器をドイツから借りるも、なぜかすぐに使いものにならなくなってしまいます。
シチェルビナが政府に問い合わせると、ドイツから借りる際「どの程度の線量に耐えうる機械が欲しいか」を正確に伝えていなかったと判明。
正直な数字を伝えると、どれだけ深刻な事故が起こったかがドイツ側に知られてしまうためです。
この期に及んでもメンツ優先の姿勢に、シチェルビナも怒りを隠しきれません。
真実の公表をめぐって
もう一人のメインの登場人物ウラナ・ホミュックは、ベラルーシにいながら高線量に気づいて現地に駆け付け、事故の原因を探り始めます。
彼女は原子炉のもともとの仕様に問題があったこと、それを連邦政府が長年隠ぺいしてきたこと、問題を指摘した科学者の声も隠されていたことを突きとめます。
KGBも関わっていた機密を公表したら、自分たちの命が危ない。
KGBとの取引を考えるよう諫めるシチェルビナに、ホミュックは、大量の放射線を浴びた妊婦が産んだ子が、四時間で亡くなったことを告げます。
母体の放射線を代わりに吸収したことで、致命的な影響を受けたためです。
この国では子どもが母親を救って死ぬ
何が取引よ 命など惜しくない 真実を語らなきゃ
その訴えの切実さを象徴するように、最終話のタイトルは『真実』となっており、 レガソフ博士も事故の本質について下記のように語ります。
秘密と嘘ばかり それが我々の姿です
真実が牙を剥けば数々の嘘で隠し忘れようとする でも真実は消えない
嘘をつくたびに真実へのツケがたまる ツケは必ず払わされる
RBMK炉の爆発を招いた本当の原因は“嘘”だ
真実と安全
発電所に限らず、どんなプラントでも工場でも建設現場でも、安全は永遠の課題です。
そしてそのためには、今ある状況から客観的に危険要素を洗い出し、改善していくことが不可欠です。
だから、ヒヤリハット報告がたくさん上がってくるのは良い現場なんですよね。
「こんなにヒヤリハットがあるとは何事だ」と威圧されて、危険予知ができなくなっては本末転倒なので。
ドラマでは、それと正反対の状況が描き出され、隠蔽体質を常態化させている社会主義体制の問題点がありありと伝わってきます。
国がすべての権力を握り、権威主義がはびこると、都合の悪いことは隠してしまえとなる圧力が否応なく働くわけで。
こんな社会へ絶対に時計の針を巻き戻してはいけないと思うのですが、プーチンが目指しているのは”偉大なソビエト”の復活らしいですね……
第1話の最序盤は、事故が発生したその瞬間の運転員たちの会話から始まります。
この会話がまた違和感満載で、というのも誰一人として「何が起こったか」にまるで見当がついていない。
おいおい本当に運転員の会話か? となるのですが、のちに理由が明らかになります。
原子炉の出力を停止するための制御棒を動作させるとき、一時的に出力が上がってしまうという仕様上の欠陥について、彼らはまったく知らされていないのです。
かつてそれを指摘した論文はKGBによって機密扱いに。
ソビエトの原子力技術は至高でなければならず、欠陥は許されないためです。
それを知らないままイレギュラーな実験をしたことが、炉の特性に作用して事故を招いてしまった。
ソビエトの原子炉
東日本大震災で福島第一原子力発電所が危機に瀕していた時、Wikipediaのチェルノブイリ原発事故のページを読んだ日本人は多いのではないでしょうか。
私もその一人です。
当時、事故の起こったきっかけが、制御棒の動作の際の特徴にあったことは明記されていました。
しかし、「何でこんな仕様の炉を使っていたんだ?」という疑問を解消する記述はなく、ずっと不思議でしたが、ドラマを見て謎が解けました。
西側の原子炉より安価に建設することができるこのタイプの炉を、ソビエトは使い続ける必要があったんですね。
「間違っていた」なんて絶対に認めるわけにいかないから。
でも、ソビエトのプライドのためにウクライナの人々が強いられた犠牲は、どうやって説明したらいいのか。
おわりに
立ち退きを求めるソビエト軍に対し、現地の老女が「革命が起こっても、戦争になってもこの土地を離れなかった。今回も離れない」と言い放つ場面は鬼気迫るものがありました。
ここが自分の生きる場所だから、という言外の訴えが伝わってきます。
今もウクライナに留まって暮らしたり、戦っている人たちも、守りたいものや離れたくない場所をそれぞれに持っているのだと思います。
現在のロシアは、権威主義と独裁がまかり通っている状況でしょうから、自浄作用や軌道修正は、ソビエト時代と同様に望みにくいと思います。
