本と映画と時々語学

書評、映画評など書き綴りたいと思います。

映画『リリーのすべて』

世界で初めて性別適合手術を受けた、デンマークの人物を主人公とした映画のレビューです。

男性の身体に生まれ、女性の心を持った画家が、妻とともに本当の自分を模索していくストーリーです。

思いっきりネタバレします。

 

 

あらすじ

デンマークコペンハーゲン在住の画家アイナー・ヴェイナーは、風景画家としての支持を確立し、妻ゲルダと幸せな生活を送っていた。

ある日、妻の絵のためモデルの代わりに女性の衣装を纏ったとき、アイナーは今までにない感情に見舞われる。

女性の装いをすることに興味を惹かれた彼に、ゲルダもはじめは楽しみながらファッションや化粧を手ほどきしていく。

しかし、夫が女性の人格リリーでいる時間が長くなるにつれ、戸惑いを覚え始めるゲルダ

「かつてのアイナーに、夫としてそばにいてほしい」と望むゲルダに、それはもう叶わないと告げるリリー。

二人は悩みながらも、リリーという人物が生きる道を探り始めるが、精神医療が未発達な時代ゆえの数々の困難に直面する。

 

実在の人物リリー・エルベ

本作の主人公リリー・エルベ(アイナー・ヴェイナー)とその妻ゲルダは、実在のデンマークの画家です。

男女として結婚していたこと、その後リリーが女性の格好をして生活するようになったことも、事実に基づいています。

当時の社会では、性同一性障害の存在が医学界ですら概念として確立しておらず、リリーは様々な偏見や好奇の目線を浴びることになります。

しかし、妻ゲルダはリリーのそばを離れず、リリーがこの世を去るまでパートナーであり続けました。

死の原因は、48歳で受けた性別適合手術の拒絶反応でしたから、ゲルダは最期までリリーの意思と決断を尊重していたわけです。

二人はデンマーク王から婚姻無効を言い渡されてもいるのですが(当時のデンマークでは同性愛が犯罪とされていた)、内面的に深くつながった人同士の前に、書面上の断罪は意味をなさなかったといえます。

 


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リリーの目覚め

ゲルダの絵のモデルが現れなかったことから、代理として衣装を着るよう頼まれたアイナー。

そのときに今までにない感情を抱き、以後女性の装いをすることに興味を持ちます。

最初はノリノリで彼女にメイクやファッションを施し、アイナーの従妹リリーとして、パーティーに連れだって出かけていた妻ゲルダ

しかし、パーティーで声を掛けてきた男性とキスするリリーを見て傷つき、装いを変えることにのめり込んでいく様子にも当惑し始めます。

一方のアイナーは、リリーこそ本当の自分だとの確信を強めていきます。

男性から関心を寄せられることにときめくだけでなく、女性として扱われたい。

このことから、アイナーは自分が同性愛者なのではなく、心が女性に生まれついたのだと気づきます(リリーの姿のときに声をかけ、誘ってくれた知人が、正体を知っていて「アイナー」と呼びかけられた途端に逃げ出しています)。

 

ゲルダの愛

この映画の見どころの半分はリリーという人物の変化ですが、もう半分はゲルダの深い葛藤と愛といえます。

実際、Filmarksなどを見ていても「ゲルダが凄い人すぎる……」という嘆息にも似たコメントが多数寄せられており、私も同意見です。

ゲルダが結婚したのはアイナーであって、リリーではなかったはずですが、夫の変化に戸惑いつつも彼女は最終的にそれを受け入れます。

現代ですら、男性として結婚した相手が、トランス女性だと判明したら大きく動揺する人がほとんどかと思います。

ましてこの時代は性同一性障害そのものが、まったくと言っていいほど知られていません。

何人もの精神科医に会って話をしても、異常ないし治すべき病気として捉えられ、「女性でありたい」という感情は葬られるべきと考える医師がほとんど。

精神分裂病(今でいう統合失調症)と考えた医師に拘束されそうになった場面などは、もう立派な迫害としか思えません。

それでもゲルダは、リリーが望む人生を叶える努力に寄り添い続けます。

生涯のパートナーと決めた相手とは言え、悩みながらもリリーの意思を尊重し続ける姿勢に尊敬の念を禁じえません。

なお実在のゲルダについては、レズビアンだったのではないか、との考察もあるようですが、映画のなかではあくまで異性愛者として描かれています。

 

本当の自分になる

艱難辛苦の末、「身体の性と心の性が一致しないことに悩む人がいる」との見解を持った医師に出会うことができたリリーとゲルダ

身体の性を心の性に適合させる手術が考案されていることを知ります。

ただし、実際に手術を受けた人はまだ一人もおらず、リスクが大きいことを告げられます。

初めは躊躇っていたものの、本当の自分になるために手術を希望するリリー。

甚大な痛みや恐怖に耐え、一回目の手術を乗り越えます(男性としての機能を摘出する手術)。

よりリスクが大きいことを知りながらも、あまり長い間を空けず、今度は女性としての機能を具えるための手術にも果敢に挑みます。

ゲルダや、映画を見ている人間からすると本当にハラハラする決断なのですが、リリーの待ちきれない様子を見ると切なくなります。

既に大きな痛みが待っていることも、リスクも知っているはずなのに、それでも変わりたいというなら、これまでどれほど苦しんだんだろう、と考えてしまいます。

産科の患者さんと「わからないけど、もしかしたら子どもが産めるようになるのかも」と語り合うリリーの楽しそうな顔を見ると、なおさらです。

最終的に、リリーは二回目の手術の拒絶反応が強すぎたため、亡くなってしまいます。

でも、彼女にとっては本当の自分になることの追求は、決してやめられなかったのだと納得してしまう描写でした。

 

