映画『おおかみこどもの雨と雪』
細田守監督のアニメ映画のレビューです。
ファンタジーと家族ドラマの融合を、北陸の美しい自然とともに綴る秀作です。
ネタバレでお送りします。
あらすじ
東京都下の国立大学に通う花は、ある日ひょんなことから《おおかみおとこ》の彼と出会い、恋に落ちる。
結婚した二人の間には、長女の雪と、長男の雨が生まれ、ささやかながら幸せな家族生活を送っていた。
しかし、雨が物心つく前に、彼は亡くなってしまう。
いつ狼に変身するかわからない《おおかみこども》の雨と雪を、懸命に子育てする花だが、やがて都内の生活に限界を覚えるようになる。
二人の子どもがのびのびと、人として狼としての生き方を模索できるよう、山あいの田舎に引っ越した花。
新たな環境で花が奮闘するかたわら、《おおかみこども》たちもそれぞれに目覚ましい成長を遂げていく。
実在の風景とのつながり
見たことがある人なら必ずわかる光景が、アニメの中に違和感なく切り取られています。
田舎に引っ越したあとの山並みも、北陸の風景を美しく切り取っていて、映画の世界と現実をつなぐ意欲を感じます。
観たい風景を現実から好き放題切り貼りするんじゃなく、あくまで現地世界を投影しながら進んでいきます。
その誠実さが、子育てに翻弄される花の暮らしの描写にも表れていて、ファンタジーでありながらリアリティも感じられる作品でした。
子育てという日常を非日常に
本作では一家の日常場面を通じて、こどもの急病、破壊活動、日本語の通じなさなど、親業をやってる人が直面してる現実がさりげなく描かれています。
生活感ある苦労を描きつつも、おおかみこどもだからこその悩みに見せることによって、ほどよい非日常感と現実感を両立しています。
ファンタジーの醍醐味ってこういうところだな……とちょっと感動する鮮やかさとさりげなさです。
現実には、子育てしてる人が主人公になれる物語なんてそうそうないし、だから映画やドラマでもあまり描写されないのかもしれません。
でもファンタジーを取り込むことで、それを全部解決してしまったわけです。
主人公の描き方
もう一つ驚かされたのは、本を読んで独学でなんでも学び、次々と課題を解決する花の逞しさです。
雪と雨がのびのび遊ぶことも、オオカミこどもらしい振る舞いをすることも難しかった東京での生活。
厳しい風当たりを逃れて来た田舎は、かえって一人では生きていけない世界ではあるけど、花の神がかり的コミュニケーション能力でそれも解決します。
田舎の自然ってなめてかかると本当に生存が危うくなるし、物理的に「人は一人じゃ生きられない」世界だけど、逃げずに描写してたところが良かったと思います。
そして、雪と雨が何をやっても怒らないし、どんなことからも守る覚悟がある花、本当にすごい。
親ってこんな超人じゃなきゃなれないのか……と遠い目もしたくなるけど笑、親子愛ものが好きじゃない自分でも花を応援したくなった。
成長する雪と雨
小さい頃は、雪が野生児、雨が大人しかったのに、大きくなって逆の道を選んだのは運命のいたずらですね。
小さな生きものだった子どもたちが、一人の人間として意志を持ち始める過程がリアルに描かれていました。
天真爛漫に生きていた女の子が、ある日「あれ?」と思って社会に適応し始めるのはあるある。
雨が自然のなかで生きることに目覚めるきっかけは、(明示されてはいたものの)正直よくわからないところもありますが。
そして、姉弟二人のぶつかり合いもまた、あるあるです。
子どもの頃は、決断を裏付ける経験がないからこそ、「これが正しいの!」ってバトルせずにいられない気持ちを思い出しました。
大人になると、そう思う人もいれば、そうじゃない人もいる、って思えるようになるんですけどね。
最後はめちゃくちゃ切なくて、全員の幸せを祈らずにいられません。
おわりに
子育てと親離れをファンタジーのなかで描く、不思議な作品でした。
実際は花みたいに神様のような親っていないと思うのですが笑、きっとこんな人がいたら子どもは楽しいのかなと思います。
映画『17歳の瞳に映る世界』
ある少女の中絶手術の経緯を負った、ロードムービーのレビューを書きました。
過剰な演出はなく、多くを語らない淡々とした構成ながら、観終わったあともずっと考えこんでしまうタイプの映画です。
男女問わず、多くの方に観ていただきたいです。
遠慮なくネタバレしてますのでご注意ください。
あらすじ
米国ペンシルベニア州に住む17歳のオータムは、ある日、望まない妊娠をしてしまったことに気付く。
出産を考えることのできない彼女が中絶手術の方法を調べると、州内では親の同意なしに施術が受けられないとわかる。
自分の意志で手術を受けるには、ニューヨーク州まで行くしかない。
従姉で友人のスカイラーとともに、お金も知識も充分でないままニューヨークに降り立つオータム。
高速バスで移動し、ホテルに泊まることもなく、大都会をさまよう二人。
オータムは手術前のカウンセリングで、初めて妊娠の経緯の一端を吐露することとなる。
オータムと妊娠
トップシーンは高校の舞台でのパフォーマンスです。
グループでのダンスやバンド演奏をする生徒たちの後、一人でギター弾き語りを披露するオータム。
歌詞では、ベストなことではないとわかっていながら、好きな人の言うがまま、望むがままに行動してしまう自分への歯がゆさが表現されています。
この歌詞はオータムの(特に異性との)人間関係の築き方を象徴するものでしょう。
最初に言ってしまうと、オータムの妊娠の経緯は、劇中で具体的に語られることはありません。
相手が誰なのか、どうして関係を持ったのか、なぜ避妊しなかったのかはわからないままです。
ただ、歌詞を筆頭に暗示されるオータムの異性との関わり方や、彼女を取り巻く男性たちの振る舞い、カウンセリングのやり取りなどで、彼女の置かれた環境が示唆されていきます(それだけでも充分に痛々しい……)。
