映画『愛を読むひと』
ドイツ留学中に現地で観て、今般再鑑賞した映画です。
数奇な恋愛の話かと思いきや、ナチスドイツの罪を問う重々しい展開に後半は圧倒されがちになります。
最後までネタバレします。
あらすじ
1960年代のドイツ。
15歳の少年マイケルは、突然具合が悪くなり道端で動けずにいたところを、21歳年上の女性ハンナに助けられる。
熱から回復した後、お礼にハンナを訪ねたマイケルは、彼女と男女の関係になり、足しげく家に通う。
やがて、ハンナに頼まれて『オデュッセイア』などの物語を読み聞かせるようにもなる。
しかし、ある日突然ハンナは彼の前から姿を消し、消息がつかめなくなってしまう。
時が経ち、ハイデルベルク大学の法学部で学業を修めていたマイケルは、ある日衝撃的な形でハンナとの再会を遂げる。
ハンナの葛藤
ドイツ語が理解しきれなかったところを消化しつつ、大筋はわかってる中でハンナの行動を見てると、非常に辛いものがありました。。。
マイケルとのやり取りの中で現れる気まずい瞬間をかわし(料理のメニューをさりげなく先に読ませて同じものを注文する)、職場での昇進の打診も擲って蒸発し、罪を軽くする証明すらも拒んで、文字が読めないことを隠し続ける。
序盤の情緒不安定な様子も、結末を知っているとなぜなのか理解できてしまいます。
重大な隠し事をしながら、それがいつ明るみに出るかわからない怖れと常に闘いながら暮らしているからです。
のちの裁判で、読み聞かせ役に指名した相手を次々移送していたのも、非識字者だとばれたくない一心だったのでしょう。
文盲であることを隠すために、仕事も限られ(現場仕事ならできるが事務職はシーメンスでも市電でも徹底的に避けています)、人と深い関りを持つこともできません。
そんな中で得られた数少ない人間関係が、マイケルとの奇妙なつながりです。
ついついいろんな思いをぶつけがちだったんだろうと想像がつきました。
ハンナの秘密
劇中では、なぜ一生隠し続けたハンデをハンナが負うことになったかは語られません。
全てを擲っても隠さなきゃいけないことだったのか、そこに別のトラウマがあったのか、ハンデを負ったことに加えて、身寄りや友人やパートナーもいなかったことが、克服のきっかけを失った背景だろうか。
色々考えていましたが、他の方のレビューを読んでみたところ、原作小説『朗読者』に書かれている彼女のルーツにヒントがあるようです。
ハンナはルーマニアの田舎町出身で、ヨーロッパの人なら流浪の民ロマであろうと推察できる特徴が書かれているそうです。
定住しない生活を送っていたなら、学校に行けず文盲であるのも納得です。
そして、滞在した先の住人と、定職を持たない貧しい暮らしゆえにトラブルが多いロマは、長らく差別の対象となってきました。
ナチスドイツでは、ロマは「劣等民族」の一つに数えられ、絶滅政策がとられました。
ユダヤ人と同様に強制収容所に入れられ、数十万人のロマが殺害されたと言われます。
また、ドイツ以外の国でも、第二次世界大戦までは店舗を持って開業することが禁じられていました。
戦後のソ連や東欧圏では移動禁止令が課され、定住・同化への圧力がかけられたほか、西側諸国でもロマを少数民族と認め、権利を保障する動きはありませんでした。
戦後の反省を通して、声が聞かれ始めたユダヤ人の人々と比べても、遜色ない過酷な社会的立場であることが窺えます。
このことこそが、ハンナが絶対に秘密を明かさなかった理由でしょう。
文字が読めないことを告白したら、おそらく「何で?学校行かなかったの?どこで育ったの?」→「ルーマニア出身?かつ文盲?えっ…」→ロマだと暴露される、という不安があったのではないでしょうか。
自分の短いヨーロッパ在住歴(00年代)を振り返ってみても、ロマに関する数少ない情報はネガティブな評判でしたので、「ロマだとわかった瞬間に排除される」恐怖は非常に強かったと思われます。
その思いの片鱗は、人と関わらず、でも真面目に仕事をして、社会に溶け込もうとしている姿勢からも読み取れます。
マイケルが裁判時に、文盲であることを明らかにするべきと考え、ハンナに面会を試みるも立ち去ってしまった理由も、このへんにあるのかもしれません。
こちらもほとんど語られませんが、少年の頃の関係が暴露されることへの怖れ(相手はロマの女性)、ハンナが隠し続けてきた属性を暴いてしまうことの重みの理解があったとしたら、少し納得できるような気がします。
マイケルの反省
留学当時、一緒に映画を観たお姉さんが「期待させては突き放して、あの主人公何なんだ」と怒ってた意味が今ならわかります。
そのときは少年時代の主人公と同じ歳くらいだったから、まあ踏み切れない時もあるのかなくらいに思っていました。
今観ると「少年時代はともかくとしておっさんになったらちゃんと自己開示して深く人と関わりなよ…」と思います。
家父長感溢れる抑圧的な父親、温かさのないぎこちない家族、好きだったハンナの突然の失踪なんかを経て、(娘に対しても誰に対しても)心を開けない人になってしまったと、根拠はちゃんと描かれています。
でも本当に人と繋がろうと思うなら、そのくらい大切な人がいるなら、失敗覚悟で相手の懐に飛び込んだり、相手を受け入れる勇気を持つ必要があります。
