映画『タイピスト!』
お洒落で可愛いフレンチラブコメディをご紹介します。
テンポが良く、観ているだけで楽しい美しい映像についつい引き込まれてしまいました。
ネタバレします。
あらすじ
1950年代後半のフランス。
バス=ノルマンディー地方の小さな村出身のローズは、親が決めた村の男性との婚約から脱走すべく、保険代理店の秘書の仕事を見つける。
彼女はタイプの才能を買われてルイに雇われたものの、失敗続きで秘書としては失格だった。
しかし、タイピングの大会に出ることを条件に雇用継続を許されたローズは、ルイによる猛特訓を受けながら仕事を続ける。
お互いを冷たい都会人と世間知らずの田舎娘と思っていた二人だったが、練習で時間をともにするうちに向き合い方が徐々に変わっていく。
ローズとタイピング
ローズは実家の雑貨店で練習したタイプを披露して、秘書の採用面接を突破します。
実家の父が強行しようとする修理工場の息子との結婚に屈せず、自活するために何が何でも仕事が要ったからです。
不器用だけど強い意志を持ったローズの姿勢に最初から共感してしまいます。
状況を変えたいと思うだけでなく、タイピングという具体的な技術で生きる術を探そうとしているところも好感度高め。
仕事がなくなっても男なら戻らない、というローズの言葉が表すように、女性が独立心を持って生きることが目新しかった時代ともなればなおさらです。
チャンピオンの女性たちに熱狂的なファンがいるのも、自立した女性のシンボルとしての一面があったからかもしれません。
普通の女性が身につけることができて、仕事につながって、且つ人と競う場があるスキルなんて珍しかったんじゃないでしょうか。
ローズがタイプしている場面は、音楽の可愛らしさと表情の明るさが相俟って、観ていて楽しいです。
最初はゆっくりながら、リズムに乗ると一気に加速していきます。
10本指で打つ練習中にキーと同じ色でマニキュアを塗っているところも、お洒落で憎い演出です。
そしてローズを演じるデボラ・フランソワは、人間味あふれる表情で彼女のキャラクターを何倍もリアルにしています。
フランス大会で疲弊し、「ここまで頑張ったし満足だからもう優勝なんてしなくていい」と本音を吐露するところ、
寂しさを堪えながら目標に向かい練習を続ける時の大人の無表情など、
どんどん綺麗なレディになっていく中でも見え隠れする人間らしさの見せ方が秀逸です。
序盤の天真爛漫な田舎の女の子ぶりとの対比が見事でした。
優しい鬼コーチ ルイ
ローズは秘書としては無能ながら、タイピストとして才能があると判断したルイは大会に出て優勝しろと彼女に言います。
10本指のブラインドタッチではなく、2本の人差し指でひたすらタイプし続ける彼女に「10本指ならもっと打てる」と改善を提案し、
最初の試合で予選敗退した彼女を叱咤激励し、
終業後も指導ができるよう住み込みさせ、
練習時間が取れるように炊事洗濯もし、
最早鬼コーチと言うか執事かもしれない男性がルイです。
幼馴染で恋人だったマリに未練がありますが、元米兵の夫ボブと暮らす彼女を見守っています。
鬼コーチ兼甲斐甲斐しい執事のルイは、1番になることにこだわり徹底的にローズを鍛えます。
彼自身の父に勝利への価値観を叩き込まれたこと、マリの1番のパートナーになれなかった経験から、今度こそは何としても勝ちたいためです。
そのルイとローズは、(大方の予想通り)一生懸命タイプの訓練をするうちにお互いを好きになりますが、ルイの不器用さが邪魔してなかなか進展しません。
彼女を奮起させてフランス大会優勝まで導いたものの、さらに世界大会に向けて彼女を駆り立てる切り札はない。
そう指摘されたルイは、歯がゆさを爆発させるローズを突き放し、世界大会目前で彼女の元を去ってしまいます。
勝つことと幸せ
ローズは寂しさを封印しながら、世界大会に向けて訓練を続けます。
フランス大会優勝後、タイプライターメーカーの後援がつくも、心を開けるパートナーがいない彼女。
世界大会で絶体絶命の危機が訪れます。
一方ルイは、幼馴染マリに抱いていた思いをぶつけます。
