映画『17歳』
フランソワ・オゾン監督による、ある少女の一年を追った映画をご紹介します。
たくさんの人にあまねく響く内容ではないかもしれませんが、個人的にはかなりポイントの高い映画です。
性的描写の多い映画なので、苦手な方はスキップして頂いた方がいいかもしれません。
しかし個人的には、人間の心と体について真摯に描いた映画と認識しており、フランス映画の中でも最も好きな作品の一つです。
ネタバレしながらレビューします。
あらすじ
17歳のイザベルは、家族で夏の旅行に訪れた南仏で、同じくバカンスに来ていたドイツ人の青年と初体験をする。
その後、パリの家に戻ったイザベルは、出会い系サイトで不特定多数の男たちと会い、金と引き換えに身体を提供するのが習慣になる。
イザベルの身体を欲し、買春しておきながら、彼女の行動を罵り、蔑む男たち。
一方のイザベルも、男たちと会った後には執拗に体を洗うなど、彼らへの嫌悪感を持ちつつまた次の密会へと出かける。
しかし客の一人ジョルジュは、他の男たちとは違うやり方で彼女に接する。
ジョルジュの振舞いから何かを感じ取りかけたイザベルだったが…
映像の美しさ
オゾン監督作品は、『スイミング・プール』しか観たことがなかったのですが、その時にはここまで美しい映像を撮っていた人とは知りませんでした。
映像の流れが自然で、主人公イザベルが美しすぎて、本当に時間を感じさせません。
風景や人物の美しさに目を奪われている間に、何分も時間が経っているように思いました。華麗なる時間泥棒。
どこを切り取っても美しいし、次のシーンが見たくなります。
良いカット割りとは、カットが切り替わっていることを感じさせない、自然な映像の移行だと言われますが、まさにこの作品が典型なのではないかと。
特に序盤の南仏は良かったです。
夏の陽射しも、砂の手ざわりも、最も美しい色合いで切り取られているようです。
登場人物たちと近すぎず遠すぎない構図も、まるで自分がその場にいるかのように感じるのを手伝っています。
主人公の美しさについては、主演のマリーヌ・ヴァクトの多大な貢献によるものです。
美しくカメラ映えするし、よくぞここまで、と思うくらい脱いで体当たりの演技を披露しているのに、演技に見えない「普通の女の子」の雰囲気を纏っています。
語られない売春の動機
イザベルがなぜ不特定多数に売春するようになったか、劇中で詳しくは語られません。
彼女の行動が露見し、警察から事実を告げられた母親は、「何ということをしてくれたの」と逆上して怒りをぶつけます。
その状況で動機の吐露なんてできないので、もちろんイザベルは何も語りません。
映画終盤でも、カウンセラーに二言三言、ジョルジュがどういう存在だったかを呟くだけで、セリフによる説明はほぼ皆無です。
映画の中の視覚情報に動機を求めるしかないわけで、となると、冒頭の初体験のシーンに立ち戻ることが不可欠です。
イザベルは浜辺での初体験で、まるで幽体離脱したかのように、ドイツ人青年と抱き合う自分を見つめているもう一人の自分を見ます。
多分、似た気持ちを味わったことがある人は少なからずいるのではないでしょうか。
性交渉が、映画や小説で描かれる通りの最上の愛の表現なのであれば、自分を冷静に見る視点など抱きようがなく、夢中になれるはず。
それなのに、違和感や痛みでそれどころではないし、時間や客観を忘れるほどの感情も押し寄せてこないし、でも何でか相手は満足している。
「え、これってこういうものなの」という戸惑いを排しきれなかったことが、抑えた演技からも伝わってきます。
映画や小説で描かれる表現とはあまりに隔たりがあって、でも事が起こる前とは違う自分がいて、しかも相手はなんか満ち足りてるしこんなもんなの?という当惑は、その後も解消しきれなかったのでしょう。
初体験より前の場面で、イザベルは性的快感そのものは知っていることが示唆されています。
なので、「こんなんなら一人でやってた方が…」という気持ちもあったでしょう。
極端なかたちで性行為を重ねるようになったのは、売春と比べればあの体験が間違いでなかったことを確かめたいからなのか、
継父はいるけれども父親の不在をどこかで埋めたいと思っていたのか、
行為そのものについて、どういう体験なのかをもっと突き詰めて知りたいと思ったからなのか。
多分それらが入り混じった感情だったと推測します。
フランス映画らしく、詳らかに説明せず考えさせるお話であるうえ、難解な部分も多いからなのか、オゾン監督もインタビューで色々と雄弁に語っていました。
フランソワ・オゾン監督が新作『17歳』で思春期の自我とセクシャリティをテーマにした理由|男たちとの情事にのめり込んでいく少女イザベルの日常を綿密に描く - 骰子の眼 - webDICE
思春期の心と体