彼女の住まいはペンシルベニア州の中でも田舎にあるようで、多様な選択肢が取れるとは言えません。
妊娠のことは母親にすら打ち明けず、地元の婦人科医しか知らないまま、数週間を過ごすオータム。
中絶の意志を打ち明けると、中絶反対派の作成したビデオを見せられたり、つわりの辛さも誰にも言えず、心身の辛さが募っていきます。
やるせなさの中で、自分の手でピアスを空けたり(一種の自傷行為)、痣ができるまで自分の腹部を殴ったりと、痛々しいシーンが続きます。
いとこのスカイラーの存在
オータムの唯一の味方と言える存在が、同い年のいとこで友人のスカイラーです。
彼女がなぜ、ニューヨークまで中絶の旅についてきてくれるのか、という説得力は、バイト先の光景やバスでのナンパが補強しています。
オータムほどの窮地に追い込まれてはいなくても、相手の気持ちや立場になんのリスペクトもないセクハラや下心には、彼女も常に晒されているし、目撃しているからです。
舞台上のオータムをメス犬と罵る同級生や、娘(継娘?)であるオータムへの父の冷淡な言動、売上手渡しの時に必ずキスをしてくるバイト先の店長など。
だから、「無責任な男の犠牲になってひとりで苦しむのは理不尽だ」という感覚を持ってくれたのかもしれません。
責任のとれない行為をともにしてしまったはずの相手は、何の代償も負わない一方、オータムだけが心身の負担を負わされるという状況ですから。
ただ、十七歳の二人にはまだ経済力も、法律の知識も、自分を守る手練手管もありません。
受けている不当な扱いも「そんなもん」だと思ってしまってるのか、すでに無視された経験があるのか、スカイラーもオータムも、他の大人に訴えようとしません。
そんな二人が、どうにかニューヨークの数日間をサバイバルして、手術を終えることのしんどさが静かに映されていきます。
バスでナンパしてきた若者も、本当にスカイラーのことに興味があるわけではなく、可愛い女の子と楽しい思いがしたいだけ。
でも、自分で稼いだお金で自分の面倒を見られるわけでもなく、身を守る知識もない彼女たちは、そんな相手にすら世話にならざるを得ません。
スポンサードリンク
オータムを取り巻く男性たち
なんの過失もない望んだ妊娠であっても、検診で異常がなくても、出産時の事故で亡くなる可能性はゼロではありません。
なので究極を言えば、その人のために死んでも悔いはないという相手としか、妊娠の可能性があることはしない方が良いのでしょう。
でも、オータムがそういう考えを持てる環境にいなかったのはよくわかります。
彼女の父親は、娘であるオータムどころか、パートナーである母親にもまったく敬意を払っていません。
世界で唯一の相手ですら「そんなもん」として扱う人間が最も身近にいて、どうやったらお互い尊重しあえるパートナーに想像が及ぶでしょうか。
一方の母親も父親の暴言を止めないでおどおどしているだけで、歩く不作為責任みたいな人物です。
たぶん、夫に嫌われないことに必死で、オータムを守ることは二の次なのでしょう。
日常生活の中で、他にもさまざまな場面で譲歩を強いられているでしょうし、セックスパートナーとしても対等ではないのでは。
そしてオータムは、誰も自分を本気で守ってくれる人がいないなかで、自分の体を本気で大切にしようとは思えなかったのではないか、と想像がつきます。
だって周りからこんなふうに扱われる自分なんだから、親にすら守られない存在なんだから、と感じてしまって当然です。
どれだけ「誰もがありのままの存在を認められてしかるべき」というスローガンを聞いたところで、実際自分がそう扱われた経験がなければ信じられません。
こんなの理不尽だ、と思うことがあっても、周りからの扱いが自己評価を決めていく側面があるのは否めませんから。
そうして定まった自己評価が、「自分を犠牲にしないとそばにいてもらえない」という思考回路に結び付くのは容易です。
だから、関係を持ちたいとか、避妊したくないという相手の意志が、自分勝手なものであっても拒むことができない。
理不尽な暴力に遭ったとしても、自分がこんな目に遭わされていいはずがない、と自衛することも難しい。
社会の端々にすりこまれた学習性無力感に、オータムが絡めとられていったことの想像がつきます。
カウンセリング
多くのレビューで取り上げられているのが、オータムがカウンセリングを受ける場面です。
ニューヨークの支援センターに辿りついた彼女は、診察を受けたうえで、中絶手術を受けたい意志が変わらないことを伝えます。
地元クリニックで告げられたより週数が進んでいたため、日帰り手術が難しく、当初より滞在日数が伸びてしまうことに。
これらの説明をしてくれたカウンセラーから、妊娠の経緯や、現在の状況を聞き取るための短いやり取りが行われます。
長回しで撮影されたこの場面は、劇中でもっとも緊張が高まる、鬼気迫るシーンです。
今までに性的パートナーは何人いたか、相手は彼女以外にも性的パートナーがいたか、意図的に妊娠させてやろうと関係を持たされたことはあるか、相手は避妊を拒んだことがあるか。
後半の質問には、Never, Rarely, Sometimes, Always(一度もない、めったにない、時々、いつも)の四つの選択肢の中から答えるよう促されます。
これは、辛い経緯を持つ人につぶさに語らせることで、セカンドレイプになってしまうことを防ぐためらしいです。
意図の通り、オータムは詳しく妊娠の背景を語ることはありませんが、ぽつぽつと答える中でも、次第に感情があふれだす表情が見られます。
それは辛いことがフラッシュバックしたからだけではなく、「あなたが安全な状況にいるか確認するための質問なの」だと言われて、「自分がいたのは安全な場所じゃなかった」と気づいたためかもしれません。
若い人には、自分が最も無防備になる瞬間に、自分の安全を第一に考えていいんだと知ってほしいです。
それ以前に、言うことを聞かないと嫌われるとか、自分を守ったら煙たがられると思う必要がない世の中になってほしい。