愛していたのに、レジスタンスから戻ったら彼女がボブと結婚し、主婦となって彼の元を離れてしまい辛かったこと、ずっと未練があったこと。
また大切な人を失うかもしれないのは怖いこと。
マリはルイの恐れを受け止めつつ、「怖いのはみんな同じ」と諭します。
今度こそ心を決めたルイは、世界大会が行われるアメリカに駆けつけ、窮地に陥ったローズの背中を押します。
結果発表を待たずにキスする2人の場面がなければ、この映画のメッセージは全く変わってしまうことでしょう。
本作は一貫してタイピング大会という勝負の場で戦い続けるローズとルイの姿を描き、勝つために頑張る2人を丁寧に描写しながら、その途中で得られるものを描いています。
ローズは世の女性からの賞賛も、確執があった父親からの承認も、ルイたちとの新しい人間関係も手に入れます。
ルイも、勝利にこだわりつつ最後の瞬間で勝負に出られなかった自分を見直します。
でも2人は勝負の結果を待たずに自分たちの気持ちを決めるところがグッときます。
勝つために頑張ることは自信や新しい世界を与えてくれるけど、誰かに勝つこととは別のところで、愛や幸せは自分自身で掴みにいくことが必要です。
勝つことができなくても、愛や幸せが受け取れるかどうかはまた別の話で、その人次第です。
お洒落で可愛らしい映像や、コメディ展開の中にもそうしたテーマが埋め込まれており、全方位で高得点な映画でした。
おわりに
軽快で取っときやすいラブコメ、
タイピング大会というエンターテイメント、
お洒落で目を奪う映像、
物語全体のメッセージ、
どれを取っても良作と言える映画です。
元気と笑顔以外に取り柄がない朝ドラヒロインのような女性の人生が、なぜか元気と笑顔だけで上手くいく話かと思いきや、隠れた名作でした。笑
また、女性の自立を促し、沢山の人が熟練度を競い合い、選手も観客も熱狂させるタイピングというスキルがテーマだからこそ、こんなに面白い映画になったのだと思います。
タイピング+50年代と言う舞台、設定の魅力が如何なく発揮されている点も完成度が高いです。
元気が出るお洒落なコメディをお探しの方にぴったりの映画です。
映画『そして父になる』
今年のカンヌ映画祭でパルムドールを受賞した是枝監督が、前回カンヌで賞をとった作品です。
ネタバレです。
あらすじ
何不自由なく暮らし、一人息子・慶多の教育に力を入れる野々宮家と、
裕福でも教育熱心でもないが愛情を持って琉晴をはじめとする子どもたちを育てている斎木家。
両家はある日、同じ日に生まれた互いの息子が、病院で取り違えていたと知らされ愕然とする。
野々宮家の父親・良多は、子どもが入れ替わった時に気付かなかった妻・みどりを責め、金銭的な優位を主張して子どもを二人とも引き取ろうとする。
しかし、斎木家から反発され、みどりからも反感を抱かれてしまう。
二つの家族の再構成の道を探る中で、良多は今まで無頓着だった家族との向き合い方について、自らを省みることになる。
対照的な二つの家庭
良多は大手建設会社に勤めるエリートサラリーマンで、収入も高ければ学歴も高い男性です。
みどりが慶多を産んだ時は個室を手配し、行き届いた医療が受けられるようにしているし、
慶多が優秀に育つように小学校受験をさせ、受験対策の塾にも通わせています。
でもどちらも、良多自身が家族と向き合おうとして行っていることではなく、自分の満足のためにしていたことだと、大抵の人にはわかると思います。
取り違えが発覚した時、良多は「そういうことだったのか」と独白します。
慶多がいまいち優秀ではないことに疑念を感じていて、取り違えだと知らされた時「実の子ではないから自分のように優秀ではなかったんだ」と納得した情動は、愛情深い父親とは程遠いものです。
反対に斎木家は、学はあまりないかもしれませんが、子どもたちの心に何が起こっているか、関心を持って向き合っているように見えます。
金銭的な事実だけを盾に、子どもがもう一人くらい増えたってどうってことないから引き取る、という彼の提案を、斎木夫妻はすぐさま拒みます。