映像の美しさ

きめ細かい脚本や、メインの二人の隙のない演技が本作の見どころです。

しかし同時に、映像としての美しさもぜひ堪能していただきたいです。

デンマークの風景は、とくに秋や冬だと寒々しい印象が強いのですが、本作ではその味わいも残しつつ、緊張感ある美しい画面が構成されています。

爽やかさというより重厚感を重視した美しさです。

ヴェイナー家のアトリエや、パーティー会場も、美術や衣装、小道具がいちいち素敵で惚れ惚れします。

二人がパリに移住してからの住居なども、花の都らしい華々しさを演出しつつ、映画全体の雰囲気を壊さない絶妙なバランス。

手術のために渡ったドイツでも、現地の雰囲気を感じさせつつ、落ち着いた風景の美しさが印象的でした。

 

おわりに

終始緊張感ある重厚な映像が続きますが、それも深いメッセージのある脚本があるからこそでしょう。

リリーとゲルダの強い絆や、本当の自分を追い求める切実な気持ちに心を打たれる秀作です。

誰もが自分らしくいられて、好きな人に好きと言える社会になってほしい、という気持ちになります。

 

 

 

 

 

 

映画『レディバード』

カリフォルニア州の田舎町を舞台とした、ある少女の成長物語のレビューです。

高校時代独特の背伸び感やイタさ、混乱の感覚を思い出して「あるある……!」となってしまう秀作でした。

アメリカ本国でも高い評価を受けています。

色々ネタバレしてます。

 

 

あらすじ

カリフォルニア州サクラメントの高校生クリスティーンは、家でも学校でも、本名ではなく「レディバード」と名乗っている。

田舎町の地元や、厳格な高校を離れ、一刻も早く文化のある都市ニューヨークで進学したいと願う毎日。

母に反対されても、父の協力を得て奨学金申請や入学申し込みを試みている。

進路のみならず、日常生活でも自分以上のものを求めてしまうレディバードは、華やかなクラスメイトと仲を深めたり、新しい彼氏を作ってみたりと積極的だが……

 

自分の可能性を信じる

レディバードは、自分の可能性をどこまでも信じているというか、全方位で輝きたいという強い希望を持っている、普通の女の子です。

文化都市ニューヨークに進学したい、裕福な地区の立派な家に住みたい、唯一無二の彼氏が欲しい、華やかなクラスメイトとお近づきになりたい、などなど。

もしかしたらそういう人もいるのかもしれませんが、大抵の人はそうなれません。笑

実際、学費や生活費がかさむのでニューヨーク進学は諦め、州立大にしてと母から言われているし、土地の安い線路の向こう側の地区に住んでいるし、と現実は厳しい。

父は高齢で、メンタルヘルスの問題からなかなか働けていない、などの事情も抱えています。

さらに、兄弟はカリフォルニア大学を出たものの良い職が見つからず、スーパーでのアルバイトで日銭を稼いでいます。

一家の大黒柱となっている母は、誰かが大病でもしたら破産になる現実をわかっているからこそ、レディバードの進学先にコメントするわけです。

それでも、自分の進路に夢を見たい彼女は言うことを聞きません。

こんな田舎町で終わるつもりはない、とばかりに父の協力を取り付け、ひそかにニューヨーク進学を実現しようとします。

 

快進撃

映画前半では、不器用ながらもレディバードの野望は徐々に実現していくように見えます。

シスターに勧められて挑戦した演劇の舞台が成功し、彼氏ができ、数学の成績を成功裏にごまかし、父も進学準備に協力してくれます。

しかも彼氏の祖母は、ずっとレディバードが理想の家と思っていた素敵な邸宅の住人。

「彼と結婚して他の親戚を排除すればあの家が相続できる」とまで豪語する始末(調子乗ってます……)。

親友ジュリーも、淡い恋心を抱く数学の先生に目をかけてもらえて幸せそう。

若いときの「自分は何だってできる」「環境さえよければもっとできる」という根拠のない自信をエネルギーに、どんどん進んでいきます。

しかし、蓄積や裏付けのない絶好調は崩れ去るとき脆いんですね。

 


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気づきの瞬間

ジュリーの儚い失恋(本人的には一大事なんだけど、初々しくて可愛い……)と並行して、レディバードにもスランプが訪れます。

彼氏がゲイであること、男子と浮気していたことが同時発覚、華やかなクラスメイトとの関係を優先して親友ジュリーと気まずくなったりもします。

その後、次にできた彼氏と初めて関係を持つものの、お互いに初めて同士かと思いきや相手は童貞じゃなかったり。

しかも、憧れのあの家に住んでいると嘘をついた結果、友人がその家を実際に尋ねてしまって嘘がバレます。

自分自身の実像を無視して背伸びした結果、すでに持っていた大切なものを失ったり、自分が蔑ろにしていたことの大切さに気づいたり、突っ走っていた自分が虚しくなったり。

どれも青春あるあるなんですが、体験しているその時は危うさに気づかないんですよね。

実際失敗してみて初めて、「ああこういう事って良くないな」と気づかされる。

そして、そういう時に救ってくれる人のありがたみが身に沁みます。

 

本当に守ってくれる人

彼とプロムに行きたかったレディバードですが、新たな友人や彼はサボろうと言って盛り上がってしまいます。

思い立ったレディバードは彼らと袂を分かち、ひとりで家にいたジュリーのもとへ。

仲直りして、二人でプロムに参加し、高校最後の思い出を作ります。

そして、ニューヨークの大学に内緒で出願していたことがばれ、母を激怒させてしまうも、最終的には旅立たせてもらうレディバード

母さん的には、レディバードが、パッとしない地区にある家や、高齢のお父さんを無意識に恥じている(車で送ってもらっても同級生から見えないところで降ろしてもらう)ことがずっと嫌でした。

彼女にしても、人生もう少し順調に行くと思っていたら、いろいろ想定外だったわけです。

夫がメンタルを病んで働けなくなったり、子どもがいい大学を出ても就職できなかったり。

高校生のレディバードに、その大変さの想像がつかないのは仕方ないのですが。

 

故郷を離れて

念願のニューヨーク生活を始めるレディバード

ある夜、飲みすぎてぶっ倒れたあと、教会の賛美歌に癒されます。

カトリックの高校に行っていたときは、まったく興味を持たなかったのに。

そして実家の留守番電話に、故郷サクラメントと家族への思いを吹き込みます。

ダサくてパッとしないと拒絶していたものも、自分の構成要素であると気づいたこと。

それを受け入れようと思えたことは、彼女にとって幸せなことだと思います。

幼少期や思春期が辛い思い出になってしまったために、決別や告白を選んで生きていく人もたくさんいるんけですから。

過去に背中を押され、人生の新しいパートを生きていくレディバードの将来が楽しみなラストです。

 

おわりに

サクラメントカトリック高校出身の、監督の思いが詰まった作品でした。

イタい青春を送った人もそうでない人も、この頃ってこんなことあるよね……と振り返りながら見ていただきたい、珠玉の青春映画です。

 

 

 

 

映画『嫌われ松子の一生』

邦画のなかでトップクラスにおすすめな作品をご紹介します。

海外の邦画ファンからも絶大な支持を誇る名作です!