カウンセラーが言う「どんな選択でもいい。それがあなた自身の決めたことなのであれば」というセリフの通り、自分の身体について自分で決められるということが、難しい状況にある人もいます。
そして、この映画にはまともな男性が一人も出てきませんが、オータムたちには世の中そんな人ばかりじゃないことも知ってほしいです。
少女期にこんな体験をしたら対等に扱ってくれる男性が実在するなんて、信じられないかもしれません。
でも、信じていないと出会えるもんも出会えないので、なんとか頑張ってほしいです。
ニューヨークという舞台
ニューヨークに行ったことがない人がこれを見たら、変態だらけの荒んだ街だと思っても無理はない……
バスターミナルの案内員のそっけない対応も、コミケとかフェス的な無邪気な理由で訪れた先なら、「ニューヨークの人間にはほんとに血が通ってないのかと思ったぜ笑」くらいの笑い話になったと思うのですが。
でも状況が状況なだけに、着いていきなり心を挫かれるようなカットになってました。
ニューヨークは民主党州(いわゆるブルー・ステート)なのでリベラルが強く、だからこそ中絶に関わるサポートなんかも先進的です。
その反面、何万人もの人々がひしめき合うように暮らしていて、その中で自分の居場所を確保するのは難しい。
すれ違う人は数えきれないほどいても、温かい目線を向けてくれる人はどれだけいるのか、本当に心が通う人はどれだけいるのか。
そういう都会ならではの心細さが伝わってくるカットが多かった気がします。
でも、その寂し気な大都会で、オータムは初めて心に寄り添ってもらうケアを受けることができました。
中絶について、決断を否定せずサポートしてくれ、手術前日の処置にも付き添ってくれるカウンセラー。
スカイラーがバス代と引き換えに触られているとき、オータムがそっと手をつないだのは、心細い時に「ひとりじゃない」と教えてもらえることの重要さを知ったからなのではないかと感じました。
おわりに
非常に中身の濃い作品だったので、長いレビューになりました。
すでに数々の賞を受賞していますが、できればもっと獲ってさらにたくさんの人に見てほしい作品です。
米国ではいかなる理由でも中絶を禁止する州が出てくるなど、リベラル州とは逆行する動きも見られます。
いっぽう日本でも、いまだに中絶も流産後の処置も、母体への負担が大きい掻把手術しか認められないなど、女性の身体を守る仕組みが熟考されているとは言えません。
さまざまな議論について、考えるきっかけになる映画でした。
映画『モスクワは涙を信じない』
人生初ロシア映画のレビューです。
ソビエト連邦時代の1980年に製作され、アカデミー賞外国語映画賞を受賞した作品です。
タイトルはロシアのことわざだそうですが、冷たそうな響きと裏腹に、とても温かい映画でした!
ネタバレでお送りします。
あらすじ
1950年代のモスクワで、工場で働きながら学位を取得しようと勉強を続ける女性エカテリーナ(カーチャ)。
同じ下宿に住む同世代の女友達と、豊かで充実した未来を夢見ていた。
しかし、上流階級のふりをして仲を深めたテレビマンのルドルフと関係を持った結果、妊娠してしまう。
工場労働者だと知られた途端、ルドルフに見捨てられ、カーチャはひとりで子どもを育てることになる。
学業、仕事、子育てを必死で両立するうちに20年の時が経ち、カーチャはかつて思いもしなかった人生を辿っていく。
ある女性の人生
ストーリーは、カーチャが20代を過ごす1950年代の第一部と、40代を過ごす1970年代の第二部に分かれています。
前半は静かで淡々としてて正直ちょっと退屈にも感じてしまうのですが、第二部でゴーシャが登場してからの輝き方が素晴らしい。
若い頃の、幸せを求めつつも五里霧中な感覚が、振り返ってみれば、捉え所のない前半に投影されているのかもしれません。
カーチャたちは皆、若者らしく未来に希望を抱く明るさに満ち溢れています。
「恋するなら王子様 賭けるなら大きく」というセリフが象徴的です。
一方で、いいとこのお嬢さんのふりをしてみたり、求められたら応じてしまったり、迷走する感じも若者ならでは。
しかし、自分もまだ道半ばだから偉そうなこと言えないのですが、始まりの二十年ちょっとじゃ人生がどうなるかはわからない。
何でこんなに辛いんじゃーと思っても、もがいてるうちに得るものがあるかもしれないし、平気だよねと思ってても躓くことがあるかもしれない(実際、スタンダードな結婚をした友人のひとりが破局を迎えていたり、人生は序盤じゃ何も読めないなあと思う展開が多いです)。
その前半あってこその、後半の輝きだと感じます。
上映時間が三時間以上の対策なのですが、語っている年月が長いゆえに、必要な長さだと思いました。
迷いを断ってくれるもの
40代に突入したカーチャは、美しい少女に成長した娘アレクサンドラと二人暮らし。
工場長に就任して、キャリアも順調です。
余談ですが、東ドイツや中国でも、女性管理職は当たり前にいたみたいなので、東側社会のほうが仕事と子育ての両立や男女の機会平等は進んでいたようですね。
しかし恋愛では迷走が続いているようで、既婚者の男性と不倫関係にあります。
彼の家で二人で過ごしていると、本妻が帰宅してしまい、あられもない姿で隠れるよう言われ、さすがに現状に疑問を覚えた様子。
しかし彼女に一目ぼれし、一途に追い続ける男性ゴーシャに出会った途端、すべてが輝きだし、ストーリーの牽引力が高まります。
迷走時期が長かったことについても、カーチャはこの人に巡り会うために待ってたんだ!と思えました。
愛は全部を贖う強さを持っていると実感させる人物です。
カーチャもゴーシャの思いを受け入れ、やがてアレクサンドラもまじえた、平穏だけど満ち足りた人間関係が作られていきます。
ゴーシャは結構古典的な考えの持ち主で、男は家族を守るべく強くなければならない、男は女より稼いでいなければならない、という考えの持ち主。