そんな風に引き取られた琉晴がどう感じるか、そんな理由で子どもと引き剥がされた夫妻がどう思うか、全く想像が及んでいないところにドン引きです。
この辺りで明らかに、良多が慶多を一人の個性を持った人間として愛しているのではないことを確信させられます。
出生時や小学校受験時に惜しみない費用が割かれていたのも、慶多の将来のためと言いつつトロフィーチャイルドが欲しかっただけでしょう。
慶多が小学校受験に受からなかったら、きっと露骨に冷たくしていたと想像できます。
心が育つ場所
慶多は大人しくてよく両親のことを聞く従順な子ですが、感情を天真爛漫に解放する子どもらしさはあまりありません。
良多がお風呂も勉強も一人でできるようにさせる方針を持っていて、人間の感情に興味がないため、誰かと時間を共有して楽しむことや、素直に表現した感情を受け止めてもらえる安心感を知らないためと思われます。
どう見たって琉晴のほうが素直で楽しそうなのですが、その差に絶対気づいてないだろ良多。
人の心の機微なんかより学力の方が大事、
友達より学歴を得た方が人生上手くいく、
と言う信念の親と一緒にいたら、人と楽しく過ごす時間の大切さを学ぶ機会はないです。
斎木夫妻のことも明らかに見下してるし。
妻のみどりもだんだんと、斎木家と関わるうちに良多に対する疑問が膨らんでいったようです(じゃあ何で結婚したんだって話ではありますが)。
家族と自分と向き合う
両家は生みの親のもとに子どもたちを戻そうと決意し、良多は「これは強くなるためのミッションだ」と慶多に言い聞かせます。
良多は寂しい幼少期を送ったであろうことが描写されているので、家族に甘えられない寂しさを乗りこえる=強くなる、という考えを無意識のうちに抱いていたかもしれません。
そして野々宮夫妻なりに琉晴と仲良くなろうとするものの、あまり上手くいきません。
二人の愛情不足ではなく、育ての家族、育てた子慶多との絆を自分の中で簡単に断ち切れないと気付いてしまったからでした。
今まで人の感情に関心のなかった良多は、血のつながりがない家族にも心のつながりができることに動揺します。
二人の子どもを意図的に入れ替えた看護師を、彼女の継子が「僕のお母さんだから」と庇ったこと、
いつも素っ気なく接することしかできなかった自分の継母が、昔も今も良多を温かく受け入れてくれること、
そうした体験も徐々に良多の気持ちを変えていきます。
最後に、寂しさから斎木家に帰りたいと言った琉晴とともに、良多とみどりは斎木家を訪れます。
慶多は二人を見て立ち去ってしまいますが、良多は彼を追いかけて「もうミッションなんか終わりだ」と話しかけ、再会を喜びます。
愛している人と「一緒にいたい」「一緒にいられて嬉しい」と表現し、その気持ちを良多も慶多も諦めずに済んだことが、何より良かったと思えるラストでした。
おわりに
子どもの教育のために充分なお金を出していれば、良い親認定された時代もあったのかもしれませんが、良多が生まれた時代はそうではないし、自分の人間らしい感情に向き合った後の方が幸せそうに見えます。
良多は寂しい気持ちを抑え続ける子ども時代を過ごして、知らず知らずのうちに家族の温かさを期待しないようにしていたのかもしれません。
でも、継母やみどり、斎木家の人々、何より慶多と関わる中で、小さな頃から本当に求めていたことに気づけたようです。
戸籍上家族であるだけでなく、血の通った人間関係を築くことについて考えたい、という方に是非観て欲しい映画です。
本作はフィクションですが、実際にあった新生児取り違え事件をベースにしています。
そのケースでも、2つの家族を統合するというかたちが模索されたそうです(大抵の場合、生みの家族に戻った子どもは育ての家族にその後会わない)。
この映画とは別の出来事としてではありますが、いつかこちらも書籍等読んでみたいと思います。
映画『きみがぼくを見つけた日』
タイムトラベラーの男性と、彼を愛する妻の切ない映画のレビューです。
美しい映像と涙なしには語れないストーリーに号泣しました。。。
