映画『ROMA/ローマ』
2019年アカデミー賞外国語映画賞・監督賞・撮影賞を受賞した作品をご紹介します。
映像の美しさと静かなストーリーが相まって、何とも余韻が染みる映画です。
アメリカ映画なのですが全編スペイン語で、一部ミシュテカ語が話されています。
最後までネタバレします。
あらすじ
1970年代初頭のメキシコシティ・ローマ地区。
医師のアントニオとその妻ソフィア、4人の子供、ソフィアの母テレサが暮らす家で、クレオとアデラという2人の家政婦が働いている。
クレオはある日、恋人と関係を持ち妊娠するが、事実を告げると相手は失踪してしまう。
一方、雇い主であるアントニオとソフィアの関係も緩やかに破綻を迎えようとしていた。
変化を迎えるメキシコ社会とともに、クレオを取り巻く人間関係も様相を変えていく。
映像の美しさ
本作は2010年代の解像度でモノクロを撮ることの美しさを体現している作品と言えます。
凄まじい高解像度だからこそ堪能できる、様々なグラデーションを美しく投影しています。
「何でわざわざモノクロにしたの?」と訊きたくなる映画は過去にちらほらあったのですが(リュック・ベッソンのあれとか、ウディ・アレンのあれとか)、このクオリティで作ったら誰も文句言わないですね…
どこを切り取っても本当に美しい映像でした。
モノクロの美しさを前面に押し出した映画というと、個人的には『羅生門』が真っ先に浮かびます。
同じモノクロなんですが、『羅生門』はモノクロフィルムの美しさ、本作はデジタルの美しさをプレゼンしきっています(どちらも好きです)。
あと『羅生門』はモノクロ世界での白が特に綺麗な印象でしたが、こちらは灰色の階調がきめ細かくて絶品でした。
ストーリーを楽しむうえでも、有彩色を排したことで、違和感なく1970年代のメキシコに連れてってもらえる感じがします。
余計なことが気にならないというか。
アルモドバル作品との類似点
セリフが多い大人のほとんどが女性で、男性キャストは揃いも揃って無責任というのが、アルモドバル監督の『ボルベール』を想起させます。
女性讃歌的スタンスも、本作と似てるんですよね。
アルモドバル作品からコミカルな要素を絶滅させたら、『ROMA/ローマ』のような映画になりそうです。
徹頭徹尾まじめで、クスッとなるところとかないんですよね。
対するアルモドバルは、強さやひたむきさを登場人物に託しつつも、どこか愛嬌のある姿を描くことに長けていると感じます。
アルモドバル監督が、スペインじゃなくアメリカの映画界であれを撮っていたら、アカデミー賞獲ってたのかなと思ったりします。
英語以外の作品に賞獲らせる傾向はここ何年かなので、一概に言えないのですが。
本作のアルフォンソ・キュアロン監督も、アルモドバル監督も、スペイン語圏を舞台に、スペイン語で映画を撮っているのを見ると、ラテン文化・スペイン語文化の底にそうした文脈が流れているのを感じます。
(それをホラーコメディという別の形で爆発させたのが、『スガラムルディの魔女』なのでしょう笑)
出産と男女
ベビーベッドを見に行った外出先で、暴動に遭遇してしまうクレオ。
家具店に逃げ込んできた若者が殺害されるのを目撃します。
そして、追っ手として店に飛び込んできた暴徒の一人は、子どもの父親のフェルミンで、クレオに銃を向けて暫し睨み合います。
撃たれることはなかったのですが、クレオはその場で破水し、病院に搬送されるものの、渋滞で到着に時間がかかってしまいます。
偶然彼女を見かけた、雇い主のアントニオが励ましにクレオに声を掛けました。
しかし、この「僕は出産には立ち会えないけど頑張って」「あなたも立ち会えるわよ?」「いや患者の予約があるから」の場面は既視感ありすぎました。
「男が子育てしても役に立たないから」「授乳以外のことは男女関係なくできるでしょ?」「いや…(会話終了)」みたいなやり取り、昭和平成(今もか)の日本(世界)で何万回繰り広げられたんだろう。
アントニオが不倫に現を抜かしているのも納得というか、家族の一員としての役割に収まり切れず、何度も恋愛を追い求める姿が、皮肉を込めて表現されていました。
何気ないさらっとしたやりとりなんですが、彼の本質がよく表れています。
多分こういう人は、「女性の方が子育てに向いている」「親としての適性は母親の方が高い」「どんな女性も母性を内包している」という神話を信じているのでしょう。
実際には、母親としての自動セットアップ機能が体内・脳内に備わっているわけではなく、ソフィアのように七転八倒しながら、クレオのように不安に押し潰されそうになりながら、身体の内外で子どもを育てていくわけですが。
それに、誰もがトラブルなく妊娠出産を終えられるわけではありません。
クレオの出産した赤ちゃんも、心臓は打っておらず、死産となってしまいました。
新生児室の保育器の一つだけに落下物が落ちてくる描写があり、なぜ他の保育器には何も落ちていないのに?と不思議に思いました。
まさかのミスかと思いきや、それも計算の上だったのかと終盤思わされました。
石が落ちてくる子もいれば、そうじゃない子もいる。
それは誰が決めることもできないことで、命の負った宿命は生き残った人々で受け止めるしかありません。
そうした不条理を、何気ないカットで説明する手腕は見事なものでした。
海辺の抱擁
離婚を目前に、ソフィアは子どもたちとクレオと、トゥスパンへの旅行に出かけます。
波にさらわれかけた子どもたちを、泳げないながらも助け出し、安堵したクレオは言えなかった思いを吐露します。
子どもは欲しいと思っていなかった。
クレオが最後に思いを吐露できたことをもって、本作の女性讃歌の側面は完成したのだと言えます。
前述の女性神話というか母性神話に囚われず、ただ懸命にもがいて生きる女性の姿にひたすら寄り添うことを示していました。
神話に沿った話であれば、フェルミンに「自分の子のわけがない」と突き放され、あまつさえ銃まで向けられても、子どもの存在が希望を与えてくれて強く生きていく、ハッピーエンドになったでしょう。
でも本作では、出産に向けての安心も希望もなかった(どころか罵られるし銃まで向けられる)状況を看過せず、その当然の結果としてクレオに湧きあがった思いを受け止めています。
クレオたちが海から出てくるところは、生まれることの暗喩のようでした。
波に押されて砂浜に上がるように、母体の収縮に押されて水と一緒に外の世界へ出ていく。
ぺぺがとりとめなく語る前世の記憶みたいなのも、「今回は会えなかった命も、またきっと生まれてこられる」と言い聞かせているよう。
ずっと表情の固かったクレオが、最後にソフィに「大好き」と言われて少しだけ表情を和らげるのが印象的でした。
人は自分がされたことしか誰かに返せないのかもしれません。
おわりに
予備知識なしに見始めたのもあり、前半は突然の武術に心が掻き乱されたまま「これ何の話なんや」と思うこと1時間でした。笑
しかし、後半に一気に話が進みつつスッとラストへ収斂していく様子が、何気ないようでいて計算し尽くされてる感じがしました。
ディティールに託されたメッセージも優しいし、トップシーンの掃除のカットと、ラストシーンの階段を上がっていくカットの美しさは特筆すべきものがあります。
Filmarksで多くのひとが「映画館で観て良かった」と言っているのを見て、確かにスクリーンで見た方が堪能できそうだなあと納得してしまいました。
静かで優しい映像作品をゆっくり味わいたいとき、ぜひおすすめしたい映画です。