だからこその責任感の強さで、カーチャのみならずアレクサンドラも支えようとします。
娘時代に下宿で一緒だった女友達も、人生の紆余曲折をそれぞれに辿っていますが、友情は続いていて、カーチャたちを応援してくれます。
雨降って地固まるとき
しかし、やっと訪れた幸せが不意に揺さぶられます。
工場長のカーチャを取材にやってきたルドルフが、アレクサンドラに会いたいと言い出したためです。
乗り気でないカーチャを無視して、ゴーシャとアレクサンドラと三人の団欒に押しかけてきたルドルフ。
そして、再会のきっかけをルドルフから聞いたゴーシャは、カーチャが高給取りであることも知ってしまいます。
女性より稼いでいなければならない、という自らの理想が崩れてしまい、混乱したゴーシャはカーチャの前から去ってしまいます。
「一体どうなってしまうんだ……?」と思うのですが、ここで昔からの女友達が集結して一緒に知恵を絞ってくれるんですね。
「彼を探し出さなきゃ」とカーチャを励ます友人が、「モスクワは涙を信じないわ」と口にします。
泣いていてもどうにもならないから行動するべき、という意味のことわざなんですね。
パッと聞いただけだと「モスクワってやっぱ厳しいんだ……おそロシア……」と思ってしまいますが、こんな温かい文脈で出てくるとは。笑
最後は友人の一人、アントニーナの恋人がゴーシャを探し出し、説得に当たってくれます。
酔っぱらってわけわかんなくなりつつも思いをぶつけあっている男たち、何かもうコミカルなんですが温かい。笑
何やかんや八日ぶりに戻ってきてくれたゴーシャに、カーチャが万感の思いで「待ったのよ」と呟く場面は静かな余韻を残します。
直近の失踪のことだと思ったゴーシャに「八日か」と訊かれ、「もっと長いあいだ」と答えるカーチャの笑顔は本当に幸せそう。
本作を観るまで、ロシア映画の感性ってたぶん西欧と違うだろうな、という先入観を持っていました。
でもそんなことは全くなくて、普段見ているヨーロッパ映画とメッセージの内容は近く、とても温かい映画でした。
本当の愛は一生をかけてでも探し出す価値がある、みたいな主張はすごく馴染みがあるし、「でも探さなきゃ手に入らないから行動しろ!」というのもタイトルが語っています。
映像作品として
ソビエト時代のロシアには、何となく薄暗いイメージがありましたが、ふたを開けてみたら画面の隅々までお洒落でした。
カーチャの衣装が徹頭徹尾美しかったし、内装や街並みも、旧東側の色彩センスの最上を切り取りましたという印象。
むしろ、西側にはない色彩感覚が独特で、画面を眺めるのが楽しかったです。
衣装から小道具まで、おしゃれなものを見つけるのに休む間がない。笑
そして、カーチャたちが休日を楽しみに出かけるダーチャや、ゴーシャに連れられて行った自然の風景なども印象的でした。
雪深い風景ばかり思い浮かべてしまいますが、現地に住む人だからこそ知っている美しいショットを切り取って詰め込んだ作品でした。
おわりに
カーチャの人生には若かりし頃から本当に色々なことがありました。
でも40代になってみれば、娘は聡明な少女に成長し、がむしゃらに頑張ってきた仕事で報われ、ゴーシャに出会うことができ、それを見守ってくれる女友達との絆が続いている。
物語のメインのラインは、ゴーシャに出会うまでの恋愛の紆余曲折かもしれませんが、同じくらい女友達とのつながりも印象に残っています。
二十代、三十代で人生のステージが移ろっていくにつれ、親しかった友達といつの間にか疎遠になるのはよくあること。
でも、各人が平坦ではない道のりを経験しながらも、カーチャのピンチには集合して一緒に知恵を絞っている場面に、ひっそり感動してしまいました。
モスクワだろうとどこであろうと、こんな人間関係が築ける人は幸せだな、と素直に思います。
知らない世界を共感で結びつけてくれる、映画の醍醐味を久々に味わいました。
ロシア映画ってどんなん?と新鮮な気持ちでご覧いただきたい作品です。
映画『灰とダイヤモンド』
第二次世界大戦終戦を迎えたポーランドで、激動の歴史の一場面を切り取った映画をご紹介します。
ポーランドの黒澤明ともいうべき、アンジェイ・ワイダ監督の作品です。
ネタバレでご紹介します。
あらすじ
レジスタンスの若者マチェクは、社会主義陣営の幹部殺害の任務を遂行する。
しかし、人違いで罪のない労働者を殺してしまったと判明する。
反ナチスの闘いをともにしてきたアンジェイと飲みかわし、終戦を境に社会主義に取り込まれるポーランドを思ううち、マチェクは闘争から逃れたいと口にする。
恋に落ちた女性と逃げ出し、新しい人生を送りたいというマチェクを、アンジェイは説得しようとする。
映画の背景
終戦後、西側諸国となった国々では、第二次世界大戦の終わり=平和な時代の到来でした。
しかし、ポーランドにとっては残念ながらそうではありません。
終戦と同時に、ソ連からの抑圧を受けつつ社会主義経済を営んでいくことになります。
戦争中から、ポーランドのレジスタンスは東西陣営に分かれていて、西側諸国派のレジスタンスと、ソビエト連邦派のレジスタンスがいたそうです。
戦争自体は終わっても、国が西側になるか東側になるかをかけて、テロが続いていました。
主人公マチェクは西側レジスタンスの一員で、社会主義に呑まれそうになる祖国を守ろうと闘う若者です。
本作は、揺れ動いていた時期のポーランドを、風刺的象徴的に切り取った名作映画です。
ポーランドの歴史に詳しい人もいるかと思いますが、そうでない私のような人は、YouTubeにある町山さんの解説を視聴前後に観るのがおすすめです。
同じワイダ監督の『カティンの森』は観ていたし、独ソ分割占領など少しの周辺知識はあったのですが、それだけでは本作の事情がよくわからないのです。
マチェクやアンジェイが西側勢力を支持していて、幹部のシャチューカが東側、ということはわかりますが、それ以外にも様々な立場の人が出てきます。