ネタバレします。
あらすじ
タイムトラベルの能力を持つヘンリーは、いつ何時どんな過去や未来に飛ばされるかわからない日々を過ごしている。
身1つでタイムトラベルするため、行った先ではいつもまず服を探さなければならなかった。
ある日彼は、タイムトラベルしてきた彼に何度も会ったと話す少女クレアに出会う。
ずっと彼が好きだったと言うクレアと恋に落ちるのに時間はかからなかったが、タイムトラベルで一緒に過ごすこともままならない2人に別れの時が迫ろうとしていた。
タイムトラベルと2人
この映画の原題はTime Traveler’s Wifeです。
原題が示す通り、タイムトラベラーであるヘンリーと、その妻クレアの関係が主題です。
タイムトラベルという要素はありつつも、その原因もわからなければ仕組みも明らかにされず、ヘンリーはタイムトラベルに巻き込まれる運命を変えることはできません。
そのため、SFではないという認識のもと観るのをお勧めします。
物語の見どころはあくまで、不意のタイムトラベルに翻弄されながらもお互いを思い合うヘンリーとクレアの関係性です。
2人の互いに対する思いやりが、優しいやら切ないやらで、途中からずっと泣きっぱなしでした。
ヘンリーといられず寂しい思いをしたり、彼の子どもが欲しくて無理をしてでも可能性に賭けたいクレア、
クレアを守るため、クレアに寂しい思いをさせないために最後まで心を砕くヘンリーの姿が忘れられません。
タイムトラベルが意味するもの
運命的な出会いからすぐに恋愛に発展し、温かな結婚式を迎え、2人の仲には何の問題もないように見えます。
実際、2人がお互いを愛していることは最初から最後まで変わりません。
しかし、突発的なタイムトラベルで大事な時間を一緒に過ごせなかったり、授かった胎児がクレアのお腹からタイムトラベルしてしまうことから流産を繰り返したり、人生を一緒に過ごすうちに困難な問題に直面します。
その度に2人は、愛する相手のために最もすべきことは何かを考えて実行します。
タイムトラベルこそなくても、一緒にいられない時間をどう乗り越えるか、辛い課題に際してどのように協力し合うかは、パートナーと過ごす上で誰もが向き合う問いではないでしょうか。
その点では、タイムトラベルは比喩に過ぎず、メカニズムや原因が解明されないのは自然なことなのでしょう。
何でタイムトラベルするのかわからん!というレビューもあったのですが、個人的にはそんな感想です。
限られた時間の中で
友人たちと集まって話していたある日、ヘンリーとクレアたちは撃たれて動けないヘンリーが未来からタイムトラベルしてきた瞬間に居合わせます。
すぐに彼の姿は消えてしまいますが、タイムトラベルしてきたヘンリーに小さな頃から会ってきたクレアはあることに気づきます。
年取ったヘンリーに会った記憶がないのです。
ヘンリーは長くは生きられず、クレアとともに年老いていくことはできないかもしれない。
早すぎる別れを徐々に確信しながら、クレアはどうしてもヘンリーの子どもが欲しいと思い続けます。
一方、ヘンリーはクレアと過ごせる限られた時間で彼女の体を大切にしたいと、出産を諦めるよう言い聞かせます。
子どもを諦められないクレアを救いたいと、ある手段で彼女の思いを止めようとするヘンリーですが、クレアは彼の予想を上回る方法で願いを叶えようとします。
限られた時間の中でどう生きるかを一緒に悩むのも、パートナーと生きる上で誰もが向き合う状況でしょう。
この流れもまたタイムトラベルを超えて、自分以外の誰かと生きることについて考えさせられるモチーフとなっていました。
おわりに
幸せな時間も辛い時間もパートナーと乗り越えていくことについて、深く考えてしまう映画でした。
2人の周りの人々の優しさや、最後にもうひと泣きせずにいられないラストシーンなど、切ない中にも救いのある温かい物語です。
特にラストシーンは、ヘンリーとクレアが一緒に生きた時間の幸せと切なさが詰まっていて胸が締め付けられずにはいられませんでした。