ようやくまともに関わりかけたハンナが、彼の手をすりぬけるように自殺してしまった後、マイケルはついに娘に過去を語り始めます。
誰にも言えなかった過去を、娘に打ち明けることで、マイケルは本当の意味で人と関わることを始めたのではないかと思えます。
その兆しが見えたのが、ハンナとも妻とも安心できるつながりを築けなかったマイケルの成長と言えるのかもしれません。
ハンナと本
ハンナは『オデュッセイア』に涙したり、冒険小説を楽しんだり、豊かな感受性も知性も持った人だったのだと思います。
ハンナが思い切って足を踏み入れる刑務所の図書館では、本棚に並ぶのが古い本ばかりなのに妙にカラフルで美しいです。
本当はあんなにお洒落な本棚なはずないとは思いつつ、新たな世界が拓けたハンナの目線を代弁しているかのようで印象的でした。
個人的に、もっとハンナの学びが深まって、自身の背負う罪について整理できていたら結末は変わった気がします。
裁判の時には(要約すると)「私は自分の仕事をしただけなんです」と悪気なく証言していた彼女に、罪の意識は希薄だったことが窺えます。
正直に証言しようという真面目な姿勢はあったけれど、行動の意味や罪の重さを理解するだけの理性は持ち合わせていなかったわけです。
しかし、本を読んで学ぶことで、自分のしたことの意味はだんだんと理解していたんじゃないかと推測します。
でも多分、薄々罪の重さに気がつきつつも考えないようにしていて、過去に整理をつけるところまでは考えが追いついていなかった。
だから、マイケルに自分の罪をどう思うか質問された時に、目を背けたような発言をしてしまいます。
何をしても死んだ人は還ってこない、というのは、喪った人に別れを告げようとする遺族が言うならわかりますが、多くの命を葬った張本人が言うことではないはず。
哲学も歴史も法律も深く学んだことのない彼女に、向き合いきるのは難しい罪だったかもしれません。
一方で、自分を見たマイケルの目のなかに幻滅があることには気付いてしまった。
そこで初めて、罪の重さが真に迫ってのしかかって来たのかもしれません。
だから死を選んだのかな、という気がしました。
本を踏み台にして首を吊ったのも、知識を深めたことによって、本を通してマイケルと関わったことによって、自分のしたことの意味がわかってしまったためではないかと思います。
だけどそれを整理して折り合いをつけるだけの知識や言葉はまだ持っていない。
どうしたらいいかわからないのに、唯一頼りにしていた人にも罪が理由で見放されてしまった。
序盤で「謝る必要なんて誰にもない」と叫ぶセリフが、妙に彼女の生き方とシンクロして聞こえてきます。
ずっと自分にそう言い聞かせてきたんだという気がするからです。
ナチスの罪を裁く
今でこそ世界中に認知されているドイツの「ナチス時代の反省」ですが、戦後まもなくのドイツにそうした態度はまだありませんでした。
必死で復興しなければならなかったし、東西分裂のバタバタもあったからでしょう。
映画『顔のないヒトラーたち』では、「ナチスを逮捕なんかしたらドイツ国民全員いなくなっちまうよ」と笑う人も登場します。驚きです。
しかし、同作にも登場する検事フリッツ・バウアーが始めたフランクフルト政治裁判を皮切りに、戦争犯罪者を裁く裁判が始まります。
ハンナが裁かれたのもそんな裁判の一つです。
マイケルの同級生が「親世代は、収容所があるのを知っていて何食わぬ顔で生きていたのか」とショックを受ける場面がある通り、戦争中の罪に対する認識が変わり始めていた頃です。
それまでは、戦争という非常事態で起こったことを、平時の法律で裁くことに反感も高かった模様です(平時では犯罪になること。
ハンナが罪の意識や危機感を持てていなかったのには、そういう背景も一役買っていたかもしれません。
自分の勤める収容所が満杯になってしまうから、アウシュヴィッツに移送しただけ。
収容者を監視するのが仕事だから、火事のなか彼らを解放できず閉じ込めていただけ。
だってそれが戦争のなかで求められていた自分の仕事だったから。
刃物や銃を持って人を殺したわけじゃない。
さらに清々しく「業務だからやりました」と言っている人物として、イスラエルで法廷に立ったアイヒマンが挙げられます。
彼については以下二本の映画で取り上げられていました。
アーレント博士が語る通り、アイヒマンは忠実な仕事人間でいることのみによって、何万人ものユダヤ人を死に至らしめました。
ハンナも、殺意はなかったにしろアイヒマンと似た道筋を辿ってしまったように見えます。
歴史の重さにしり込みしそうになっても、自分と同じ人間が過去に何をしてしまったのか理解することは、この先社会を作るために不可欠なことだと思います。
理解しきれない出来事を知った時にも、持てる限りの言葉と知識で向き合う姿勢は、生涯を通して学んでいかなければならないのかもしれないと考えさせられる映画でした。
おわりに
特に後半は重い展開が続く映画ですが、考える時間のある時に、たくさんの人に集中して観ていただきたいと思う作品でした。
最初から重い歴史のすべてを理解しきれる人はいないからこそ、皆で時間をかけて考えるべきだと思うテーマでもあります。
ドイツ関連の映画はついつい記事が長くなってしまいますが、少しでもどなたかの参考になれば幸いです。