映画『天気の子』
遅くなりましたがせっかく観たのでレビュー書いてみます。
『君の名は。』とは一概に比較できない作品で、賛否も分かれているようですが、そのへんも詳しく触れたいと思います。
最後までネタバレしますのでご承知おきください。
あらすじ
伊豆諸島に住む高校1年生の帆高は、家出して東京にやってきた。
そして、身分証がないためアルバイトも見つからず、少ない所持金が底を尽きそうになるなか、怪しい男・須賀の営む編集プロダクションに転がり込んで職を得る。
ある日、オカルト雑誌に提供する怪しげな記事の執筆に奔走する中で、帆高は「100%の晴れ女」の都市伝説を目にする。
異常気象で長い雨が続く東京でも、彼女が現れれば局所的・一時的に晴れると言う。
それは、帆高が偶然出会った少女・陽菜のことだった。
小学生の弟・凪と二人暮らしで、金策に困っている陽菜のことを考え、帆高は「晴れ女サービス」を提供することを思いつく。
祈るだけで晴れを呼べる陽菜のおかげで、晴れ女ビジネスは好調なスタートを切るが……
前作との比較
構成力や伏線の緻密さ、ストーリーの密度、全体を通してのテンポの良さは『君の名は。』の方が上だと思います。
『天気の子』の前半は展開がゆっくりで、晴れ女の背景が明らかになるまでが長い。
(東京で孤独に奮闘する帆高の様子を丁寧に描きたかったんだと思うのですが)
前半と後半で違った趣向になる『君の名は。』と比べて、必然的に密度の濃さは低下してしまったかもしれません。
ただし、純粋なファンタジー活劇&青春映画だった『君の名は。』にはなかったメッセージを『天気の子』は持っています。
少年少女が互いを思い合う強い気持ちを描いているのは、どちらの作品も共通しているんですが。
『天気の子』のほうが一歩踏み込んだメッセージがあると思うので、後述したいと思います。
狂った世界
須賀の娘は、亡くなった妻の母(須賀から見たら義母)に育てられていますが、前半でこの義母が印象的なことを呟きます。
「今の子どもたちはかわいそう。むかしは春も夏も、素晴らしい季節だったのに」。
異常気象で長雨ばかりが続く世界、たまの晴れ間もわずかの間しか訪れない。
そういう世界しか知らないことはかわいそうだと、はっきり言っています。
後半では、陽菜が「狂った天気を正す人柱」だと気づいてしまった夏美に、須賀が「一人の犠牲でこの天気が元に戻るなら、誰だってそうする」と言います。
狂った世界の軌道修正を望む人たちを代表する意見です。
こんな狂った世界より、もとの秩序だった天気の世界が戻ってきてほしい。
帆高は彼らと全く対立する思いを持ちます。
どんなに世界が狂っていても、陽菜と一緒にいたい。
晴れを望む人が沢山いると晴れ女バイトで知っても、天気が人の心をどれだけ動かせるか知っても、陽菜と一緒にいられる世界を選びたい。
陽菜のいない正常な世界より、陽菜のいる狂った世界で生きていたい。
そういう気持ちを「世界なんて、狂ったままでいいんだ!」というセリフが象徴しています。
帆高の姿勢を見ていると、「今の子どもたちはかわいそう」という言葉も虚しく聞こえます。
狂った世界に生まれたこと自体は不幸じゃない。
たった一人、会いたい人、一緒にいたい人を見つけられたら、それはどんな世界の中であっても幸せなことだと思います。
終盤で須賀のいう「世界なんてもともと狂ってる」という言葉は、どんな狂った世界でも幸せは見つけられるということの裏返しにも聞こえます。
こういう、世界とかどうでもいいから私たち二人が一緒にいられればいいんだよ!系のメッセージが大好きなので、監督の前作よりポイント高かったです。
役割と迷惑
『君の名は。』と本作との違いの一つに、大人の登場人物の比重が高いことが挙げられます。
前作の三葉や滝は、あんまり違和感なく大人のお世話になる生活をしてます。
親やおばあちゃんと一緒に住んで、学校に行っています。
しかし本作では、家出少年の帆高と、子どもだけで暮らす陽菜と凪がメインです。
あんまり解説で触れてる人がいないのですが、結構重要なポイントだと考えてます。
晴れ女になることで「役割を見つけた気がする」、そして子どもだけで暮らしていることを指摘した警察官に「私たち、誰にも迷惑かけてません」と陽菜が言います。
やるべきことをやって、自力で生きて、人に迷惑をかけてないんだから、だから放っておいて、と言いたいように聞こえます。
実際、陽菜も帆高も、三人で暮らすことにすごく拘ります。
それは好きな相手同士だけでいたいと言うだけじゃなく、大人との間に貸し借りを作りたくない姿勢に見えました。(須賀や、晴れ女バイトで知った人との関係は、お金を介しているので情緒的な貸し借りはない)
しかし最終的には、東京を水没させるという最大級の迷惑とも言える行動に出ます。
晴れ女じゃなくなった時、陽菜のチョーカーが壊れているのは、役割の終わりを示しているというのは多くの人が指摘しています。
役割から解放された陽菜は、同時に、世界に借りを作ってしまったのかもしれません。帆高も同様です。
二人は、その日を境に「大人の世話になる」生活に戻っていきます。
誰にも借りを作らない代わりに、自分たちだけの世界で暮らすことに文句を言わせない、ということが最早できなくなりました。
世界にも大人にも借りを作りながら、自分たちだけの閉じたコミュニティを捨てて、社会と関わり合うことにしたんだな、と後から気づきました。
でも、役割を離れたときこそ、「役目なんか果たさなくてもいいから此処にいて」と言ってくれる人に出会えるんじゃないでしょうか。
陽菜にとっては帆高がそういう人だった。
二人が世界と関わる道を選んでくれたのは良かった。
誰にも迷惑をかけず、誰にも借りを作らずに暮らすことなんて長期的には不可能です。
実際には、助けられたり借りを作ったりしながら、それをたまには返して、折り合いをつけていくしか世界や社会と向き合う方法はないし、それができてこそ大切な人との関係も末長く守っていけるんじゃないかと思います。
おわりに
本作を観た人が「ひいた」と言ってた意味が、観てみてよくわかりました笑
一人のために東京沈めちゃったわけです。
「世界なんて狂ったままでいい」とこんなに力強く言い切れるのは主人公が若ければこそでしょうね。
大人になったら、須賀や彼の義母のような考えになってしまうと思うので。
須賀の義母のセリフが後半で裏切られる流れは、反出生主義に対する強力な反論のように見えました。
あんまり関係ないですが、水に沈んだ世界の何がいけないの?という問いかけは『崖の上のポニョ』を思い出させたりもします。
書いてみると意外と長いレビューになりました。
また監督の新作が出たら、きっと観に行くだろうなー。