映画『マンデラの名もなき看守』
アパルトヘイト政策下の南アフリカ共和国で、実際にマンデラの看守を務めた人物が主人公の映画をご紹介します。
細部までは明かさないように気を付けつつ、大筋でネタバレします。
あらすじ
南アフリカの刑務官であるジェームズ・グレゴリーは、͡コサ語を理解できることを買われてネルソン・マンデラの監視を命じられる。
この任務のためにジェームズは家族とともに、マンデラが終身刑に服するロベン島に赴任した。
当初、マンデラは死刑に処されて当然だと考えていたジェームズは、生身のマンデラを目にし、彼の威厳ある態度に触れてからその印象が変わり始める。
ある日、マンデラの息子の訃報を知ったジェームズは、誰も守っていない所内規程に沿って、彼に忌引き休暇を与えた。
以後、マンデラとジェームズは人間対人間としての交流を重ねていく。
実在の刑務官ジェームズ・グレゴリーの手記を映画化した作品。
マンデラ収監前の経緯
ネルソン・マンデラは南アフリカ共和国において、反アパルトヘイト運動に従事していました。
南アフリカ政府は1948年からアパルトヘイト政策に本格的に取り組み、
非白人については選挙権、職業選択の自由、居住地の分離、教育を受ける権利などを厳しく制限しました。
1944年にアフリカ民族会議に入党していたマンデラは、政府に対しより強硬な態度を示すことを主張し、若手の指導者的立場を担います。
当初の反アパルトヘイト運動は、非暴力的主義に則っており、武力闘争はアフリカ民族会議においても支持されていませんでした。
しかし、長年の活動も実を結ばなかったことから1950年代後半になると武力攻撃を求める声も高まります。
そして、1960年のシャープビル虐殺事件をきっかけに、マンデラも武装闘争路線へと転換し、軍事組織を立ち上げて司令官に就任します。
マンデラはこのかどで逮捕され、国家反逆罪で終身刑を言い渡されました。
ジェームズの変化
ジェームズは最初、マンデラは死刑で当然だと考えていました。
武力闘争を指揮し、主義主張のために他人を傷つけることも厭わない極悪人という見解だったのでしょう。
彼らの主義主張が正しいかどうか、白人たちが国全体に強いている体制が適切かどうか、そうした判断は脇に押しやられています。
しかし、威厳あるマンデラを見たジェームズは、マンデラに対して抱いていた自分の悪意に疑問を持ち始めます。
彼は、マンデラの息子が亡くなったときに、規程に沿って忌引休暇を与えています。
誰も守っていない規程、「そんなものはこいつらには要らん」と思われていたルールを適用して、マンデラに敬意を払いました。
それまで「極悪人」ないしは「尊敬に値しない相手」で、自分と同じ土俵に置くことなど考えもしなかった相手に対し、適切なルールをまともに運用します。
静かに描かれる場面ですが、ジェームズのルールに対する態度は、同じ社会的文脈に立つという意味で重要なポイントだったと感じました。
その後も徐々に、マンデラとジェームズの人間的距離は縮まっていきますが、終盤ジェームズに降りかかった悲劇(息子の死)により、二人は人間としての痛みも共有することになりました。
終盤にジェームズの妻までがマンデラに対する考えを変えていたのは、社会情勢の変化以上に、この体験が結びついていたかもしれません。
グループ同士から人間同士へ
相手個人に対する知見が何もないとき、人間は相手が属するグループによって、自分が知識として持っている先入見によって相手のことを判断しようとします。
ジェームズの場合、相手はアパルトヘイト政策で白人より下位におかれる黒人であり、
武力闘争を扇動した犯罪者であるとの見方でした。
しかし、黒人であり極悪人であるはずのマンデラは、
子を持つ親であり、痛みを感じる人間であるということに徐々に気づきます。
白人対黒人、刑務官対犯罪者など、各自の属するグループの対立という軸でなく、
互いの持つ共通項に気づいたことが、彼の考えを変えました。
属するグループで判断する限りは対立するしかない人同士でも、
個人対個人としての人間関係はそれを変える力を持っています。
そのことを実感させられる映画でした。
おわりに
アパルトヘイト政策に対する国際的な批判が高まり、外圧によって変わった南アフリカ政府は、1990年にマンデラを釈放します。
長い時間をかけて、マンデラとジェームズの間に横たわっていた対立軸は取り払われ、
ジェームズはマンデラの大統領就任式に招かれました。
釈放の数年後にはノーベル平和賞を受賞したことは、多くの人に知られているとおりです。
社会的背景について知識を補いながら観たほうが理解が深まると思い、説明多めのレビューになりました。
マンデラとジェームズ双方の描写が丁寧なヒューマンドラマになっていましたので、いつか原作の手記も読んでみたいと思っています。