泣けるけど前向きさもあるラブストーリーが観たいという方におすすめしたい一作です。
美しいガーデンウェディングの場面も印象的な映画でした。
ブログについて7
最近めっきり更新頻度が落ちてしまいました。
公私共にバタついておりまして、スター返しもおぼつかない状況です。
そんな中でも見てくださっている皆様、本当にありがとうございます。
もうリミッターが外れて映画レビュー専業ブログになっております。
本のことはもしかしたらたまーに書くかもしれませんが、語学のことを書くとしたら別のブログを立ち上げようと思います。
しかし、実際いま、それほど語学のことで書きたいことはないので、映画を理解するのに外国語の知識を役立てるくらいにしようと想定中です。
今年に入って書いた記事の数はあまり多くないのですが、フランス映画とイタリア映画を少しでも強化できるように頑張りたいです。
あと、白黒時代までさかのぼる昔の名作も。
U-NEXTという渋めの動画サービスを閲覧しているからこそ、このへんに集中的に取り組みたいです。
はてなで色々な方の映画ブログを観ていると、古今東西世界にはいろんな良作があるんだなと思い知らされます。
ツイッターでも最新作の情報が山のように入ってきて、死ぬまで映画に飽きることはなさそうです。
いやー映画ってほんっとにいいもんですね。
映画もブログも好きなので、またガシガシ更新できるようになりたいと思いつつ、当面はローペースで続けてまいります。
短いですが、今日はここまで。
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映画『(500)日のサマー』
最後まで見入ってしまう、お洒落でほろ苦い恋愛映画をご紹介します。
サブカル界隈に絶大な人気を誇る理由が観てみてよくわかりました。ネタバレです。
あらすじ
ロサンゼルスでグリーティングカードの制作会社に勤めるトムは、不幸せではないが地味な日々を送っていた。
たった一人の運命の女性とでなければ恋愛は有り得ないと信じている彼は、会社に秘書としてやってきたサマーに夢中になる。
トムは小さなきっかけでサマーとの距離を縮めることに成功し、彼女に告白するも、特定の恋人を持つつもりがないサマーから「友達になりましょう」と振られる。
しかしその後、2人きりで会う時間は蓄積していき、一緒に悪ふざけをしたり、イケアで夫婦ごっこを楽しんだりしていた。
サマーの部屋に招かれたトムは、恋人関係に近づいたと感じていたが、現実には別れが近づいてこようとしていた。
サマーという女性
サマーは身長や体重や能力はごくごく平均的な女性です。
ハリウッド女優さんをこう言うのも変ですが、絶世の美女タイプではありません。
常に強烈な存在感を放つわけではないけれど、思わず目で追ってしまう、30秒に1秒くらいはっとするほど可愛らしい表情を見せる感じです。
そして振る舞いや言動を含めた総合点、すなわち、笑顔、明るい雰囲気、行動の予測のつかなさ、特定の恋人を作らないつれなさ、いたずらっぽさなど、あらゆる要素で男性ていましたを虜にし。
彼女は会社のパーティーでトムたちに恋愛観を吐露します。
「自分自身でいたいの」
「恋愛関係は面倒だし傷つくのもイヤ
…愛は絵空事よ」
とは言いながら、トムとの関わり方は(後に彼自身から指摘されるように)恋人そのものです。
このへんが、同性を憤らせる小悪魔感の核心と言えます。
運命と偶然
サマーと対照的に、トムは運命の女性とでなければ幸せになれないと思っています。
サマーと喧嘩別れした彼は、幸せとの縁が断たれたと煩悶していました。
妹レイチェル(頭脳明晰)から「他にも相手はいる」と諭されるも信じられません。
更にサマーの婚約を知ってやけくそになり、割と最悪な形で会社も辞めます。
とどめにサマーから「夫には(それまで信じていなかった)運命を感じた」と言われ、これまでのことは一体何なんだとなります。
トムが運命の相手と思っていたサマーは、トムに対してそんな感情は抱かなかったのに、他の人にはあっさり運命を感じて結婚してしまった。
