本と映画と時々語学

書評、映画評など書き綴りたいと思います。

映画『道』2

前回の記事の続きです。

イタリア映画『道』のレビューです。

 

 

ザンパノの後悔

ジェルソミーナは既に死んでおり、彼がしてやれることは何もありません。

彼女が慕っていた綱渡り芸人は彼自身が殺してしまい、これまた彼にできることは何もありません。

しんどいのは、ジェルソミーナがそんなザンパノにも愛を示してくれたこと、それが彼の心にとって恩恵があったことに、(遅すぎるけど)気づいたことでしょうか。

彼はその愛情を無碍に扱っただけでなく、大切な存在を奪う行為によって彼女に報いました。

1度はイル・マットを殺すことによって、

もう1度は彼女を置き去りにすることによって。

ザンパノは彼女に愛を与えなかっただけでなく、彼女からの愛にまともに気づいてすらいなかったのでした。

 

神の愛は信じぬ者にも及ぶ

フェデリコ・フェリーニ監督は、「神の愛は信じぬ者にも及ぶ」との思いでこの映画を作ったと聞きました。

映画の登場人物は誰もがその日暮らしで、貧しく、教会に通う様子もありません。

神の愛は一体誰に及んだのでしょうか。

ジェルソミーナは冒頭の母親の言葉を聞く限り、大人だけど働いたことがない。

おそらく軽い知的障害があり、働けなかったものと思われます。

彼女は自分がなかなか人の役に立てないと思い、「私は何の役にも立たない」と嘆きます。

そんな彼女には綱渡り芸人が手を差し伸べました。

彼は綱渡りの衣装に天使の羽をつけている場面がありました。

多くの方がレビューで指摘しているように、彼は神の愛の比喩的存在で、ジェルソミーナに優しい言葉をかけたのは愛を説くためのように見えます。

ザンパノに差し伸べられた愛は言うまでもなくジェルソミーナでしょう。

粗暴な彼にも優しく付き従う彼女は、力も打算もなくただ素直なばかりで、天使を暗喩しているように思われます。

しかしザンパノは、その愛に気づきもしなければ、失って初めて彼女を好きだったことに気づきました。

まるで小さな子どもが家族と喧嘩して「嫌いだ」と自分から言った後に、相手から突き放されて激しく動揺したり、

あるいは綱渡り芸人が言うように、愛する者にも吠えることしか知らないけだもののようです。

神の愛はけだものをも変えると言ったところでしょうか。

変わったところで既に時遅しであることは変わりませんが。

予備知識なしで映画を観たときにも、「愛は人を変える」というメッセージは比較的察知しやすかったのですが、「神の愛は…」のフレーズを聞いてなるほどと思いました。

DV人間にも添い遂げよとかそう言ったことではなく、誰でも誰かに何かを与えられること、神の愛の比喩としてジェルソミーナが必要だったのでしょう。

 

おわりに

この映画を観て驚いたのは、シンプルな物語に深遠なテーマを込めるストーリーテリングの凄さです。

戦後すぐに作られた映画で、登場人物たちは電話も使わなければテレビも見ていないし、勿論インターネットなんてありません。

トーリーもいたって単純で、複雑な展開も幾重もの伏線もありません。

それなのに、これほど心にいつまでも残り続ける作品に出会ったのは初めてでした。

また、このような映画を現代において作ることは不可能でしょう。

名作には名作たる理由があるんだと教えてくれた映画です。

愛というテーマについてじっくり思考したい時におすすめの作品です。

 

    

 

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