いろいろネタバレしております。

 

 

あらすじ

うだつの上がらない学生生活を送る大学生・川尻笙は、ある日父から、会ったこともない伯母・川尻松子がいることを知らされる。

何者かに殺された彼女の遺品整理を頼まれた笙は、遺された品や、訪ねてくる人々との対話から、松子の一生を紐解いていくことに。

福岡県は大川で中学校教諭をしていた松子が、いかにして地元を離れ、中洲や雄琴でナンバーワンになり、そして転落の人生を辿って行ったのか。

彼女の死の間際に何が起こったのか。

決して幸せとは言えなかったはずの松子の人生を辿るなかで、笙は彼女と出会った人々の様々な思いを知っていく。

 

松子という女性

昭和の時代、福岡県南部で教員として働いていた松子。

厳格な父の期待に応えるため、勉学に励み先生となった彼女ですが、父は相変わらず病弱な妹・久美にばかり関心を向けていました。

そんななか、修学旅行で持ち上がった盗難疑惑で、その場しのぎの対応をしたために一方的に罪を負わされてしまいます。

職場での居場所がなくなり、家にもいられないと自暴自棄になり地元を飛び出した松子は、小説化を目指す若者・八女川と同棲を開始。

しかしこの八女川が情緒不安定な暴力男で、松子を痛めつけるのみならず、風俗で働いて来いと言い出したりと最低な所業を……

と、もう序盤から松子の人生がいかに踏んだり蹴ったりか、わかっていただけるかと思います。

この後も、雄琴で男に騙されたことに逆上して事件を起こしてしまったり、そのことで後に仲を深めた人とも引き裂かれたり、松子には次々としんどすぎる出来事が襲いかかります。

出会ったどの男性とも、普通の幸せを手に入れることができない松子。

でも、その愚直とも言える姿勢がなぜか視聴者の目を離さない不思議な映画です。

たった一つ、本当の意味で満たしてくれる愛を探して、どの相手とも全力で向き合っているからでしょうか。

松子が愛を渇望するのは、生まれ育った家庭での満たされなさのためで、映画の中でも折にふれ、父への複雑な思いが言及されています。

小さなころ、関心を惹きたかった父がもっと構ってくれていたら、ここまで報われない愛に身を捧げる人生にはならなかったのかもしれません。

 

コミカルなミュージカル仕立て

松子の人生が超絶ハードモードなのは上記の通りで、原作小説でも映画でもそれは変わりません。

映画が原作と大きく異なっているのはコミカルな演出と、ところどころミュージカル仕立てになっていることです。

主演の中谷美紀さんをはじめとした出演者陣の顔芸、小ネタは推挙に暇がなく、ジェットコースター的なドラマのなか、随所にクスッとなる演出があります。

松子の一生を辿っていく甥・笙のとぼけっぷりもいい癒しになっている感じです。

正直、小説の内容をただ素直に映像化したら、とんでもなくシリアスで重い映画になっていた可能性が高いと思います(それはそれで観てみたい気もしますが)。

文字で読むより、映像で観るほうが、松子の転落っぷりやしんどさが生々しく鮮やかに伝わってくると思うからです。

しかし、映像化の際にコミカルに仕立てることで、物語の消化に必要とするエネルギーをうまく均して、観た人が辛すぎないストーリーに仕上げられた。

また、不幸体質ともいえる松子の行動は、普通の人には不可解な部分も多いかもしれません。

小説では心理描写でそのへんも丁寧に説明されていますが、映像ではそれが不可能。

「何でここでその人を信じてしまうのか」「幸せになれないかもしれないのに何でそんな選択肢を取るのか」という疑問を抱かれがちな部分も、独特なコミカルさに包むことで「松子はこういう人」と納得させるパワーを持たせられたのかもしれない。

これらのことによって、より多くの人の感情移入を呼び込めた映画と言えるでしょう。

印象的な挿入歌も、ストーリーの内容に違和感なく寄り添っていて、かつ昭和からゼロ年代の雰囲気を感じさせます。

『まげてのばして』『Love is Bubble』などは映画が終わったあともついつい口ずさみたくなってしまいます。

 