ドラマの中のレガソフやシチェルビナ(二人とも実在の人物です)のように行動できる人が、ロシアにどれだけいるのか。
単純に両軍の物量や人員の差を比べればウクライナの現実には厳しいものがありますが、西側世界からの制裁や支援が少しでも良い効果をもたらすことを祈っています。
今こそ見てほしい、中東欧やロシアが舞台の映画
ロシアによるウクライナへの侵攻のニュースに毎日じりじりしている中で、今までに観た映画やドラマの場面が頭をよぎることがあります。
断片的でも、間接的でも、今こそ中東欧を知るために役立つかもしれない映画について、まとめてみることにしました。
チェルノブイリ
ソビエト連邦時代のウクライナで起こった、チェルノブイリ原子力発電事故に基づいたドラマです(全5話。リンクは第1話のもの)。
静かな原発の城下町、プリピャチの平和な夜が、原子力発電所の火災によってにわかに騒がしくなります。
最初はただの火事だと思い、見物に行っていた町の人々が次々に身体の異変に見舞われ、しだいに現地の病院は混乱状態に。
原子力事故に対応できる人員もいない中、町としても適切な対応ができないまま時間が過ぎていきます。
ようやく連邦中央から派遣されてきた専門家や政治家も、事故を隠蔽したい政権に動きを制限され、思うように対処できません。
耐えかねた主人公が吐き捨てるセリフが心に刺さります。
私が世間知らずでバカなだけかもしれないが これが世の中ですか? 官僚や党員の無知で気まぐれな判断で 大勢の人が犠牲になるなんて
事故対応が混迷を極める中、事故の原因を探っていた科学者ウラナはある真実に辿り着きます。
それを公表しなければと使命感に駆られる主人公たちですが、無論対面を重んじるソビエト中央部がそれを許すはずもなく、苦境に立たされます。
また、立ち退きを求められたウクライナ人の老女が、「革命が起こっても、戦争になってもここを離れなかった。今回も同じだ」と言い放つ場面は鬼気迫るものがあります。
ホロドモールなど苦難の歴史をソビエト下で経験してきた人々の姿を垣間見ると同時に、こうした歴史を強いた相手に二度と屈しないという、現在の人々の勇気にもつながるものを感じます。
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君の涙ドナウに流れ ハンガリー1956
ソビエト連邦時代のハンガリーで起こった民主化運動に基づいた映画です。
水球のハンガリー代表選手カウチと、若き活動家の女性ヴィキが主人公。
国際大会でロシア代表に理不尽な扱いを受けながら、正々堂々戦おうとするカウチと、ソビエト中央からの弾圧を受けながらも民主化を求めるヴィキの姿を描いています。
ハンガリー人の友人にブダペストを案内してもらった際、「ここは1956年の蜂起を記念した広場、あの記念碑は○○年の民主化運動、あれは……」という具合に、何度も何度も民主化を希求しては弾圧された歴史に圧倒されたことがあります。
その1ページを描いた映画ですが、状況の理不尽さやままならなさに、既に過ぎたことと言えどやるせない思いをせずにいられません。
自由な世界に近づこうとするたび、多大な犠牲を払わされた中欧の国々ですが、今回のウクライナが自由を奪われないことを切に願います。
カティンの森
第二次世界大戦下、ドイツとソビエトに分割され消滅したポーランドが舞台の映画。
カティンの町に近い森の中で、ポーランド人将校1万数千人が殺害されているのが、侵攻してきたナチスドイツにより発見されます。
ポーランドの人々は、これがソビエト軍人たちの仕業だと聞かされますが、その後ドイツが撤退すると、ソビエト側はナチスドイツのした虐殺だと発表。
大切な人々を殺された上に、真実を知ることもできず翻弄されたポーランドの苦難の歴史が窺い知れます。
殺害を行ったのがソビエトだとわかったのは冷戦終結後のことでした。
なお2005年に、ロシア連邦最高軍事検察庁は、「カティンの森事件はジェノサイドには当たらない」との声明を出しています。
EUのトップであるフォンデアライエン氏が、今回の戦争を「これはウクライナだけの戦いではなく、自由世界を守るための戦いだ」と発言したことにも頷けます。
今回の侵攻を許したら、またこのような事件が起こり得る世界が来てしまうわけです。
過去に単体で書いたレビュー記事はこちらです。
モスクワは涙を信じない
ロシアが周辺国にしたことばかりを紹介していますが、最後にフェアであるべくロシア映画をひとつ。