息をひそめて時代を受け入れるしかない人、本心ではないながら東側に追従して心の平衡を失う人、自由な社会ではブルジョワだったけれど社会主義のもとでは地位を失う人など。
それぞれの横顔を詰め込んだ、メッセージの濃い作品となっています。
検閲対策
この映画は、戦争が終わったあとの、社会主義体制下のポーランドで制作されています。
そのため検閲の手を免れないので、発禁とならないよう工夫を凝らしております。
というのも、ポーランドが終戦後、社会主義体制になるのを止めようとした若者が主人公だからです。
幹部を暗殺しようとし、社会主義を批判する奴が主人公なんてけしからん、となりそうなところですが、なぜ公開できたかというと、おそらくマチェクが夢破れて亡くなるからと言われています。
中盤までは、検閲対策で色々ぼかしていることもあり、「一体どこへ向かう話なんだろう」と思わせます。
実はマチェクが主人公だということがことさらに強調されておらず、誰がメインなのかすら最初は曖昧に感じます。
が、終盤の強烈な余韻で一気にまとめにかかっている感じです。
ラストシーンの虚無感や徒労感のインパクトは、キャリア初期にしてすでにワイダ監督自身にしかできない表現を確立していると言えます。
ポーランドの分断
第二次世界大戦中のポーランドは、東部をソビエト連邦、西部をドイツに占領されていました。
分断・占領され、一度は失われたポーランドが、終戦と同時に戻ってくるはず。
しかし現実には、上流階級は戦勝ムードに浸っているものの、マチェクたちはまだ血で血を洗うテロに身を投じています。
ブルジョワたちも、終盤で踊る場面では皆凍りついたような無表情。
東側に吸収され、自分たちが地位を失う変化を見据えているかのようです。
つまるところ、終戦と同時に新たな苦悩がはじまるポーランドの横顔を切り取ったような映画と言えます。
ワルシャワ蜂起も闘ったマチェクは、辛い闘争が続いても希望が見えない生活に嫌気がさし、恋を知って「普通の幸せ」を望むようになります。
愛を知ることが、闘争の勝敗や成否の対立軸を一掃するほどのインパクトを与えてしまったわけです。
この時代を、この国を救うためにと闘ってきたマチェクですが、そんなものを超えて命を支えてくれる力を知った途端、価値観が揺らぎ始めます。
時代に逆らえなくても、あるいは乗れなくても、目の前にいる人と通じ合えることで幸せになれることを知ってしまった苦悩が丁寧に描かれていました。
人違いで殺された若者の婚約者が泣いてたことの意味も、この時ようやく分かったんじゃないでしょうか。
隅々まで雄弁な映像
解説映像を見てわかったのですが、セリフで語られない要素にも様々な意味がこめられています。
ある場面で映り込む白い馬がキリスト教における不吉の象徴だったり、ホテル従業員が国旗を片付ける場面に、消えゆくポーランドの運命が重ねられていたり。
そして、シャチューカがアメリカ製のタバコを吸い、マチェクがハンガリー製を吸うのは、一服して心を紐解く瞬間には所属する陣営も関係ない(オフの場面では分かり合えるかもしれない)ことの示唆かもしれません。
また、途中バーで『黒い瞳』が流れてるなあ、と思ったら、後半の展開がまるで歌詞を辿るようで驚きました。
その他の音楽にも意味があって、映像だけでなく音楽も雄弁な映画です。
おわりに
ポーランドが辿った苦難の歴史の一端を垣間見られる秀作です。
本作はアンジェイ・ワイダ監督の『抵抗』三部作と呼ばれるシリーズの一つ。
他の二作はまだ視聴していないので、今後ぜひ挑戦したいと思います。
本作は、戦後ポーランドの揺れ動く時代を写し取った名作として、ぜひたくさんの方にご覧いただきたい一作です。
ドラマ『ハウス・オブ・カード 野望の階段』2
ドラマ『ハウス・オブ・カード』のレビュー第二弾です!
前回はシーズン3までの内容を中心に書きましたので、今回はシーズン4からシーズン6(最終シーズン)をネタバレでご紹介します。
あらすじ
副大統領職のポジションから、さらに大統領職へと王手をかけたフランク。
選挙を経ずに大統領となった彼が、いよいよ大統領選に挑む時期がやって来る。
党の指名争いを経ての、共和党擁立候補ウィル・コンウェイとの一騎打ち、クレアとの絆の揺らぎに対峙するフランク。
さらに、手段を選ばず敵を蹴落とし、味方を利用してきたフランクを、これまで負ってきたつけを払わせるかたちで次々に危機が襲う。
自由世界で最高の権力を維持することはできるのか――物語は、誰も予想しなかった結末を迎える。
シーズン4
今までで最も泥沼度の高いシーズン。
つまり一番面白かったです笑
民主党内での大統領候補指名獲得、まさかの副大統領巻き込み、共和党候補のコンウェイとの暗闘など、魅力的なアトラクションが詰まっています。
クレアとの絆が揺らぐ中で、フランクが銃撃を受け命の危機にさらされる展開は、シーズン4のみならず全体を通してのハイライト。
手術で一命をとりとめるものの、危機的状況は変わらず、肝臓移植を受けなければ数日以内に死亡すると宣告されます。
序盤から展開が大盤振る舞いすぎない?と言いたくなりますが、終盤ではさらに畳み掛けるようにイベントが大発生。
次のシーズンがめちゃくちゃ気になる終わり方です。
始めと終わりに比べたら穏やかな中盤も、ちゃんとこの先への不吉な予感とか後半の怒涛の展開への下地になっていました。
これまでのシーズンでフランクの足蹴にされてきた人たちも、ただの噛ませ役ではなく、それぞれの運命を辿りながら逞しく再登場。
一人一人が辿る変遷やキャラクターにリアリティがあって、本当に骨太な脚本だな……と思わせます。
大統領選を控えたアメリカの状況と重なったのもあって、個人的に盛り上がりました。
ちょうどスーパーチューズデーの少し前に見ていたので。
シーズン5
大統領選に向けてバキバキの緊張感で突き進むシーズン4がすごく面白かったぶん、若干停滞します。