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松子と出会った人々

笙の前には、亡くなった松子のアパートを訪ねて、松子と人生が交差した人々が現れます。

その一人が、女子刑務所で松子と同時期に服役していた沢村めぐみ。

現在はアダルトコンテンツのプロダクション社長である彼女は、笙のことを「松子に似ている」と言い、松子の人生について語ります。

出所後に再会し、松子は美容師、めぐみはアダルトビデオの制作と、新たな世界で暮らし始めていた二人。

しばしば会って近況報告しながら、楽しい時間を分かち合っていた友人同士でしたが、ある日めぐみが夫と話す様子を見た松子は、ふっと彼女の前から姿を消してしまいます。

あれほど時間を共有していたのに、と思うめぐみですが、笙は松子の内面の変化を言い当てます。

同じように見えても、めぐみには夫や仕事の目標があったけれど、松子は淡々と美容師の仕事をしていただけ。

一緒にいると彼女と差を感じてしまい、辛くなったのではないか。

後年、松子を助けようとしためぐみの手を、松子が掴まなかった理由の一部も、そのへんにあるような気がします。

もう一人の重要人物は、松子のかつての教え子である龍洋一。

修学旅行の盗難騒ぎで、松子がその場しのぎの対応をしたと暴露し、教員の職を辞める原因を作った生徒でした。

二十代になってから、美容師時代の松子と再会した彼は、ずっと彼女のことが好きだったと打ち明けます。

彼の気持ちを受け入れるか、松子は迷います。

再会した龍はヤクザの奥方の付き人をしていて、彼と一緒になったところで平穏な幸せが待っているわけではありません。

でも、彼を拒んだところで、また孤独な人生が続くだけです。

彼といても地獄、彼がいなくても地獄、どちらも地獄なら、孤独でないほうを選ぶ。

その決意のもと、龍の車に再び戻るシーンは鬼気迫るものがあります。

暴力を振るうようになった龍からも離れない松子を、めぐみが助け出そうとしますが、彼女はそれを拒否します。

ひとりぼっちは嫌

と言い切る松子は、寂しそうだけれど決然とした美しさもあって、めぐみが何も言えなくなってしまった理由もわかってしまうのです。

帰るところがなく、支えてくれる家族もいない松子は、何があっても龍と人生を共にすることを決めますが、さらなる試練に巻き込まれていくことに。

 

キリスト教の愛の概念

龍はしばらく松子と暮らしますが、組織からの制裁で殺されそうになり警察に自首。

服役した刑務所でキリスト教に出会います。

どんな悪人も救う神の愛の教えに惹かれる龍ですが、何年も自分を待っていてくれた松子の愛は受け入れられませんでした。

これまでの人生で誰からも大切にされてこなかった彼は、松子の無償の愛が得体の知れないものと映り、怖気づいてしまったためです。

終盤、笙の口からは、「あんなに不幸だった松子おばさんを、龍さんは神様だと言った」と語られていました。

自分を救う奴なんかいない、と思っていた彼は、誰もにあまねく向けられるのが神様の愛だ、と刑務所で聞かされます。

今までさんざんヤクザ生活に巻き込んだのに、何年も龍を塀の外で待っていてくれた松子、その深い愛は、龍にとって神の愛と同様に畏れの対象になってしまったのでしょう。

その後も聖書を持ち歩き、キリスト教を心の支えにしていた様子の龍。

神様ではなく松子に救いを求められていたら、彼女の死の前にお互いの心が通じたかもしれません。

映画では尺の関係か、さらっと触れられているキリスト教徒の関連ですが、気になった方はぜひ原作小説をご覧になってみてください。

龍と笙の対話の中で、愛の概念についてもっと掘り下げられていますし、それがストーリーとどう重なるかもより理解できるかと思います。

キリスト教的愛を下地にしているところが、海外の邦画ファンからの評判が高い理由の一つでもあるんでしょうね。

 

松子の一生

映画序盤で明かされている通り、松子の人生は五十数年で幕を閉じてしまいます。

その一生は華やかとも幸せとも言い難いものでしたが、映画を見終わると何とも言えない深い余韻が残ります。

愛が報われないことを嘆くことなく、出会った相手をひたすら愛し続けた松子の姿に、一つの信念を感じるからではないでしょうか。

孤独に怯えたからこそ愛を選んだのかもしれませんが、それでも強い情熱がなければ一人の人をずっと待ち続けることは難しいわけで。

生きている間、松子の想いは報われなかったけれど、その後の世界では分かり合えなかった父や妹と、和やかに再会してほしい。

思わずそう願ってしまうラストでした。

 

おわりに

主にストーリーについて語ったレビューになりましたが、忠実に再現された昭和のファッションやメイク、髪型なども本作の一つの見どころかもしれません。

あと、今見るとキャストの面々がとにかく豪華です。

当時は若手だった柴咲コウ、奥山瑛太伊勢谷友介劇団ひとりなどなど、押しも押されぬメンバーがずらりと揃っています……

でも、それらの人々も極めてサラッと出演していて、気が散ってしまうような豪華さではないのでご安心を。

グッと心を動かされる邦画が観たい! という方にぜひおすすめしたい映画です。

 

 

 

 

ドラマ『バビロン・ベルリン』

第一次世界大戦後のベルリンを舞台とした、硬派なミステリドラマのレビューです。

映像のクオリティも、シナリオの密度もピカイチの逸品です。

ドラマの感想がメインですが、ところどころネタバレを含みます。

 

 

あらすじ

1929年、ワイマール共和国体制下のドイツ。

第一次世界大戦からの帰還後、ひそかに戦争神経症に悩む刑事ゲレオン・ラート。

故郷のケルンからベルリンへと赴任した彼は、ヴァルター上級警部とともにポルノ映画の撮影現場を摘発する。

それは巨大な陰謀を暴く道への第一歩だった。

貧しい家族を支えるべく、警察で事務員として働くシャルロッテとともに、ゲレオンは巨大な謎を紐解いていくことになる。

 

ドイツ史上最大規模の撮影

見出しの通り、ドイツで過去最大の規模で撮影されたドラマ作品と言われます。

その評判にたがわず、とにかく映像のクオリティが尋常じゃなく高い!

1929年のドイツがそのまま立ち現れたかのような美術、衣装は、画面のどこを切り取っても隙がない。

リアリティを感じさせつつ、お洒落で魅力的にも見せています。

シーズン1のエピソード2でのモカ・エフティでのダンス場面の壮麗さは、他のドラマに類を見ません。

耽美的なナイトライフの描写は、現在のドイツのカルチャーの「濃さ」の源泉になっているかもしれないと思わせます。

音楽のセンスも卓越していて、特に主題歌の『Zu Asche, Zu Staub』のクールさは群を抜いています。

本作のストーリーや世界観にもぴったりです。

そして何より、カットやシーンの構成力が高いんですね。

あまりに視点や場面の移り変わりが自然なので、夢中になっているうちに時間を忘れてしまいます。

 

