ある夫婦の離婚を描いた秀作映画をご紹介します。
離婚未経験の既婚者、という状況で観てみて出てきた感想を、ネタバレしながら率直に綴っております。
あらすじ
ニューヨークで舞台監督として生計を立てるチャーリーは、女優の妻ニコールと二人三脚で、息子ヘンリーを育てている。
公私ともにパートナーの二人だったが、カリフォルニアで暮らしたいニコールと、ニューヨークで働き続けたいチャーリーの間で方針が合わず、離婚手続きに踏み切る。
調停の最初のステップでつまずいたニコールは、当事者同士の協議で離婚を完了しようとするが、カリフォルニアの仕事仲間からのすすめで弁護士を立てることにする。
あくまで穏便にプロセスを進めたいと思っていた二人だが、第三者を立てたことで協議が激化し、裁判にまでもつれこんでしまう。
お互い、そして息子にとって最もベストな選択を探るため、チャーリーとニコールはともに七転八倒して苦悶することになる。
離婚というテーマ
「離婚」という特定のステージや状況について絞り込み細かく描写し切っているため、共感しやすい人口はよくある恋愛映画・ファミリー映画と比べると少な目かもしれません。
登場人物を具体的に描けば描くほど観ている人と遠くなる(観ている人との共通項が少なくなる)、というジレンマを呑み込んで描いた話だと思いました。
だからこそ、掘り下げの深度については折り紙付きです。
恋人だったら「やっぱり合わなかった!」で別れて終わりですが、一つの家族を作った後に別れるとなるとこんなに痛みを伴うのか、というのが詳らかにされます。
というのも、一度は愛し合った人たちが罵り合い殴り合いになるからです。
劇中でノラがstreet fightという言葉を使ったのがまさに的を射ています。
(日本のドラマ『リーガル・ハイ』でも、主人公が「離婚裁判はルール無用のストリートファイト」と形容していたのを思い出しました。離婚という現象の普遍性は、国境を越えてるんだなと感嘆します)
さらに、子どもがいなければ罵り合いながらも財産分けてサヨナラかもしれないのですが、二人とも失うわけにいかないヘンリーとの絆ってもんがあります。
行儀良く、お金をかけずに負けることは簡単だけど、それでは子どもに会えなくなってしまう。
だからチャーリーは多額の弁護士費用がかかっても、「勝てる」弁護士に鞍替えするわけですね。
ヘンリーがいるからには、「かっこよく去る」ことは選択肢にないから。
とはいえ、夫婦の歴史、家族の歴史が長ければ長いほど、「今までは何だったの」「何で自分たちで築いたものを全力で否定して壊しているの」という虚無感や悲しさがあるんじゃないかと感じました。
数多のレビューで言及されている、二人きりでの罵り合いの場面は、互いに相手を全力で傷つけあっているにも関わらず、「本当はこんなことしたくなかったのに!」と言っているように見えます。
でも、少しずつたまった歪みや、抑圧してしまった望みに、向き合わなければならない時がついにやってきた、というのも、他ならぬこの二人の歴史なのだと思います。
チャーリーの苦悶
独立した二人の人間が長く一緒に暮らし続けるためには、日常どこかで生まれざるを得ない不満を、お互いこまめに発散しあったり、一緒に解決したりする必要があるでしょう。
でもチャーリーは、そういう人間関係のメンテナンスの仕方を、自分の生まれた家族からおそらく教わっていません。
親がアルコール依存症を抱えた、機能不全家庭に育ったことが語られているので、安心感や自然さとは無縁の、寂しい幼少期を送ったと思われます。
安心できず、緊張感溢れる家に育つと、自分の内面に閉じこもってひたすら防御体制を取るしかないのはわかる、わかるよ。。。
話し合いや交渉の仕方がわからないから、主張し続けて戦って勝つしかないと思うのも、その結果でしょう。
ニコールからたびたび「話し合っても譲ってくれない」と指摘されているのは、彼のそうした特徴の表れだと思います。
現在の姿からその人の過去を読み取らせるという映像表現の基本に忠実でしたが、見てて何とも心が痛い。
一方でチャーリーが指摘したニコールの「意見もないのに声を上げたがる 文句を言いたいだけだ」というのはあまりピンと来なかったですね…ニコールの母親には当てはまると思うんですが。
辛い家庭環境から派生した内省しまくる力を仕事にも役立ててるチャーリーからしたら、ニコールは意見がないと映ってしまうのかもしれません。もしかしたら。
ただチャーリーが折れないから引き下がっただけとも見えるという。。。
このへんは、「夫婦のことは当人同士にしかわからない」というか、「夫婦のことなんて当人同士にだってわからない」というか、そんな領域に思えます。
チャーリーの苦悶を辿って行き着くところが、幼少期から培ったコミュニケーションの方法の違いにあるからこそ、「ここでこうしていれば」という解がなくてやり切れませんでした。
彼のこの特徴を克服しなければ、(多少延命することはできても)遅かれ早かれニコールとの関係は破綻を迎えていたと思うし、そうでなくてもニコールが我慢することでしか続かなかったと思うからです。
ニコールが望んでいたこと
そんな中でも、決定的な転換点があったとすればどこだろうと考えると、二つ思い浮かびました。