だけど最後にトムは、本来やりたかった仕事を改めて探す中で、運命なんてないと吹っ切れます。
「偶然 それがすべてだ」
「偶然だけだ」
運命が決まっていて変えられないなら、誰かに出会うための努力も、好きになってもらうための試みも、一緒に過ごそうとする気持ちも、意味がないことになってしまいます。
でも、すべてが偶然の産物なら、一つでも多くの偶然を捕まえに行こうとすることで、人生や恋愛を変えられる可能性はきっとあるでしょう。
踏んだり蹴ったりなトムの状況の認知をまるっと変え、希望が持てるようになる、発想の転換です。
偶然の機会を逃すまいと、面接で見かけた女性に声をかけたトムは、相手の名前がオータムだと知って驚きます。
ここでようやくタイトルの意味がわかりました。
500日間の夏(サマー)が終わって、次の季節である秋が始まるかのような、少しはっとする場面で映画は終わります。
偶然と運命と、どちらも感じるのは現実の恋愛でもそうかもしれません。
お洒落で軽快な映像作品
小気味よい脚本の巧みさもさることながら、映像作品としてのお洒落さも本作の魅力の一つです。
サマーといた500日間の「〇〇日目」という回想がランダムに切り替わりながら話が展開しますが、場面の転換が速いので間延びも飽きも全くありません。
また、サマーがいつも青色の何かを身につけている一方、トムの服装はいつも地味な色にまとめられていたり、色使いにも派手過ぎない遊び心が見られます。
サマーとの距離を一気に縮めたとトムが歓喜した日、妄想の中に様々な色合いの青い服をまとった人々が大量に登場するなど、青はサマーを象徴する色です。
オータムのファッションが、そんなサマーとは全く違うベクトルであるところも印象的でした。
おわりに
サマーの行動が理解できんと議論を呼びがちな本作ですが、思い出が楽しいからこそのほろ苦さの描写はピカイチです。
お洒落な映像を観ているだけでも楽しかったし、テンポよく少し短めなところも 、まだまだ観たい気持ちにさせる映画でした。
ほろ苦くお洒落な恋愛映画をお探しの方にぴったりな作品です。
映画『マグノリアの花たち』
年齢も家族構成も異なる女性たちの友情を描いた作品のレビューです。
タフな人生を生き抜くために、女性たちが互いを激励しあいながら進んでいきます。
ネタバレします。
あらすじ
アメリカ南部の小さな町チンカピンでは、結婚式の準備が行われていた。
花嫁シェルビーとその母マリン、式に参列するクレリーは、美容院で身支度をする。
美容院の女主人トルーヴィと、美容師として働くため引っ越してきた新人アネルが、彼女たちと様々な話に興じながらヘアセットにあたる。
花婿となるジャクソンのこと、市長の未亡人であるクレリーの今後のことなど、お喋りの種は尽きることがない。
結婚式が終わったあとも、糖尿病を患う彼女の出産や、病状を慮る母マリンの葛藤、内気だったアネルの変貌、クレリーとウィザーの奇妙な友情など、人生の様々な場面が交錯していく。
物語の背景
本作はもともと舞台作品で、メインロールの6人の女性だけが登場する密室劇でした。
物語が書かれたきっかけは、書き手の実の妹が1型糖尿病を患い、命を賭して出産し、その後亡くなったことだそうです。
妹の人生は映画の中でシェルビーに投影されており、命を守るため妊娠を避けてほしいと思っていた母マリンの葛藤や、母娘を見守る友人たちの人生も描かれています。
マグノリアは、アメリカ南部を象徴する花で、原題もSteel Magnoliasです。
直訳は「鉄のマグノリア」で、花のように美しいけれど鉄のように強い南部の女性、という意味が込められています。
現実離れした展開や、ドラマチックな設定はありませんが、お互いの心情を分かち合いながら前に進んでいく彼女たちの姿に元気づけられる作品です。
シェルビーの人生
シェルビーの抱える1型糖尿病について、劇中では専門的な説明はありません。
しかし、妊娠は避けるように医師から言われている、と母マリンが話します。
妊娠・出産で命が危険にさらされること、体調が劇的に変わってしまうかもしれないことをシェルビーも知っています。