アカデミー賞外国映画賞を受賞した作品です。
タイトルはロシアのことわざで、「泣いているだけでは何にもならない」といった意味合いですが、映画そのものは心温まる内容となっています。
ソビエト連邦時代のモスクワで働く主人公エカテリーナは、若くして予期せぬ妊娠をしたうえ、相手のルドルフには突き放されてしまいます。
その後、シングルマザーをしながら懸命に働いた彼女は大工場の責任者に出世。
娘は美しく成長し、ゴーシャという恋人も得て新しい人生を楽しみ始めます。
しかし、ふとしたことからゴーシャより高給取りであることが明るみに出て、男として大黒柱でありたいゴーシャはショックを受けることに。
旧東側社会の数少ない長所、女性の社会進出や仕事における機会の平等が垣間見られるうえ、終盤の問いかけも画期的な部分があったと思います。
エカテリーナを支える友人たちも温かく、友達って良いなと素直に思えるストーリーでした。
こんな映画が生まれた国でもある、ということはこれからも頭に入れておきたいと思う作品です。
過去に単体で書いたレビュー記事はこちらです。
おわりに
「オデッサの階段」でしか知らなかったオデッサの地名を、まさか戦争のニュースで耳にする日が来るとは思いもしませんでした。
寒さに耐えて避難している方が早く暖かい場所に辿り着けるよう、眠れぬ夜を過ごしている方が少しでも早く平穏を取り戻せるよう、祈っております。
映画『フォレスト・ガンプ 一期一会』
年末年始にぴったりの、心温まる映画をご紹介します。
戦後アメリカの歴史を駆け抜けた架空の人物の活躍を軸に、人生や人の出会いについて考えさせられる名作です。
それでいて押しつけがましさが一切なく、爽やかで温かいファンタジーを観たような不思議な感触も特筆すべき作品でしょう。
ネタバレでお送りします。
あらすじ
アラバマ州生まれのフォレスト・ガンプは、人より低い知能指数を持って生まれた。
いっぽうで優れた身体能力と純真な心を持ち、彼の温かさに惹かれた人々との関わりの中で人生を切り拓いていく。
それは戦後アメリカの光と闇を辿る旅でもあった。
母への愛や戦友たちとの友情、そして幼馴染のジェニーへの淡い思いを抱きながら、フォレストは様々な歴史的場面に立ち会っていく。
数奇な運命を経て、故郷アラバマのグリーンボウに帰ってきたフォレスト。
そこへ現れた人物は……
特別な主人公
フォレストは、通常より低い知能を持って生まれた男性です。
しかし、母の粘り腰で普通の学校に入学し、地域の子どもたちと学校教育を受けることに。
そこで出会った女の子ジェニーと、生涯にわたって影響を与え合う関係となります。
また、俊足という才能を見出されたことをきっかけに、スポーツ推薦でアラバマ大学へ進学したり、身体能力を買われて軍に入隊したりと、人生を切り拓いていくことに。
さらに、純粋な心の持ち主であるフォレストの元には、様々な人が集まってきます。
ハリウッド映画の主人公と言えば、イケメンで何らかの才能を持っていてモテて、というイメージがありますが、フォレストはそうした枠に当てはまらない存在です。
そして、普通の主人公と一味違った彼のもとに特別なストーリーが展開していきます。
全体を支えるこの設定が、フォレストが損得勘定なく、虚心坦懐に歴史に立ち会ったり、出会った人々との絆を深めていく様子に説得力を与えているためです。
歴史の重要な場面は政治の思惑なども切っては切れない関係にありますが、特定の思想や利害感情を持たないフォレストだからこそ、屈託なく関わることができます。
誰かのピンチを助けるため躊躇いなく駆け付け、傷ついた人にうわべだけの慰めを言ったりしないのも、彼のキャラクターがなせるわざです。
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人々との絆
フォレストを愛し信じぬく母、人生の転換点でいつも再会する女性ジェニーに加え、フォレストは様々な人物に出会います。
特筆すべきは、入隊した軍で出会ったバッバとダン中尉です。
バッバはフォレストと同様アラバマ出身の黒人の若者で、実家の家族と同じようにエビ漁で身を立てることを望んでいました。
純朴な彼とフォレストは意気投合し、一緒に訓練を終えた後にベトナムへ出征。
ダン中尉のもとに配属された二人は、メコンデルタ地域での攻勢に参加。
故郷での穏やかな暮らしを目標としていたバッバですが、この地域での作戦の最中に命を落とし、ダン中尉も負傷し両足を失ってしまいます。