これはもうある程度仕方ないですね。
前半は、スピードとしては落ち着いてくるものの、マークやデイヴィスと言った新しい人物が存在感を増してくる。
そして、シーズン4で「これヤバくない?」と言いつつ始めた作戦が切羽詰まってくきます。
後半は新たなレジームで新たな火種を残して終わる。
このあとワンシーズンでどう解決するんだ、と茫然としました笑
強欲で非情で「金より権力」とか言っちゃうし、知り合いにいたら絶対関わらないようにするはずのタイプの主人公を、ここまで特に嫌いにならないのは、主演俳優と脚本力のなせる技です。
事実はドラマより奇なりというか、スーパーチューズデーで激突して結果はグダる展開が、2020年大統領選の混沌を予言したかのよう。
しかしコンウェイは、大統領やるには少しメンタル繊細すぎる気がします。
軍務中のPTSDで、という伏線がこの形で活きてくるとは。
マークとデイヴィスが怪しすぎて、この二人が誰なのか、どういう関係なのかがこの先の鍵になりそうです。
割とまっとうに働いてたリアンやセスが恋しくなりました。。。
シーズン6
カメラ目線で視聴者に語りかける役を、クレアやダグが継承してて嬉しい。
ただ他の方もみんな書いてる通り、ケヴィン・スペイシーの許されざる降板により、ストーリーが完全なる不完全燃焼になっています。残念。
急に出てきたシェパード兄妹が噛ませ役感が漂ううえに、彼らとの闘争もこれというカタルシスを迎えないまま終わりました。
相変わらず映像のクオリティは高いので、そこは安心して没入できますが。
今作は、MeToo運動とケヴィン・スペイシーの過去の悪行を受けた、問いに答えるパートとして見るべきシーズンでしょう。
つねに性暴力の危険にさらされて生きてきても、母親からすら「美しい娘は自分の美に責任を持つ」と突き放されたクレア。
幼少期にも、若年期にも暴力に見舞われた彼女は、自らの女性性を前面に押し出し、大統領になってから寄せられるミソジニックな脅迫にも、徹底して立ち向かいます。
それだけでなく、職務においても強いメッセージを発信。
閣僚全員を女性にして組閣したり、「ミソジニスト(女性嫌悪主義)の反対語を知ってる? 知らないのは誰も使わないから」(ミサンドリストと言います)と部下たちに演説したり。
やりすぎじゃない?という感想を持つ人もいると思います。
しかし、「閣僚全員女性」なら驚く人は多いですが、全員男性なら驚く人はあまり多くないのではないでしょうか。
現代の先進国なら、「あれ? 女性ひとりもいない?」と思うくらいでしょう。
全員男性なら対して驚かない、というか、十年前、二十年前の世界なら当たり前だし、何なら日本は今でもそれに近い状態。
女性権力者が暴走してると「これだから……」と思うけど、男性権力者が暴走しても「絶対的な権力は絶対的に腐敗するから」としか思わないなとか。
そうした、自分の中にある偏見に気づかせてくれる面がありました。
ストーリーは、シーズン5と6のあいだに死去したフランクの死の謎、死後もまといつく彼の悪事の影、シェパード兄妹との闘争を中心に進みます。
そういう意味ではまだフランクの影が濃いのですが、回想シーンなどはなく、音声すら登場させないという徹底的排除でした。
おわりに
政治サスペンスというジャンルを初めて視聴しましたが、一話一話が濃くてものすごい密度でした。
元ネタは実は英国の物語らしいのですが、そちらもいつか観てみたいです。
社会を作り、運営する政治の仕組みを、人間が握っていることの危うさを、ドラマチックに描き出した作品です。
「野望の階段」という副題がこれほど似合う作品もないですね。
頭脳明晰だけど善人ではない主人公が活躍する知的なパワーゲーム、ぜひ多くのかたにご覧いただきたいです。
スポンサードリンク
映画『新聞記者』
実在の事件をモチーフに、政治とメディアの在り方を描いた邦画をご紹介します。
緊張感のある脚本と映像に、目が離せないまま終わる作品です。
いつも通りネタバレします。
あらすじ
ジャーナリストの父が、誤報を伝えたことを苦に自殺した過去を持つ新聞記者・吉岡エリカ。
厳しい報道姿勢から、記者クラブや社内で異端視されていた彼女の部署に、ある日大学新設計画に関わる極秘文書が届く。
吉岡は、政権に近い立場の人物からの告発とみて調査を開始する。
そんななか、計画に携わっていたとみられる官僚・神崎が突然投身自殺を遂げる。
調査と取材のなかで吉岡は、神崎のかつての部下・杉原拓海に接近するが……
現実社会の投影
トップシーンで前川喜平と望月記者が出てくる時点でドキッとしますね。
御存じの方も多いと思いますが、本作は森友学園・加計学園問題を下地としたストーリーとなっています。
大学新設の土地購入に関し、不透明な手続きがなされた疑惑があり、それに加担させられたと思しき関係者が自らの命を絶つ。
現実の事件と緊密に絡み合った脚本が、どこをどう読んでもメディアや行政機関のあり方を考えさせます。
貴重な国会の期間を使って何をダラダラやってるんだ、と冷笑的に見ていた人も多いトピックを、その事件のために命を絶った人、亡くなった人の無念を晴らしたい部下、真実を知りたい記者の動きを軸に描き出していきます。
大学の件だけじゃなく、もう一つ取り上げられていた事件も、杉浦の子どもが娘というところに効果的に結びついていました(本当は性別関係なく被害に遭いうる事件ではありますが)。
不透明な許認可手続きも、刑事事件への介入も、杉原が担うネット上の印象操作も、「国民に仕えるはずの政権が行政組織を私物化していいのか」というメッセージに沿って切り取られています。
国という組織
組織のあり方については、正直官公庁と関わる仕事をしたことがある人には「さもありなん」と思わせるリアリティがあります。
毎年の辞令や、誰が誰の下で働いていたか、どんな部署でどんな昇進をしたか、相互に四六時中関心を注いでいる様子はその一つです。