それでも、愛し合って結婚したジャクソンの子どもが欲しいこと、養子を申し込んでも体調がネックで認められないことから、出産を決意しました。
空っぽの長い人生より30分の充実した人生を
と言い切るシェルビーは、妊娠を喜んでくれないマリンに苛立ちを覚えます。
親と子は別の人間であり、望むことも違うのは当たり前だけど、娘の命を失いたくないマリンの葛藤は消えることはありません。
発作に襲われ亡くなったシェルビーの葬儀で、マリンは辛さを友人たちにぶつけます。
どうして娘が天国に行かなければならなかったのか、どうしてこんな悲しいことが起こらなければならないのか理解できない、と言う彼女に、
今のままではマリンや息子を守ることはできないから、いつでも皆の傍に居て、守ってあげられる場所に行ったんだ、とアネルが言います。
自分よりずっと若い、聖書マニアのアネルに言われて、マリンは到底納得してはいないのですが、誰もがどうにかして辛いことにも理由や区切りをつけ、進んでいかなければならないことを象徴する場面でした。
その後、クレリーの機転(≒悪知恵)や、シェルビーの息子の成長、アネルの妊娠など、新しい展開を迎えて人生が進んでいきます。
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シェルビーとマリンを取り巻く人々
母娘を取り巻く4人は、控えめに言って個性が濃すぎですが、2人を支える以外にも重要な役割を演じています。
美容院の女主人トルーヴィは、冒頭で彼女の信念を口にします。
「生まれつきの美人はいない」
「だから美容院の仕事が成り立つの」
Steel Magnoliasの原題に象徴されるのは美しさと強さですが、トルーヴィの言う通り美しさが生まれつき備わっている人はいないのと同時に、強さもまたそうではないでしょうか。
人生の中で様々な出来事に向き合う中で身に着けていくものです。
女性たちはトルーヴィの美容室で、美しさを整えると同時に、男性と一緒に暮らす社会から隔絶された女性同士のお喋りに興じます。
人生にもう一度立ち向かう強さを、お互いの出来事をさらけ出すことでもう一度充電しているかのようです。
クレリーとウィザーの2人も、たまに鬼気迫りつつ丁々発止のコメディを演じる、不思議な友情を披露しています。
正直クレリーはウィザーのことを面白がってたまに見下しているようなんですが、常に本気でぶつかって喧嘩も吹っ掛けてくるウィザーがいないとそれはそれでつまんないのではないでしょうか。
一番若く内気なアネルは、踏んだり蹴ったりな状態で町に引っ越してきますが、後半で明るく元気になり、家族も設ける彼女の活躍はとみに印象的です。
アネルの存在は、「自分次第でいくらでも人生は変えられる」というメッセージを持っていたのかもしれません。
おわりに
個性のベクトルが強烈ながらも、お互いを認め合いながら生きていく女性たちの姿に、しんみり勇気を貰える映画でした。
舞台作品としても非常に成功したコンテンツらしいので、世界中で色んな人を元気づけてきたことでしょう。
露骨な感動物じゃなくても、元気になれる映画をお探しの方にすすめたい作品です。
映画『ひまわり』
今年強化すると宣言したイタリア映画、ようやく2本目。
添い遂げることを誓い合った夫婦が、戦争によって引き裂かれる悲劇を描く名作です。
ネタバレします。
あらすじ
第二次世界大戦下のイタリア。
ナポリ出身の女性ジョバンナは、海岸で出会った男性アントニオと恋に落ちた。
アントニオはアフリカ戦線行きを控えていたが、12日間の結婚休暇を目当てにジョバンナと結婚する。
夫婦で幸せな日々を過ごすうちに、お互いを本気で愛するようになった2人。
一緒にいられるようにとアントニオが精神疾患を装うことを画策したが、間もなく詐病がばれてしまう。
アントニオは軍紀を破った懲罰としてソ連戦線へ送られてしまい、そのまま行方不明となる。
雪原で行軍の最中に消息が途絶えたアントニオを、終戦後も探し続けたジョバンナは、ついにソ連へ彼を探しに行くことを決意する。