一つは、過去にチャーリーにLAの仕事の打診があった時。
もう一つは、チャーリーが仕事仲間と浮気をしてしまった時。
前者の時点で、カリフォルニアに移住を決意していれば、ニコールも望むかたちで家族の運営ができていたかもしれません。
ただ、二人の現在の様子を見る限り、チャーリーがそれを受け入れてくれる展開がどうしても思い浮かばず、きっと無理だったろうなと思います。
やはりチャーリーが無意識のうちに身に着けた「押し切る」かたちの交渉が家庭内で定着している限り、移住は難しかったはず。
実際問題として、ニューヨークとカリフォルニアって東京大阪以上のカルチャーギャップがありますし(劇中でみんな「カリフォルニアのが広い」としか言わないけど笑)、ニューヨークで上手く行きかけた仕事を手放すのはきっと勇気が要ったでしょう。
後者は、もうこれは100%チャーリーが悪いと思うのでノーコメントです。笑
回想がほぼない映画なので、どんな状況だったかは想像するしかないけど、そこでよそに逃げては行けなかったんだと思います。
そして、この二つの転換点を振り返るとニコールが望んでいたことも見えてきます。
仕事ではチャーリーが監督、ニコールが演者という立場。
しかし家庭でも、チャーリーが方針を決め、ニコールはそれに従うという役割分担を徹底されては、息が詰まってしまいます。
一体自分の意志は生活の中のどこで反映されうるのか、ニコールは悩んだはず。
彼を支えたいから必死に合わせてサポートしてきたけど、自分がサポートされる場面はいつやってくるのか?と思ってしまっても仕方ない。
映画を見る限り、母業もばっちりこなして、融通の利かないチャーリーよりも、きめ細かくヘンリーに寄り添っているように見えます。
なのに何も意見を聞き入れてもらえなかったら、「誰のために頑張ってるんだろ」という考えが出てきてしまう。
ヘンリーのための頑張りはまあまあ報われている(相互に意思疎通できている)、だけどチャーリーのために頑張っても、この先も認められることはないんじゃないか?と思って糸が切れたのかもしれません。
そういう時にこそ逃げずに向き合ってほしいのに、もし浮気が判明したりしたら、そりゃ共同生活を続けていく気力は潰えてしまうわけで。
離婚は二人の問題だと思うのですが、正直ニコールにはあまり非が見当たらないと感じてしまいました。
一切合切の望みを伝えず、「いつか気づいてくれる」とただひたすら尽くす察してちゃんなら、「思ってることはちゃんと伝えようよ」となるんですが、そうは見えない。
意見を言っても、きっとチャーリーが折れてくれなかったんだろうな、と思えてしまうんですよね。
対等なパートナーでいるには
終盤に印象的なシーンがあります。
カリフォルニアでの仕事で、ニコールが賞を獲ったことを知るチャーリー。
女優としての賞かと思いきや、監督賞だと聞かされて驚きます。
大げんかでの「意見もないのに声を上げたがる」という彼の指摘とは正反対。
監督としての自分に忠実に女優をしてくれていたニコールにも、仕事の中で反映したい意志があり、しかもそれが業界で評価されている。
自分の知らないニコールがいたんだ、それを自分の前では表現できなかったんだと悟るシーンに思えます。
また、二人の人間が対等なパートナー同士でいるには、「片方が監督で、片方が演者になる」のではなく、「お互いが共同監督になる」必要があるというメッセージではないかと感じました。
二人で常に同じことを、同じやり方でしている夫婦はいないと思います。
お互い別の人間だから、やりたいことも違えば、取りたいやり方も違う。
なのに「俺はこういう作品が撮りたい。こういう脚本で、こういう演出で演じて」と片方だけが指示を出し続け、片方だけが従い続けていたら、いつか破綻してしまう。
それは上司と部下の関係であって、対等とは言えないからです。
お金をもらって仕事としてやるからこそ、そういうことも耐えられるわけですが、家庭ではやりたくないですね。笑
「わかったけど、次はこういう作品が撮りたい。こういう脚本で、こういう演出で。だから次作では協力してね」と言い合えたら、長期的なパートナーとして共同生活していけるのかなと思います。
おわりに
愛し合った二人が離れる切なさというのはあるんですが、離婚を扱った他作品として『ミセス・ダウト』を思い出しました。
「家族の形は様々」「お父さんとお母さんは、離れて暮らした方がbetter peopleでいられるのかも」というセリフがあって、まさにその模索をこの二人はしているんだなとしみじみしました。
そして、本筋とは関係ないですが、弁護士費用の高さやノラの交渉術の凄まじさに、米国社会に「離婚産業」が確立されていることを実感しました。
しかもノラの言うことがいちいち的確です。
「欠点のある父親は愛されるけど、母親は完璧でないといけない」のくだりはその筆頭です。(「なぜならマリアは処女懐胎したから」の説明にぐうの音も出なかった)
ともあれ、離婚を描きながらも、「結婚生活に大切なことって何だろう」と考えさせ続ける脚本が秀逸でした。
主演二人の渾身の演技も素晴らしいし、脇役も盤石です。
結婚や家族について考えてみたいとき、ぜひおすすめしたい作品です。