亡くなったバッバはフォレストと同じく、賢くはないかもしれないけれど、優しい心を持った青年。
二人が親友になったのは自然なことだなと納得がいきますが、ダン中尉はそれと対照的な人物です。
彼は膝から下の両足を失ったことで自暴自棄になり、除隊後退廃的な生活を送ることになりますが、何かを求めるかのようにフォレストを訪ねてきます。
そして、自分のやるせない思いや、新しい生きがいを見つけたい気持ちをフォレストにぶつけていきます。
人心の複雑な機微はわからないながらも、優しいフォレストは彼の言葉も行動も拒みません。
バッバと語った夢に沿ってエビ漁の会社を設立し、ダン中尉とともに成功させます。
生きるよすがを失っていたダン中尉の心を救うくだりは、多くの人にとって忘れられない場面のひとつではないでしょうか。
バッバや彼との出会いは配属による偶然であって、それがこんな展開を迎えるとは誰も予測しなかったはず。
まさにフォレストの母が言った、「人生はチョコレートの箱のようなもの、開けてみるまで何があるかわからない(Life is like a box of chocolates. You'll never know what you're gonna get.)」と符合していました。
戦後アメリカ史の光と闇
フォレストはフットボールの全米代表として大統領に会い、ベトナム戦争に出征し、ピンポン外交に携わったかと思うと、ウォーターゲート事件を目撃、その後アップルに投資して億万長者になります。
1950年代から80年代の、歴史的イベントや風潮を総ざらいするような人生です。
加えて、その歴史の中を生きるフォレストとジェニーの対照的な立ち位置も印象的。
フォレストの立ち会った歴史がアメリカの光なら、ジェニーは闇です。
一芸があれば推薦で進学できたり、軍に入隊して社会的地位を得られる、あるいは事業や投資で一儲けができると言ったアメリカンドリームを体現するのがフォレスト。
幼少期は虐待に苦しめられ、青年期はヒッピーとして退廃的に暮らし、その後の波乱の中でエイズを患ったジェニーは、アメリカ現代史の暗部を歩んだ人生と言えるでしょう。
そんなジェニーは、人生の岐路でフォレストと何度となく再会するものの、光と闇の相容れなさを象徴するかのように、いつも去って行ってしまいます。
最後に選ぶもの
母の旅立ちを見送り、グリーンボウで暮らしていたフォレストに、ある日ジェニーから手紙が届きます。
彼女を訪ねていったフォレストは、小さな息子を紹介されます。
かつて一緒に暮らしていた時に身ごもったフォレストの子どもで、名前はフォレスト・ジュニアだと言います。
エイズに冒されていた彼女は、フォレストと結婚したいと告げます。
驚きつつもジェニーの想いを受け入れたフォレストは、彼女と息子と暮らし始めます。
結婚式には、パートナーを見つけ、義足をつけて新たな人生を歩んでいるダン中尉もお祝いに駆け付けました。
バッバや母はフォレストの人生の途中で旅立ってしまいましたが、ジェニーやダン中尉はフォレストとの関わりで安らぎを得た人として、再登場してくれました。
何度も彼に助けられながら、フォレストの愛を受け入れられず別れを繰り返すジェニーに、反感を覚える人も多いでしょう。
しかし個人的には、不安定な幼少期を過ごし、青春期にも安心を得られなかった彼女が、ようやく帰るべき場所を見つけたことは、純粋に良かったと思えました。
それがフォレストのもとであったことは、彼にとっても幸せだったでしょう。
おわりに
特定の時代を色濃く切り取ったストーリーでありながら、色あせない魅力を持つ名作のひとつです。
監督は『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズのロバート・ゼメキスだと知って、才能の凄まじさに驚愕してしまいました……
露骨な演出はないのに、心が奥から温まり、観終わった後に前向きな気持ちになれる稀有な作品です。
家族や友達と楽しい時間を過ごしたいときに、おすすめの映画です。
映画『マイ・インターン』
観終わったときにスカッとして元気がもらえる、ニューヨーク発のお仕事ものコメディをご紹介します。
本作『マイ・インターン』は、同じくニューヨークを舞台としたお仕事ものコメディ、『プラダを着た悪魔』の姉妹編として紹介されることが多いです。
メインの人物を同じアン・ハサウェイが演じていますが、ストーリーは完全に独立しており、まったく違う人物が主人公となっています(前作は出版社秘書、本作では起業家)。
ネタバレでお送りします!