ゲレオンとシャルロッテ

メインとなる人物、ゲレオンとシャルロッテそれぞれの人間造形の奥行きも、ドラマの見どころの一つです。

主人公ゲレオンは、第一次世界大戦に出征し、西部戦線で兄アンノーを亡くしています。

彼の命の危機を目撃したうえ、自分より兄に期待をかけていた父の思いも知っているという、複雑な背景。

さらに、アンノーの未亡人となった兄嫁に、兄の死以前からただならぬ想いを寄せ続けてきました。

さまざまな葛藤を抱えながら、事件を追い続ける姿は人間臭く、主人公としては若干頼りないもののハラハラ見守ってしまいます。

一方ヒロインのロッテは、雑草魂というべきか、貧しい家庭の生まれながらたくましい精神の持ち主。

昼は警察の事務補助、夜はダンスホールのスタッフ(更に裏の顔あり)として働いています。

家族の中で誰より現実的な視野を持っているため、必然的に問題に対処する役目を負ってしまい、なんやかんやでいつも苦労している気が……

でも決して卑屈にならず、やるべきことを見つけてこなしている姿が視聴者を引き付けます。

シャルロッテは事件を追うゲレオンのサポートをするうちに、彼との間にも絆が築かれていきます。

社会的立場が彼より弱い分、降りかかってくるトラブルの影響度も深刻で、ある意味ゲレオン以上にハラハラさせる、そして応援したくなる人物です。

 


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当時の時代背景

本ドラマの舞台となるのは、第一次世界大戦終戦から十年以上が経ったドイツ。

しかし、敗戦の陰はまだそこここにわだかまり、敗北に納得できない軍関係者は再軍備し、ヨーロッパの覇権を握る機会を虎視眈々と窺っています。

西部戦線での従軍経験から、戦争神経症を抱えるゲレオンや、戦争があとを引く社会で困窮するロッテ一家など、登場人物たちの状況ともリンクしてきます。

一方で共産主義やナチズムも存在感を増しており、きなくさい火種があちこちで燻ぶる世の中。

秘密裏に活動を行う第四インターナショナルの存在や、徐々に台頭し始めるナチ党の動きが不気味に浮かび上がってきます。

現在シーズン3まで公開されており、シーズン1~2が第一部、シーズン3が第二部となっています(第二部の続きにあたるシーズン4の製作が決定済)。

第一部のほうがより、国際的な陰謀の絡んだ大規模なミステリとなっており、第二部はベルリンの裏社会とナチズムの台頭にフォーカスが当たっています。

知識ゼロだとさすがに取っつきにくそうなので、第一次世界大戦の結果や、その後ドイツが被った影響などをさらっとでも押さえてから見るのがいいと思います。

 

見どころ

緊迫感あふれる捜査やだまし合いはもちろんのこと、メインの二人のプライベートもひっきりなしに新展開が訪れます。

ゲレオンには、兄アンノーの未亡人となった義姉との関係、戦争神経症を扱う謎の医者、などなど戦争の暗い影が付きまといます。

基本的には翻弄されていくスタイルのゲレオンですが、第二部が終わるころには人生の指針を決められるんでしょうか。

シャルロッテは、健康状態の優れない母や、ろくでもない男(妻の実家に転がり込んでます)と結婚した姉を抱え、日々奮闘。

ダブルワークや出世で何とか家族を養っていますが、次から次へと新しい問題が発生します。

そんな中でも前向きさを失わず、現実的に対処する姿を応援せざるを得ません。

さらに、彼女は警察署の掲示板で見つけたお手伝いの求人を友人グレタに紹介するのですが、それが新たな火種を呼び寄せることに……

様々な要素を詰め込みながらも、渋滞を起こさず視聴者を掴み続けるのは、ひとつには原作のクオリティの高さもあるでしょう。

原作小説は創元推理文庫から『濡れた魚』のタイトルで発売されています。

 

おわりに

スペインの『情熱のシーラ』、イギリスの『ダウントン・アビー』のように、戦前の時代を舞台とした重厚なドラマが、ドイツでもないかなあ……と思っていたら、あった!という感動的な出会いでした。

とにかく高クオリティで、この映像とシナリオに耽溺しているだけでも幸せ、という代物です。

舞台となっている大陸ヨーロッパや、第一次世界大戦第二次世界大戦前の時代がツボな私ならではの好みではありますが。笑

日本ではやや影の薄い第一次世界大戦ですが、近代兵器を大規模に用いた初めての戦争であり、第二次大戦へとつながった布石でもあることから、ヨーロッパ史では非常に重要な転換点とされます。

ハードボイルドな時代物ミステリがお好きな方に、ぜひおすすめしたい作品です。

 

 

 

 

映画『ノマドランド』

アカデミー賞作品賞を受賞した、米国の放浪生活を切り取った映画をご紹介します。

抒情的で、でもサラッと終わらず人生について考えさせられる深い作品でした。

 

 

あらすじ

産業都市エンパイアで暮らしていた米国人の中年女性ファーン。

企業の撤退によって町自体が消失すると、彼女は放浪生活を行うノマドとなる。

ときにアマゾンの倉庫作業、ときに国立公園のスタッフ、店員などの期間限定の労働で生計を立てながら、車で暮らす生活。

孤独なはずの暮らしは、しかしどこまでも自由だった。

いくつもの出会いと別れを繰り返しながら、ファーンのノマド生活は続いていく。

 

放浪生活を抒情的に綴る

すっかり定着した、アカデミー賞作品賞の社会派な視点という要請に応えつつ、哲学的で詩的な物語です。

社会を切り取った作品は、多かれ少なかれ監督のメッセージが見えるものですが、本作はアメリカ社会の一面を描き出しつつも批判はほぼ皆無。

ファーンたち個人の生き方を丁寧に辿る映像描写は優しく詩的で、見終わった直後は「アカデミー賞よりパルムドール獲りそうじゃない?」と思いました。

ノマド生活は、国民皆保険も、厚い社会保障もないアメリカだからこそ出てくる生き方かもしれません。

だから、それらの恩恵を受けるための定住生活よりも、自由を求めた放浪生活に移行するハードルが低いのかもしれません。

けれどクロエ・ジャオ監督は、「こんなの間違ってる」という目線での撮り方をしていない。

社会的弱者の実態を告発するとか、小さな政府を糾弾するとか、そういった視点の批判をするための作品ではありませんでした。

ノマドの人々の横顔を淡々と写し取り、放浪生活の厳しさも自由さも伝えつつ、彼らがその暮らしを選んだ理由がわかるような映像になっています。

 