率直でまっすぐな愛
ジョバンナとアントニオの愛情表現はいつも率直でまっすぐです。
THEイタリア映画な表現と言っても良いでしょう。
出会ったばかりの時の海岸での場面から、出征による別れが訪れるまで、2人の間には隠し事もわだかまりもありません。
短い期間ではありますが、プレゼントを贈り、それに喜び、大量のオムレツを作ってはしゃいだり、食べきれなくて嘆息したり、他愛ない感情を全力で共有しています。
明るい南イタリアの風景とともに、明るく深い愛が伝わってきます。
終戦後も続く悲劇
突然過酷なソ連戦線へ送られることが決まったアントニオを、ジョバンナは不安と惜別とともに送り出します。
戦争が終わっても彼の消息はわからず、雪中行軍の際に置き去りにされたことだけが伝えられました。
ソ連でアントニオを探し始めたジョバンナですが、イタリア人兵の大量の墓標や、亡くなったイタリア人たちの骨が埋まっているひまわり畑などを見せられます。
町中で出会ったイタリア人に声をかけても、「私は今やソ連人だ」と意味深なことを呟かれ、立ち去られます。
それでも諦めずに探し続けた彼女はアントニオの家を探し当てますが、そこにいたのは若い現地の女性と小さな女の子。
彼は雪原の中で少女に命を助けられ、彼女と家庭を持っていたのでした。
予測できなかった結果に、ジョバンナとともに言葉を失ってしまう場面です。
町で会ったイタリア人男性の意味深な発言の意味が、ここで判明しました。
ジョバンナはアントニオの出征時に彼と共に過ごす時間を失っただけでなく、この場面でもう一度アントニオとのつながりを絶たれます。
彼女はアントニオを2度喪失しなければならなかったと言えるでしょう。
戦争と人間
新しい妻との生活を始めたときには、それまでの記憶を失っていたアントニオですが、ジョバンナと再会してすべてを思い出したのか、動揺した表情を見せます。
ジョバンナは彼を振り切って電車に飛び乗り、大声で激しく泣いて悲しみを隠しません。
この様子が後の場面との印象的な対比になります。
ジョバンナはイタリアに帰り、辛い決別の記憶を乗り越えてミラノで新生活を始め、新しいパートナーもできました。
彼とはしゃいで喜ぶジョバンナは、序盤のアントニオとの出会いの頃と同じくらい生き生きしているように見えます。
そして、彼女と話をしに来たアントニオと会っても、お互い今の生活を捨てることはしません。
ソ連に帰る彼をミラノ中央駅で見送るジョバンナは、ソ連で彼を見つけたときとは対照的に、声を押し殺して咽び泣きます。
ソ連で泣いていた時は、失った愛や時間に絶望した涙だったけれど、
ミラノでは今ある幸せを捨てて彼と元通りにはなれないこと、彼との別離の辛さを乗り越えて生きていかなければならないことを覚悟した、もっと複雑な涙だったでしょう。
この映画では、運命の相手と思いあった男女でも、戦争に引き裂かれ、幸せを諦めなければならなかった悲しい描写が印象的です。
しかしそれ以上に、 辛い過去や命の危機を乗り越えて、新しい生活を始め、新たな家族との絆を築き始めた2人の逞しさに心を打たれます。
また、ソ連での行軍の長い描写を経て、人間の命も心も追い込む戦争の過酷さが入念に表現されていました。
ソ連での戦いを経験した男性たちの表情が一様に暗いのも、戦争と言う圧倒的な暴力の前で、人間の心がいかに簡単に挫かれてしまうかを示唆しています。
おわりに
ジョバンナはアントニオを2度失い、アントニオは生死の境をさまよう苦しみを味わいます。
気力も記憶も打ち砕かれるような思いを味わいつつも、それでも続いていく人生を生き抜いた姿が淡々と描かれ、悲しいながらも人間の強さを感じさせてくれます。
そして、アントニオのように過去をなかったことにして生きた人や、ジョバンナのように辛さを乗り越えて新たな人生を始めた人が、戦争によってどれほど生み出されただろうか、と考えさせられました。
フランス映画『シェルブールの雨傘』との共通点も多く感じる、非常にヨーロッパ映画らしい作品です。