あらすじ
リタイアして妻も亡き後、穏やかな一人暮らしをしていたベンは、ある日シニア・インターンの求人を見つける。
西海岸にいる息子家族との交流や、趣味では埋められないものを感じていた彼は、新たな生きがいを求めて応募。
見事合格し、ブルックリンでアパレルのオンライン販売を手掛けるスタートアップ企業に採用されたベン。
社長のジュールスを筆頭に、若い同僚ばかりの職場に始めは戸惑うも、徐々に彼らとの親交を深めていく。
そんななか、公私ともに苦境に陥っていたジュールスも、しだいにベンを頼るようになっていく。
年齢を越えた友情
本作の見どころは何と言っても、ベンと、ジュールスをはじめとした同僚たちとの年齢を越えた絆です。
彼らが働くアパレル企業は、ブルックリンの中でもお洒落に再開発されたダンボ地区にあります。
そして、ジュールスが起業して数年のスタートアップ企業の同僚たちは、20代と思しき若者ばかり。
ベンにとっては子ども以上に年の離れた人々で、最初は戸惑いがちです。
採用活動の一環で、「自己PR動画をここにアップロードしてね」という指示に手こずる場面なんかもリアリティがありました。
しかし、謙虚な姿勢で、年の功からのアドバイスをしてくれるベンに、徐々に若者たちが信頼を寄せていくように。
実際はこんなにフラットに若者に接してくれる人はなかなかいないと思いますが、違う世代同士でもこんな風に仕事仲間になれたらいいな、と思わせる描写です。
尊敬する人に会うときのファッションチェックや、好きな人へのアピールの仕方など、冷静になればわかることが、若い時には意外と実践できなかったりします。
年長のドライバーの不祥事を諫めたりするのも、若者にはなかなかしづらいことかも。
それを的確に指摘してくれるベンが、人生の先生役として描かれていました。
そして、ベンが疎いIT機器の使い方や、職場のルールなどを同僚たちが丁寧に教えてくれるのも温かかったです。
年齢を越えてフランクに交流できるこの会社自体が、すごく良い職場なんじゃないかなと思えました。
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明るいお仕事コメディ
穏やかで謙虚なベンと好対照をなすのが、ちゃきちゃきの創業者ジュールスです。
若くてパワフルな彼女は、母親との関係が悪いせいか、年上の人との人間関係を築くことに苦手意識を持っています。
ベンが直属の秘書に配属されても、大した用事を頼まず避けがちに。
しかし、そんな状況でもできることを見つけて働こうとする彼に、しだいに心を開いていきます。
彼女との関係に関して、ベンの歩み寄りが素晴らしいですね。
孫ほど若い女性に距離を置かれたら、自分だったら早々に心が折れる自信があります……
それでも洞察力を駆使してジュールスのニーズを汲み取り、具体的に行動するベンの姿は、ジュールスのみならず周りの同僚の信頼を勝ち得ていきます。
ジュールスが非常に優秀な実業家であることは随所から伝わってきますが、同時に成長中の若い企業ならではの問題も色々抱えています。
そうしたリアリスティックな問題や、ジュールスの人間的なエピソード(ママとの関係、家庭の問題)などのバランスが良く、奮闘する彼女と見守るベン、という構図が非常に安定感あるものとなっています。
また、中盤の山場である「ママのメール事件」でベンと愉快な仲間たちがジュールスのために一肌脱ぐ姿も、本人たちは真剣だけど面白かったです!