ノマドノマドである理由

ファーンがなぜ定住を選ばないのかは、折々に触れ眺めている写真や、ぽつぽつ語る夫との思い出から明らかになってきます。

彼とのエンパイアでの思い出が本当に大切だから、別の町、別の人間関係でそれを多少なりとも上書きして生きていく選択肢は、彼女にはないのです。

過去は過去として、大切に記憶のなかにしまったまま、それを抱いてまったく別の世界で生きていく。

それこそが、ファーンがしたい生き方です。

とくに冒頭のカットは寒々しく、放浪生活の厳しさを鋭く伝えてくるのですが、徐々にその中の温かさが解き明かされていきます。

ショッピングセンターで出会ったかつての知り合いに言う、「ハウスレスだけどホームレスではない」というセリフが、ノマドライフを象徴しているように思います。

家がないことは、帰ることがない場所とイコールではない。

保つべき生活の仕方そのものが、ファーンたちにとって家なのだと気づかされます。

 


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様々なノマドライフ

最初は思い出だけをホームに生きていたかもしれないファーンですが、劇中ではノマド同士の緩やかで温かい絆も心を支えていることが描かれます。

ファーンはアマゾンの倉庫内作業で出会った仲間たちと、食事の時間などに打ち解けて過ごしている様子。

かつての教え子や知人に会った際も、とくに身構えることなく話しています。

ノマドであることを気負うことも、過剰に誇りにすることもありません。

そして、ノマドの人々が集まる場にも顔を出しています。

何もない自然の空間で、何百人もの人々が集っている様子は、儀式的・神秘的なものを感じさせます。

でも実態は怪しい宗教や、社会批判に生きるヒッピーというものではなく、あくまで放浪生活に居場所を求めた人たちが、同じ思いを分かち合いにきた場という感じ。

喪いたくない思い出を大切に抱えて生きていきたいから、向き合うべき喪失のある「定住の日常」に戻ることが耐えられなかった、など背景は様々。

そして、定住生活に戻る道を見出したり、死ぬ前にひと目見たい光景を目指して走り続けたいなど、これから迎える運命もそれぞれ。

保険がないこと、安定的に続く人間関係を築くには不向きなことなども、無視することなく綴りつつも、各人の生き方を模索し続けるノマドたちの横顔には、不思議な満足があるようにも見えます。

自分のように定住生活で不自由を感じない人間は、何があっても基本的には、放浪生活を選ぶことはないだろうと思います。

そんな自分でも、なるほどこんな思いや理由があって、この人たちはノマドという生き方を選んだんだ、と納得させる不思議な力がありました。

押し付けがましくなく、かと言って夢物語でもない、監督の巧みなバランス感覚が発揮されています。

 

おわりに

生活は大変だし自然も厳しいけど、孤独を抱えながらも孤独じゃない、不思議な暮らしを送るノマドたち。

彼らの生活を垣間見るうちに、美しい映像も相まってどこか癒されていくような感覚があります。

定住する住居や、定常的な仕事、年中行事などがすべて取り払われた暮らしの中でこそ、人間が「生きること」のなかに本当は何を求めているのか、問われるようです。

でもその問いは厳しい糾弾ではなく、見ている人の中のゆるやかな共感や、ファーンの示唆する思いの中に、自然と見出されていきます。

静かに考え事をしたい気分のときに、ぜひおすすめしたい映画です。

 

 

 

 

映画『おおかみこどもの雨と雪』

細田守監督のアニメ映画のレビューです。

ファンタジーと家族ドラマの融合を、北陸の美しい自然とともに綴る秀作です。

ネタバレでお送りします。

 

 

あらすじ

東京都下の国立大学に通う花は、ある日ひょんなことから《おおかみおとこ》の彼と出会い、恋に落ちる。

結婚した二人の間には、長女の雪と、長男の雨が生まれ、ささやかながら幸せな家族生活を送っていた。

しかし、雨が物心つく前に、彼は亡くなってしまう。

いつ狼に変身するかわからない《おおかみこども》の雨と雪を、懸命に子育てする花だが、やがて都内の生活に限界を覚えるようになる。

二人の子どもがのびのびと、人として狼としての生き方を模索できるよう、山あいの田舎に引っ越した花。

新たな環境で花が奮闘するかたわら、《おおかみこども》たちもそれぞれに目覚ましい成長を遂げていく。

 

実在の風景とのつながり

大学時代の舞台となる町は、一橋大学国立市です。

見たことがある人なら必ずわかる光景が、アニメの中に違和感なく切り取られています。

田舎に引っ越したあとの山並みも、北陸の風景を美しく切り取っていて、映画の世界と現実をつなぐ意欲を感じます。

観たい風景を現実から好き放題切り貼りするんじゃなく、あくまで現地世界を投影しながら進んでいきます。

その誠実さが、子育てに翻弄される花の暮らしの描写にも表れていて、ファンタジーでありながらリアリティも感じられる作品でした。

 

子育てという日常を非日常に

本作では一家の日常場面を通じて、こどもの急病、破壊活動、日本語の通じなさなど、親業をやってる人が直面してる現実がさりげなく描かれています。

生活感ある苦労を描きつつも、おおかみこどもだからこその悩みに見せることによって、ほどよい非日常感と現実感を両立しています。

ファンタジーの醍醐味ってこういうところだな……とちょっと感動する鮮やかさとさりげなさです。

現実には、子育てしてる人が主人公になれる物語なんてそうそうないし、だから映画やドラマでもあまり描写されないのかもしれません。

でもファンタジーを取り込むことで、それを全部解決してしまったわけです。

 

