本と映画と時々語学

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映画『デッドマン・ウォーキング』2

死刑制度をテーマとした『デッドマン・ウォーキング』のレビューの続きです。

タイトルは、死刑囚が刑の執行される台まで連行される時の掛け声だそうです。

 

 

 

死刑囚という人間

時に挑発的な言葉を浴びせられながらも、ヘレンはマシューと対話し、上告審が行われるよう奔走します。

過去に遺族の神経を逆なでするような発言をしたり、

ヘレンたちが彼のために手を尽くしている間に、テレビへのインタビューで人種差別主義を標榜したり、

到底真人間とは言えないマシュー。

とは言え、彼の母は死刑が執行されないことを願い、弟たちも兄としてのマシューに家族としての情愛を持っている様子が窺えます。

また、ヘレンと死刑執行を避けるための方法について話し合う時、

その合間にちょっとした雑談をするとき、

ヘレンが信仰を捧げるキリスト教について話す時、

マシューは一人の人間としての一面を見せています。

しかし、観ている人間がマシューに共感するのは極めて難しいと言えます。

と言うより、マシューと言う人間に過度に同情しないよう、彼の一人の人間としての一面を見せる場面と、「悪者」としての一面を見せる場面とが、絶妙に分散されていたと思います。

どちらかの要素が長く続くと、「マシューに同情しろ」あるいは「悪人として突き放せ」と誘導することになってしまうので、それを避けたのかも知れません。

ノンフィクションがベースなので過度な脚色はないとは信じたいですが(原作未読のため詳細不明、完全な憶測です)。

実際に生きている人間もまた、良いところも悪いところも渾然一体となって一人の人格をなしていますから、リアリティと言う意味でもこのバランスが効果的だったと感じます。

観ている者に「罪は何によって償われるべきなのか」「殺された人間の命はどう購われるべきなのか」考えさせる上でも、どちらかに偏りすぎないことが大きな役割を果たしています。

正直、死刑廃止論者が原作の著者なので一方的で強烈な誘導があることも覚悟していましたが。

ただし終盤では、マシュー自身の台詞に沿うかのように、彼の現在と、被害者のティーンエイジャー2人が殺される残酷な場面が交互に進展します。

人を殺すのは間違ってる

それが俺でも あんたたちでも 政府でも 

最初は、死におののくマシューと、その彼が他者の死に関わった場面を並べて、マシューへの同情心だけが先行しないようにしたのかと思いました。

しかし、原作筆者の立場を鑑みる限り、「殺人」の重さは2人の若者への強姦・暴行殺人の場合も、死刑の場合も変わらないと言いたかったのではないでしょうか。

 

おわりに

個人的には、死刑制度の一番の問題は「冤罪だった場合に取り返しがつかない」ことだと思っています。

無期懲役は実質的な終身刑だとも言いますが、冤罪の可能性がある場合に命までを奪うことにならないよう、終身刑制度を創設することは議論されても良いと考えます。

裁判所も、警察も、検察も、動かしているのは人間ですので、ヒューマンエラーや、虚栄心、功名心で間違いを犯さないとも限りません。

 

私はやはり、弟たちが同じ母のもと真っ当に育っている一方で、「愛を知らなかった」とのたまうマシューの言葉をそのまま受け取っていいとは思えません。

この事件において、被害者には何の落ち度もありませんでした。

罪のない誰かを殺すかもしれない人物を世に放つことが、正しいこととも思えません。

マシューは自らの行いを反省するような発言も見せますが、それは死を目の前にしたからこそ湧いてきた感情であり、仮に出所していたら同じ気持ちを持ったかわかりません。

従って「更生可能性を信じるべき」との主張も虚しく聞こえます。

ただ、「死刑囚も人間である」ということは、この映画を観て少し理解できたと感じています。

弁護士の一言がまさに、死刑論争の重要なポイントを言い当てていると思います。

モンスターは殺せる
人間は殺し難い

特にマシューが母や弟たちを気遣う場面が印象的でした。

 

私はキリスト教徒ではないので、原作者のヘレン・プレジャンや、映画の作り手が意図したメッセージと違う読み取り方をしていることがあるかもしれません。

しかし、今後もこのテーマにアンテナを張って、日本だけでなく、米・欧・その他の地域での議論についても知っていきたいと思います。

 

   

 

デッドマン・ウォーキング (徳間文庫)

デッドマン・ウォーキング (徳間文庫)

 

 

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