人生の決断
ジュールスは仕事とプライベートにそれぞれ課題を抱えています。
仕事の上では、急成長した会社のビジネスの中で、彼女の目の届かない部分が増えてしまっていること。
外部からCEOを迎え入れることで、より彼女のやりたいことに集中できる環境を整えるよう、投資家から促されています。
しかし、ジュールス自身は自分で経営や管理を行いたいという希望が強いため、誰かに会社トップを任せることに抵抗を覚えています。
いっぽう、CEO雇い入れを考えたのにはもう一つの理由があります。
それは家族との時間を確保するため。
ジュールスには専業主夫となって彼女を支える夫マットと、小さな一人娘がいます。
二人との時間を確保するには、経営者としての業務を誰かに任せたほうが良い、という気持ちがあるわけです。
そして実際、マットの心がジュールスから離れつつあると知った彼女はショックを受けます。
それでも、自身のキャリアを捨てて家庭に入ってくれたマットを突き放す気になれず、今の家族のかたちも失いたくないジュールス。
ベンに打ち明け話をし、どちらもかけがえのない仕事と家族について真剣に考えることになりますが……
二人で状況に向き合った結果、どのような決断がされるのか、ぜひ見守っていただきたいと思います。
おわりに
お仕事もの、コメディ、ヒューマンドラマなど様々な要素が詰まった珠玉の名作です。
仕事に邁進すれば家庭との両立に悩む、引退したあとの生きがい探しに戸惑う、年齢の離れた人との関係を築くのに奮闘するなど、映画を観ている私たちにもどこかリンクしそうな状況が巧みに描かれています。
それらが爽快に、だけどリアリティを残して解決していく様子にスカッとしますし、観終わった後元気になれる作品です。
爽やかなコメディ映画をお探しの方にお勧めの映画です。
ドラマ『ダウントン・アビー』
英国ドラマの不朽の名作となった『ダウントン・アビー』シリーズについての紹介レビュー記事です。
シーズン1~3について書いていきます。ネタバレします。
なお、最終シーズン後に公開された劇場版のレビューはこちら。
あらすじ
1912年、タイタニック号沈没。
大西洋発のニュースは、ヨークシャーのダウントン・アビーに邸宅を構えるグランサム伯爵家を揺るがした。
長女メアリーの婚約者であり、同家の相続人だった従兄パトリックが同事故で亡くなったためだ。
男子しか相続人になれない世で、三人姉妹以外に子のない伯爵家の相続は、彼らが顔も名前も知らない若者マシューへ。
大都市マンチェスターで弁護士として働いていたマシューはダウントンに呼ばれ、伯爵家の面々と顔を合わせることに。
貴族制没落の兆しが見え始めた英国社会の片隅で、新しい出会いと静かな変化が生まれようとしていた。
英国と貴族制
ドラマの展開する時代は20世紀前半の英国。
現在も貴族制が存続する英国ですが、この頃は世界的な変化の波が貴族制も揺るがし始めた時期に当たります。
領地経営や豪奢な邸宅の維持に行き詰まり、没落する貴族が出始める時代が訪れるころ、シリーズは幕を開けます。
舞台となるグランサム伯爵家は、当主のロバートとコーラ夫妻、ロバートの母ヴァイオレット、夫妻の子である三人姉妹という家族構成。
当時の英国では限嗣相続制が採用されており、男性しか家督を継ぐことができません。
つまりロバート一家はこのままでは彼の死後、ダウントン・アビーを失ってしまうのですが、長女メアリーが相続権を持つ従兄パトリックと結婚することで問題が解決するはずでした。
ところが、パトリックが突然亡くなったことで事態は暗転。
見たこともない遠い親戚に相続権が移り、弁護士として働いていた彼をマンチェスターから呼び寄せることになります。
貴族制の在り方や、ダウントンの相続問題が通底したテーマとして随所に顔を出し、伯爵家の行く末がどうなっていくのか、というのが本ドラマのひとつの見どころ。
しかし、それだけではなく他にも内容盛りだくさんなところがさらに良いところです。
次項にてご紹介します!