主人公の描き方

もう一つ驚かされたのは、本を読んで独学でなんでも学び、次々と課題を解決する花の逞しさです。

雪と雨がのびのび遊ぶことも、オオカミこどもらしい振る舞いをすることも難しかった東京での生活。

厳しい風当たりを逃れて来た田舎は、かえって一人では生きていけない世界ではあるけど、花の神がかり的コミュニケーション能力でそれも解決します。

田舎の自然ってなめてかかると本当に生存が危うくなるし、物理的に「人は一人じゃ生きられない」世界だけど、逃げずに描写してたところが良かったと思います。

そして、雪と雨が何をやっても怒らないし、どんなことからも守る覚悟がある花、本当にすごい。

親ってこんな超人じゃなきゃなれないのか……と遠い目もしたくなるけど笑、親子愛ものが好きじゃない自分でも花を応援したくなった。

 

成長する雪と雨

小さい頃は、雪が野生児、雨が大人しかったのに、大きくなって逆の道を選んだのは運命のいたずらですね。

小さな生きものだった子どもたちが、一人の人間として意志を持ち始める過程がリアルに描かれていました。

天真爛漫に生きていた女の子が、ある日「あれ?」と思って社会に適応し始めるのはあるある。

雨が自然のなかで生きることに目覚めるきっかけは、(明示されてはいたものの)正直よくわからないところもありますが。

そして、姉弟二人のぶつかり合いもまた、あるあるです。

子どもの頃は、決断を裏付ける経験がないからこそ、「これが正しいの!」ってバトルせずにいられない気持ちを思い出しました。

大人になると、そう思う人もいれば、そうじゃない人もいる、って思えるようになるんですけどね。

最後はめちゃくちゃ切なくて、全員の幸せを祈らずにいられません。

 

おわりに

子育てと親離れをファンタジーのなかで描く、不思議な作品でした。

 実際は花みたいに神様のような親っていないと思うのですが笑、きっとこんな人がいたら子どもは楽しいのかなと思います。

 

 

おおかみこどもの雨と雪

おおかみこどもの雨と雪

  • 発売日: 2018/04/25
  • メディア: Prime Video
 

 

映画『17歳の瞳に映る世界』

ある少女の中絶手術の経緯を負った、ロードムービーのレビューを書きました。

過剰な演出はなく、多くを語らない淡々とした構成ながら、観終わったあともずっと考えこんでしまうタイプの映画です。

男女問わず、多くの方に観ていただきたいです。

遠慮なくネタバレしてますのでご注意ください。

 

 

あらすじ

米国ペンシルベニア州に住む17歳のオータムは、ある日、望まない妊娠をしてしまったことに気付く。

出産を考えることのできない彼女が中絶手術の方法を調べると、州内では親の同意なしに施術が受けられないとわかる。

自分の意志で手術を受けるには、ニューヨーク州まで行くしかない。

従姉で友人のスカイラーとともに、お金も知識も充分でないままニューヨークに降り立つオータム。

高速バスで移動し、ホテルに泊まることもなく、大都会をさまよう二人。

オータムは手術前のカウンセリングで、初めて妊娠の経緯の一端を吐露することとなる。

 

オータムと妊娠

トップシーンは高校の舞台でのパフォーマンスです。

グループでのダンスやバンド演奏をする生徒たちの後、一人でギター弾き語りを披露するオータム。

歌詞では、ベストなことではないとわかっていながら、好きな人の言うがまま、望むがままに行動してしまう自分への歯がゆさが表現されています。

この歌詞はオータムの(特に異性との)人間関係の築き方を象徴するものでしょう。

最初に言ってしまうと、オータムの妊娠の経緯は、劇中で具体的に語られることはありません。

相手が誰なのか、どうして関係を持ったのか、なぜ避妊しなかったのかはわからないままです。

ただ、歌詞を筆頭に暗示されるオータムの異性との関わり方や、彼女を取り巻く男性たちの振る舞い、カウンセリングのやり取りなどで、彼女の置かれた環境が示唆されていきます(それだけでも充分に痛々しい……)。

彼女の住まいはペンシルベニア州の中でも田舎にあるようで、多様な選択肢が取れるとは言えません。

妊娠のことは母親にすら打ち明けず、地元の婦人科医しか知らないまま、数週間を過ごすオータム。

中絶の意志を打ち明けると、中絶反対派の作成したビデオを見せられたり、つわりの辛さも誰にも言えず、心身の辛さが募っていきます。

やるせなさの中で、自分の手でピアスを空けたり(一種の自傷行為)、痣ができるまで自分の腹部を殴ったりと、痛々しいシーンが続きます。

 

いとこのスカイラーの存在

オータムの唯一の味方と言える存在が、同い年のいとこで友人のスカイラーです。

彼女がなぜ、ニューヨークまで中絶の旅についてきてくれるのか、という説得力は、バイト先の光景やバスでのナンパが補強しています。

オータムほどの窮地に追い込まれてはいなくても、相手の気持ちや立場になんのリスペクトもないセクハラや下心には、彼女も常に晒されているし、目撃しているからです。

舞台上のオータムをメス犬と罵る同級生や、娘(継娘?)であるオータムへの父の冷淡な言動、売上手渡しの時に必ずキスをしてくるバイト先の店長など。

だから、「無責任な男の犠牲になってひとりで苦しむのは理不尽だ」という感覚を持ってくれたのかもしれません。

責任のとれない行為をともにしてしまったはずの相手は、何の代償も負わない一方、オータムだけが心身の負担を負わされるという状況ですから。

ただ、十七歳の二人にはまだ経済力も、法律の知識も、自分を守る手練手管もありません。

受けている不当な扱いも「そんなもん」だと思ってしまってるのか、すでに無視された経験があるのか、スカイラーもオータムも、他の大人に訴えようとしません。

そんな二人が、どうにかニューヨークの数日間をサバイバルして、手術を終えることのしんどさが静かに映されていきます。

バスでナンパしてきた若者も、本当にスカイラーのことに興味があるわけではなく、可愛い女の子と楽しい思いがしたいだけ。

でも、自分で稼いだお金で自分の面倒を見られるわけでもなく、身を守る知識もない彼女たちは、そんな相手にすら世話にならざるを得ません。

 