上述のインタビューから、オゾン監督の発言を抜粋します。
…思春期は人間としての複雑な移行期だ。それは痛々しいものだし、僕は何ら郷愁を感じない。僕は思春期を単に感情が揺れ動く時期としてだけ描くことから一歩踏み出し、思春期とホルモンの関係を掘り下げたかった。僕たちの体は強烈な生理学的変化を経験していくが、僕たち自身はそれを敏感に感じ取れていない。だから、何かを感じるために体をあえて傷つけたり、肉体的な限界を試したりする。売春というテーマにより、それをクローズアップして取り上げられるし、思春期に持ち上がる自我や性の問題を綿密に描くことができる。そこでは、性はまだ感情と密接な関係で結ばれていないんだ。
ここが、イザベルの売春の動機解明に最も重要な部分と思われます。
前項でも書きましたが、イザベルは性的快感は知っているものの、初体験がそれに結びつかないちぐはぐさを感じています。
本能レベルでは快楽に分類されていることのはずなのに、初体験は違和感しかなかった。
後半に出てくる女友達が、初体験が思っていたのと違って泣いている描写は、わかりにくいイザベルの内面を一部代弁させる役割があるのかもしれません。
そして、パリに戻ってから手を染める売春相手の男たちは露骨にひどい。
客に会う服に着替える場所がメトロの汚いトイレなところとか、神経質な表情でイザベルが体を洗うところから、イザベルが彼らに嫌悪感を抱いていることはあらゆる角度から伝わってきます。
あらゆる描写がガチガチにロジックなんですが、すべての映像が自然なところが凄まじいクオリティです。
それでも身を削っての探求をやめないイザベルと、客の一人のジョルジュは徐々に打ち解けていきます。
おそらく、身体が感じる性的快感と、心が感じるつながり、イザベルの中で融合しない二つの差を埋めるもの、その片鱗をジョルジュの中に見たのだと思います。
彼がイザベルから手っ取り早く快楽だけを得ようとせず、彼女を大切な存在として扱い、一緒にいる時間を味わおうとしたことが、心を動かします。
ジョルジュも買春している時点で紳士とは言えないのですが、少なくともイザベルにとっては、彼の優しさが嘘のない物に見えている。
この関係性から思い浮かぶのは、つい最近話題になった芸能人の不倫「本能の発露でしかない行為を愛につなげるのは、誠意ある手続きでしかないんじゃないか」という考えです。
誰かを行為の対象に選ぶことは、イコール愛しているということではない。
だから、愛を伝える別の手立てが存在して、その様々な様式を実践することによって体の愛と心の愛を統合していくのではないか。
早い段階で統合できる機会がなければ、またイザベルは売春に戻ってしまうんじゃないか。
本作を観て、そういう観点に気付かされたわけですが、あまり言葉にされないだけでどこかに皆抱いてる感覚だと思います。
「女の子の一番大切なものをあげられる」のは大切な相手である一方で、「一番大切なもの」だけを奪っていく態度は最も尊厳を毀損するものと見做される。
上記を、人間が日々やりとりする他のもの(お金や言葉)に置き換えても多少の類似性は見られるものの、やはり愛や体の関係ほどのインパクトはありません。
その点で、オゾン監督は今まで切り取られていなかったことを切り取ってくれたと言えます。
もし類似作品を挙げるとしたら、同じく身体の愛と心の愛の関係を掘り下げた映画、中平康監督の『月曜日のユカ』が挙げられます。
成長と不条理
イザベルが、客の男から売春行為を罵られる場面があります。
買っといて何言ってんだこいつと言うのが素直な感想ですが、彼としては切実な思いなのでしょう。
自分の本能が欲する身体を、値札をつけて金銭と引き換えにしやがって、という。
例えるなら、どうしても欲しい限定品に法外な値段をつける売り手を恨みたい気持ちのような。
未成年のイザベルが法律的には買春の被害者であるように、まだ彼女は守られるべき存在のはずです。
しかし、少女でなくなってから初めて持つ力のことを、男であろうと女であろうと危険視し蔑もうとする不条理も描写されていました。
本人にとっては成長の一過程であって、誰もが経験した通過点のはずなのに、子どもが女性になることに何らかの嫌悪が向けられる。
これもまた、オゾン監督が描きたかった思春期の混沌の一つなのでしょう。
おわりに
監督が真剣にリサーチして作ったというのも納得のクオリティでした。
性別も世代も超越した洞察力が凄いです。
筆者は女性ですが、これを男性監督が撮ったことに驚きを禁じえませんでした。
性描写がサービスショットや雰囲気モチーフとしてじゃなく、人間の切り離せない一部として取り上げられている、真摯な映画だと思います。
男女問わず様々な人からの考察を聞いてみたいです。
心と体の愛について考えたいときにおすすめの映画です。