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個性的なキャラクター
このドラマでは、伯爵家の貴族たちだけではなく、そこで働いている使用人たちにも焦点が当てられています。
執事のカーソン、家政婦長のヒューズさん、料理人のパットモアさん、侍女のオブライエンと言ったベテラン勢をはじめ、侍従のベイツ、メイド長のアンナ、下僕のトーマスと言った中堅勢。
若手はキッチンメイドのデイジー、第二下僕のウィリアム、メイドのグウェン等々。
たくさんの登場人物がいますが、すべからく個性的で、各々の事情を抱えています。
それは貴族の面々も同じで、一人として似たような人がいないんですよね。
仕事にプライドを持つ執事カーソン、侍従に昇進したい下僕トーマス、戦場でロバートとともに過ごした侍従といったメンズの人間模様、ウィリアムに想いを寄せられるデイジーや下働きの仕事を脱したいグウェンなど、見どころは盛りだくさん。
私のお気に入りは、生まれついての主人公体質のメアリーです。
とにかくモテてそれを自分でもわかっている……とだけ聞くとあまり好感度高くなさそうですが笑、自分に対しての厳しさを最後の最後で失わない強さがある人物です。
あとは、優秀だけど気難しいカーソンさんや暴れ馬パットモアさんも御してくれる、安定のヒューズさんがかっこいいです。
中堅メンバーではいつもアナを応援してしまいます。
さらに、各登場人物の社会的な状況や、お互いの階級に対する振る舞い方などの考証がとにかく緻密。
タイピストや秘書など、女性がホワイトカラーとして働き始めたこと、学校教育が浸透し始めたこと、第一次世界大戦での社会の変化など、変わりつつある世の中が登場人物を通して見えてくるところも見ごたえあり。
それもそのはず、本作の脚本家を務めるベテランのジュリアン・フェロウズは、自身が貴族であり、映画『ゴスフォード・パーク』の脚本も手掛けたことから知識も豊富。
使用人たちの生活リズムや人間関係、貴族の振る舞いなどについて新鮮な情報を提供しつつ、情報過多になりすぎないバランスも非常に巧みです。
なお使用人たちの顔ぶれは、退職や転職によってシーズンごとに変わっていきますが、それがまた飽きさせない一因になっています。
密度の濃い展開
良質な群像劇が必ずそうであるように、本作も非常に密度の濃い展開が続きます。
シーズン1だけで、タイタニック号沈没から第一次世界大戦直前までの二年間を描いていますから、自然と凝縮されたシナリオになるのは確かでしょう。
しかしそれ以上に、各キャラクターの化学反応を見ているのがとにかく楽しい。
メアリーとマシュー、ヴァイオレットとマシューの母の主導権争い、メアリーとイーディスの姉妹バトル、ベイツとトーマスの確執などなど、ときに辛辣に、ときにユーモラスに描かれていきます。
しかし、人間のリアルな嫌なところを書きつつも、登場人物への愛が失われないタッチが良いですね。
そのへん卒のない老練な語りは、ベテランのジュリアン・フェロウズだからこそ成し遂げられる技かもしれません。
シーズン1のシナリオを読んだことがあるのですが、とにかくセリフの量が多い。
そして、ところどころについている脚注から、当時の生活や社会に関する洞察がとにかく深いことも印象的でした。
おわりに
個性あふれるキャラクターに目を奪われているうちに、何話も観てしまっているのがダウントン・アビーの世界。
たくさんの登場人物がいるので、誰かしらは自分の納得のいくことを言ってくれるという安心感もあります笑
イギリスの美しい田園風景と、きらびやかな邸宅の映像に癒されつつ、見ごたえある人間ドラマを楽しみたい方におすすめの作品です。
映画『萌の朱雀』
『殯の森』に続き、河瀨直美監督作品をご紹介します。
同じく監督の故郷・奈良(こちらは吉野)で撮られた作品です。
短く素朴なストーリーと、現地に身を置いているかのような雄弁な映像が印象的な映画です。
カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞しています。
国立映画アーカイブで上映された際、監督のインタビューを聞くことができましたので、その時聞いたエピソードも交えてご紹介します。
ネタバレしています。
あらすじ