物やサービスを売って売上を確保して、という仕事ではないため、どうしても、組織として何を成し遂げたかより、内部の人間関係に注意が向くのでしょう。
加えて、杉原のいる内閣府をはじめとした国家行政の仕事は、優秀な人でなければできない仕事ではありますが、転職なんかはつぶしが利くか微妙なところ。
同業他社ってものがほぼないので、別に仕事が見つかっても同じやりがいや待遇を得られるかは厳しいと思われます。
だから一層、内部の人間関係で失点をして、出世ルートが絶たれることは致命傷になってしまう。
その現実を生きる杉原が、「でも自分は、社会のために働きたくてこの仕事についたはずなのに」と葛藤する場面が多かったです。
雇われて働いていれば誰しも「俺いま何してんねやろ……」と遠い目をしたくなった経験はあるでしょう。
しかし、国家公務員は理想と現実のギャップがひときわえげつなさそうで、絶対自分には務まらないなと感じます。
執務室暗すぎるし……(目が悪くなりそう)
しかもあんな良い家、公務員叩きの激しい昨今、少なくとも官舎じゃありえない気がしてしまいました。
メディアの在り方について
神崎の葬儀に押し掛けたマスコミが、遺族に「今のお気持ちは?」と迫る場面で、吉岡は「それって、今聞かなきゃいけないこと?」 と投げかけます。
とにかくセンセーショナルなもの、人の耳目を引くものばかりを報じたいあまり、取材対象への配慮や、社会に必要な情報を掘り下げることをやめている業界体質への、本質的な問いかけと言えるでしょう。
いっぽうで、社会の仕組みの根幹が揺るがされようとしているとのニュースは、なかなか取り扱うことができない。
スポンサーや行政が嫌な顔をするかもしれないし、何なら露骨に圧力がかかることもあるかもしれません。
ネガティブで影響が大きなニュースであればあるほど、スポンサーや行政への影響も大きい。
そうした資金力・権力のある関係者に関わるニュースこそ、社会的余波のある重要な情報だったりします。
しかし、広告主や行政にとって都合のいい情報だけを流し、社会のための情報が発信できないのであれば、報道機関の仕事とは言えない。
官民の大組織の広報機関となってしまう。
そうしたメッセージが見受けられます。
大学の謎
ネタバレしてしまうと、大学新設の背景には軍事研究を行いたい国の思惑がありました。
生物兵器の研究を実現する場として大学を新設しようとした、と明らかになります。
これに関しては、終盤で脚本が大きくフィクション側に触れたな、という印象がありました。
というのも、原子力発電政策すら自分で決められず、アメリカさんの意向が関わる日本で、生物兵器の研究なんぞできるのか?という問いが不可避だからです。
しかも生物兵器や化学兵器は条約で使用が禁止されているため、アメリカだろうとロシアだろうと使用は許されません。
そんなものを日本で作ってどうするの?という疑問がまずあります。
目下戦争の見込みがない日本で、自衛隊がそれを使用する機会があるとは考えにくい。
じゃあお世話になってる米軍で使うのか?とも思いましたが、米国とのつながりは特にない。
むしろ、日本に731部隊を蘇らせるようなこと、国内どうこうよりアメリカさんが許さないのでは。
個人的にはここで若干トンデモ感を覚えてしまい、できればもう少し現実感のある着地点にして欲しかった。
大きな事業を始める場合、地元関係者、ひいては議員に協力を仰ぐ、ということ自体は、昔から行われてきたことだと思います。
実際問題として、地元の代表者である議員に筋を通すことは、必要な側面もあるかと。
しかし、一足飛びに国政トップと懇意にしたら、国への許認可が厚遇される、というのは確かに公正性に問題があると言えるでしょう。
コネクションなしに、正規ルートで一生懸命書類をそろえて許認可申請している人に、どう説明するのか、と言われれば答えはないはずです。
そうした本筋の議論のなかにストーリーを留め、大学新設の真意を過度にセンセーショナルなものにする必要はなかったのではないか、という感想です。
おわりに
終盤で若干違和感はあったものの、行政やマスメディアのありかたについて考えさせる作品です。
現実の事件をトレースしていることで、観ている人の注意を否応なく引きます。
どこまで現実で、どこからフィクションか、冷静に切り分けたうえで沢山の人に観て、考えるきっかけにしていただきたい映画でした。
映画『セントラル・ステーション』
人生で初めて観たブラジル映画のレビューです。
ヒューマンドラマでありながら、ブラジルという国の多様性と自然の雄大さを伝える映像にも圧倒される作品でした。
かなりネタバレしてます。
あらすじ
リオデジャネイロで暮らす中年女性ドーラは、字の書けない人々のために手紙を書く代書屋。
毎日セントラル・ステーションに出向き、恋人や家族への手紙の代筆料金を取るものの、書いた手紙は出さずに切手代をせしめていた。
そんなある日、ドーラに元夫への手紙を頼んだ女性が目の前で交通事故に巻き込まれる。
亡くなった彼女の幼い息子を、見かねて家に連れて行くドーラ。
自身で養うことはできないため、養子縁組の斡旋業者に引き渡すが、間もなく業者が臓器売買の取引人だと気づく。
極悪ではないが善良でもない主人公
冒頭で映し出されるリオデジャネイロの駅の光景は、都会らしい喧騒と混乱に満ち溢れています。
多くの人が行きかう駅で、数多の人生の悲喜こもごもも繰り返されていく。
ドーラはそんな大都会で淡々と人生を送るひとりの女性です。
家族はなく、おしゃべりに付き合ってくれる女友達以外、仲のいい人もいない模様。
郵送する約束で代筆した手紙をちゃんと出さないし、警察官に追われた少年がその場で射殺されても、顔色一つ変えない。
都会の淀みに埋没しながら生きていくうちに、物事の善悪や正義感に感情を左右されることをやめてしまった人だとわかります。
多分、もとからそうだったわけではないでしょう。