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オータムを取り巻く男性たち

なんの過失もない望んだ妊娠であっても、検診で異常がなくても、出産時の事故で亡くなる可能性はゼロではありません。

なので究極を言えば、その人のために死んでも悔いはないという相手としか、妊娠の可能性があることはしない方が良いのでしょう。

でも、オータムがそういう考えを持てる環境にいなかったのはよくわかります。

彼女の父親は、娘であるオータムどころか、パートナーである母親にもまったく敬意を払っていません。

世界で唯一の相手ですら「そんなもん」として扱う人間が最も身近にいて、どうやったらお互い尊重しあえるパートナーに想像が及ぶでしょうか。

一方の母親も父親の暴言を止めないでおどおどしているだけで、歩く不作為責任みたいな人物です。

たぶん、夫に嫌われないことに必死で、オータムを守ることは二の次なのでしょう。

日常生活の中で、他にもさまざまな場面で譲歩を強いられているでしょうし、セックスパートナーとしても対等ではないのでは。

そしてオータムは、誰も自分を本気で守ってくれる人がいないなかで、自分の体を本気で大切にしようとは思えなかったのではないか、と想像がつきます。

だって周りからこんなふうに扱われる自分なんだから、親にすら守られない存在なんだから、と感じてしまって当然です。

どれだけ「誰もがありのままの存在を認められてしかるべき」というスローガンを聞いたところで、実際自分がそう扱われた経験がなければ信じられません。

こんなの理不尽だ、と思うことがあっても、周りからの扱いが自己評価を決めていく側面があるのは否めませんから。

そうして定まった自己評価が、「自分を犠牲にしないとそばにいてもらえない」という思考回路に結び付くのは容易です。

だから、関係を持ちたいとか、避妊したくないという相手の意志が、自分勝手なものであっても拒むことができない。

理不尽な暴力に遭ったとしても、自分がこんな目に遭わされていいはずがない、と自衛することも難しい。

社会の端々にすりこまれた学習性無力感に、オータムが絡めとられていったことの想像がつきます。

 

カウンセリング

多くのレビューで取り上げられているのが、オータムがカウンセリングを受ける場面です。

ニューヨークの支援センターに辿りついた彼女は、診察を受けたうえで、中絶手術を受けたい意志が変わらないことを伝えます。

地元クリニックで告げられたより週数が進んでいたため、日帰り手術が難しく、当初より滞在日数が伸びてしまうことに。

これらの説明をしてくれたカウンセラーから、妊娠の経緯や、現在の状況を聞き取るための短いやり取りが行われます。

長回しで撮影されたこの場面は、劇中でもっとも緊張が高まる、鬼気迫るシーンです。

今までに性的パートナーは何人いたか、相手は彼女以外にも性的パートナーがいたか、意図的に妊娠させてやろうと関係を持たされたことはあるか、相手は避妊を拒んだことがあるか。

後半の質問には、Never, Rarely, Sometimes, Always(一度もない、めったにない、時々、いつも)の四つの選択肢の中から答えるよう促されます。

これは、辛い経緯を持つ人につぶさに語らせることで、セカンドレイプになってしまうことを防ぐためらしいです。

意図の通り、オータムは詳しく妊娠の背景を語ることはありませんが、ぽつぽつと答える中でも、次第に感情があふれだす表情が見られます。

それは辛いことがフラッシュバックしたからだけではなく、「あなたが安全な状況にいるか確認するための質問なの」だと言われて、「自分がいたのは安全な場所じゃなかった」と気づいたためかもしれません。

若い人には、自分が最も無防備になる瞬間に、自分の安全を第一に考えていいんだと知ってほしいです。

それ以前に、言うことを聞かないと嫌われるとか、自分を守ったら煙たがられると思う必要がない世の中になってほしい。

カウンセラーが言う「どんな選択でもいい。それがあなた自身の決めたことなのであれば」というセリフの通り、自分の身体について自分で決められるということが、難しい状況にある人もいます。

そして、この映画にはまともな男性が一人も出てきませんが、オータムたちには世の中そんな人ばかりじゃないことも知ってほしいです。

少女期にこんな体験をしたら対等に扱ってくれる男性が実在するなんて、信じられないかもしれません。

でも、信じていないと出会えるもんも出会えないので、なんとか頑張ってほしいです。

ニューヨークという舞台

ニューヨークに行ったことがない人がこれを見たら、変態だらけの荒んだ街だと思っても無理はない……

バスターミナルの案内員のそっけない対応も、コミケとかフェス的な無邪気な理由で訪れた先なら、「ニューヨークの人間にはほんとに血が通ってないのかと思ったぜ笑」くらいの笑い話になったと思うのですが。

でも状況が状況なだけに、着いていきなり心を挫かれるようなカットになってました。

ニューヨークは民主党州(いわゆるブルー・ステート)なのでリベラルが強く、だからこそ中絶に関わるサポートなんかも先進的です。

その反面、何万人もの人々がひしめき合うように暮らしていて、その中で自分の居場所を確保するのは難しい。

すれ違う人は数えきれないほどいても、温かい目線を向けてくれる人はどれだけいるのか、本当に心が通う人はどれだけいるのか。

そういう都会ならではの心細さが伝わってくるカットが多かった気がします。

でも、その寂し気な大都会で、オータムは初めて心に寄り添ってもらうケアを受けることができました。

中絶について、決断を否定せずサポートしてくれ、手術前日の処置にも付き添ってくれるカウンセラー。

スカイラーがバス代と引き換えに触られているとき、オータムがそっと手をつないだのは、心細い時に「ひとりじゃない」と教えてもらえることの重要さを知ったからなのではないかと感じました。

 

おわりに

非常に中身の濃い作品だったので、長いレビューになりました。

すでに数々の賞を受賞していますが、できればもっと獲ってさらにたくさんの人に見てほしい作品です。

米国ではいかなる理由でも中絶を禁止する州が出てくるなど、リベラル州とは逆行する動きも見られます。

いっぽう日本でも、いまだに中絶も流産後の処置も、母体への負担が大きい掻把手術しか認められないなど、女性の身体を守る仕組みが熟考されているとは言えません。

さまざまな議論について、考えるきっかけになる映画でした。