過疎化が進む恋野村で育った田原みちるは、父母と祖母、従兄の栄介との五人暮らし。
みちるの父は、村へ通るという鉄道の新線建設のために働いていたが、計画が立ち消えになると失意のうちに去ってしまう。
兄妹のように育った従兄の栄介に想いを寄せるみちるだが、栄介は姉のように慕うみちるの母に恋心を抱いている。
そんななか、家族を支えるため旅館で働いていたみちるの母が倒れてしまう。
映像へのこだわり
本作は95分という、長編のなかでは比較的短い作品です。
しかし『殯の森』と同様、映像が雄弁なために濃さが短さを完全に補っています……
とくに吉野(現在の五條市)の山深い自然の映像は、緑の瑞々しさが実際に手に触れられそうに感じるほどです。
みちるの母と栄介が雨宿りする境内の光景など、何気ないシーンにも自然の手触りが感じられます。
夏の場面の暑さ、雨の場面の湿気など、その場の空気が伝わってきそうなうえ、その土地独特の美しさも感じられます。
河瀨監督が当地をよく知っていて、最も魅力の伝わる状況や場所を写し取っているのだなと思えます。
また、インタビューで監督が語ったところによると、美術などはチームのメンバーの裁量に大きく委ねていたようです。
たとえば「屋根の色はどうしますか」とスタッフに訊かれたら、「現地の色合いに最も合う色を感じ取ってそれにしてください」と指示していたとか。
「○○色にしてください」という指示を予想していた現場としては想定外だったかもしれませんが、結果としてとても完成度の高い調和した映像になっていると感じます。
ただ、主演の國村隼さんから「このチームは船頭のいない船のようだ」と言われたこともあったようです。
「今でこそ河瀨監督流と言ってもらえるようになりましたけど……」というニュアンスで紹介されていました。
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自然な演技
これも『殯の森』と同様ですが、当時演技経験なしの尾野真千子をメインに据えたこともあり、いかにも演技らしい演技はまったくない作品となっています。
セリフも表情も自然で、静かな田舎の片隅に暮らす人たちの生活を、自然に切り取ったものという雰囲気が滲み出ています。
みちる役の女優を探していた時、芸能プロダクションから候補者の打診を受けていた河瀨監督ですが、提案された候補の中に「吉野にいそうな女の子」がいないことに悩んでいたそうです。
そんななか、ロケハンをしているとき偶然地元の学校で見つけた尾野真千子をスカウトし、キャスティングしたと言います。
演技初挑戦だった彼女ですが、監督曰く「ベテランの國村さんを上回るとんでもない集中力を成長を見せていた」とのこと。
その後大成して、数々の商業作品に出ていることも納得のエピソードでした。
素朴なストーリー
時間が短いこともあり、派手な事件が起こる脚本ではありません。
しかし、静かに綴られるみちるたちの暮らしや恋心が、忘れられない余韻を残します。
片田舎のままならない運命に翻弄される一家の中、みちるの淡い恋心が育ち、ひとつの結末を迎える様子を丁寧に描いています。
鉄道計画は結局暗礁に乗り上げてしまったり、恋心は結局叶わなかったり、この映画は正統的なハッピーエンドを描いたものではありません。
でも、生まれ得なかったもの、叶わなかったことにも意味があるのではないか、という思いを持ちながら描いた作品だ、と監督が語っていました。
確かに栄介もみちるも、最後には慕った人と離ればなれになってしまい、その前に恋人同士として想いが通うこともありません。
しかし、大切な人を想い続けた記憶が、その後の二人の人生の大切な一部分になってくれるのではないかな、と思います。
本作は監督自身の手による小説も出されていますので、いつか読んでみたいと思います。
おわりに
余談ですが、本作の撮影は監督にとってもかなりの試練だったようで、毎朝身支度をしながら「始まったんだから、終わるよね」と言い聞かせていたというエピソードを紹介されていました。
カンヌのグランプリ受賞、というところばかりに最初は驚きましたが、それだけの才能を持った方が、しんどさを乗り越えて創作に打ち込んだ結果として、こういう作品ができてくるんだなと実感しました。
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