けれど、自分一人が一喜一憂しても、善人が死に悪人が生きる、弱肉強食の世を変えられるわけもない、という諦念が見えるような表情です。
だったら、自分だって生きるために多少汚いことをしても良いでしょ、という自己弁護もあるかもしれません。
善人とは言えない主人公ドーラですが、ジョズエを引き渡した業者が人身売買の仲買人だと知り、さすがに動揺します。
ジョズエを紹介して受け取ったお金でテレビを買ってしまい、返金と引き換えに彼を返してもらうことはできない。
けれど、罪のない男の子が悪人に殺されるのを見過ごせるほど、良心を忘れてしまったわけでもない。
一か八かで、ドーラはジョズエ奪還を試み、何とか彼を連れ出すことに成功。
しかし、リオにいては捕まってしまうので、離婚して離れ離れになったジョズエの父親を探す旅に出ます。
踏んだり蹴ったりの旅
ジョズエの亡き母親が出そうとした手紙の住所をもとに、旅をするドーラ。
もともとドーラとジョズエのあいだに信頼はないし、自分をどこかへやろうとしたドーラに対しジョズエの態度は険悪。
もう無理!と思ったドーラは、ジョズエにお金だけ渡してあとは一人で旅させようとします。
しかし、ドーラがいないと気付いたジョズエがバスを降りてしまい、しかもお金はバスに置いてきてしまったりします。
その後も、ヒッチハイクで助けてくれたトラック運転手と良いムードになるものの、ドーラが積極的になった途端に振られてしまったり。
送金を頼んだ女友達が宛先の支店名を間違えていて受け取りができなかったり。
とにかくトラブルばかり続き、最後は文無し状態に追い込まれます。
そんな中、大人数が集まる祭りの広場ではぐれてしまうドーラとジョズエ。
旅の序盤ではみずからジョズエと離れようとしたドーラですが、今度は必死にジョズエを探します。
踏んだり蹴ったりであっても、時間を分かち合い、ここまで一緒に旅したジョズエとの不思議な絆が芽生えているとわかるシーン。
以前は、ドーラといるためにバスを降りてきたのはジョズエのほうで、ドーラはそのことに憤慨していました。
でも今度は、なんとかジョズエを見つけたドーラが、安堵した表情を見せます。
旅は道連れのなし崩しであっても、最後に寄り添う相手がいるのはいいな、と思わされました。
共同作業
旅を続けるために、というか最早生きるために、お金を稼ぐ必要に迫られたドーラとジョズエ。
ここでドーラの本領発揮というか、ふたたび町の広場で代書屋をすることに決めます。
ジョズエが呼び込みをして、さまざまな人への手紙の代筆を請け負い、今度はちゃんと出発前に投函。
考えてみると自然な流れではあるのですが、前述の踏んだり蹴ったりの過程をこえての発想の転換にちょっと感動します。
ふたりで商売をするドーラとジョズエの息の合った連携、稼いだお金で市場で買い物する場面など、何気ないやり取りに関係の深化が窺えます。
そして、ドーラが今度は手紙をきちんと出すところに彼女の成長を感じました。
本当に追い詰められた時に、何とかジョズエに再会でき、曲がりなりにも続けてきた仕事にも救われたドーラ。
もうだめだ、と思ったときに、見えないものに助けられたドーラは、自分も誰かに何かを返したいと思えたのではないでしょうか。
たくさんの人が、大人になる途中で少しずつ経験したであろう感情を、掘り起こしてくれる感じがしました。
旅の終わりとドーラの成長
ジョズエの父親の住所に行ってもここにはいないと言われ、ようやく辿り着いた田舎でも、ジョズエは父に会うことはできませんでした。
しかし、母親違いの二人の兄に会います。
穏やかで温かい彼らの人格を知り、この兄さんたちとならジョズエは幸せになれると確信するドーラ。
字の読めない彼らが大事に持っていた父親からの手紙を、代わりに読んであげます。
そして、三人が眠っている間にひそかに一人だけ街を出ます。
ジョズエと稼いだお金で買ったワンピースを着て、普段化粧をしない彼女が口紅をつけて長距離バスに乗ります。
本作の演出には終始わざとらしさがなく、笑いも涙も露骨に誘う場面はありません。
というより、抑えすぎなくらい抑えめです。
まるで観客に、殺生当たり前の大都会で麻痺したドーラの感情の鈍さを、追体験させるかのよう。
だけど、その分ラストシーンでドーラと一緒に泣いてしまう。
自分を励ますように笑っている顔が切なかったし、口紅とワンピースも、自分を鼓舞するためのおしゃれだったのでしょう。
特別な装いをするからには、恥ずかしい出発は許されないんだという。
大人と子どものバディものロードムービーは、『ペーパー・ムーン』『都会のアリス』『パリ、テキサス』など色々あります。
しかし個人的には、本作が一番、大人側の成長と変化を感じられました。
軽微な詐欺ともいえる仕事をしていたドーラが、人として真っ当さを取り戻す。
それだけでなく、封じ込めていた感情も取り戻す過程が印象的でした。
映像作品として
最初に目にするのは、名前だけはよく聞く都会リオデジャネイロですが、その後は聞いたこともない地名が続々と登場します。
ブラジルに関する予備知識ゼロで見たのですが、雄大な景色(荒涼とした砂漠や、広大な山並み)、見たこともない祭りの景色、人種民族の多様性などを、随所で切り取っています。
さまざまなルーツの人々が暮らすなかで、カトリックが広く息づいていることが何となく感じ取れます。
ジョズエがお兄さんたちと出会う街も、ほんっとに何もないだだっ広い砂漠のなかに、まったく同じ家を何軒も建てている不思議な光景。
国際映画祭で、ブラジルという国をプレゼンする意図も少しだけあった作品かなと思ったりします。
おわりに
抑えめの感情描写ながら、「悪い大人にも心がある」ことを教えてくれる作品でした。
わかりやすく泣かせに来る映画ではないのですが、それがかえって余韻を残します。
ジョズエもドーラも、この後の人生でどうか幸せを見つけてほしい、と願ってしまうラストでした。