映画『ハンナ・アーレント』
ドイツ映画のレビューを掲載します。
20世紀を代表する哲学者ハンナ・アーレントを主人公とした映画です。
あらすじ
戦時中にナチスが支配するドイツやフランスから逃れ、亡命先のアメリカで暮らしていたハンナ・アーレントの元にニュースが舞い込む。
ナチスの重要戦犯として追われていたアイヒマンがついに発見され、イスラエルで裁判を受けることになったという。
自らもユダヤ人であり、ナチスに迫害された経験のあるアーレントは、裁判を傍聴するためエルサレムに赴く。
しかし、裁かれているアイヒマンはユダヤ人殲滅に燃えた極悪人でも、異常な愛国者でもなく、ただ目の前の仕事をこなしただけのくたびれた官僚だった。
また、ユダヤ人社会で権威ある地位にいた人たちがナチスに協力していたことも裁判の証言で明らかになる。
アーレントは裁判に関する論説をニューヨーカー誌に掲載する。
アイヒマンは凡庸な役人であったという内容や、ユダヤ人指導者のナチへの協力への指摘は、「アーレントがアイヒマンを擁護した」「被害者であるユダヤ人を非難した」という世論の感情的な反発を招く。
凡庸な役人アイヒマン
この映画では、エルサレムでアイヒマンが裁判にかけられた時の、実際の白黒映像が一部使われています。
強制収容所に収容されていたユダヤ人の証言、ナチスに協力したユダヤ人コミュニティの重要人物の証言、そしてアイヒマン自身の証言。
アーレントと同じく、アイヒマンの証言を聞いて驚いた人は少なくないでしょう。
彼の証言は徹頭徹尾お役所回答に終始するためです。
「この記録の管轄は私の部署ではありません」
「私は手を下してません」
「何しろ戦時中の混乱期でしたから」
「皆思いました“上に逆らったって状況は変わらない”、“抵抗したところでどうせ成功しない”と」
「仕方なかったんです」
アイヒマンは「業務命令だったからやった」だけで、そこに彼自身の意思は全く関係なかったと言います。
念頭にあったのは任務を着実に遂行することだけで、その結果が誰にどのような影響を及ぼすか、それが自らの良心に照らして正しいことかどうかは別問題であった。
自分の中に義務と良心の両極があったが、組織人として取るべき答えが義務の遂行であるのは当然だったと言う趣旨です。
しかし、ユダヤ人虐殺はアイヒマン個人の犯した犯罪ではない、というアーレントの指摘はエルサレムの仲間たちの反発を招きます。
「悪人じゃないなら何であんなことしたんだ」と感じるのは当然です。
アイヒマンの行動の結果として、故郷を追われ、身の安全が脅かされ、忘れられない苦しみを負い、命まで落とした人が多数いたわけですから。
それなのに「アイヒマンにはそんなつもりなかった」と言われても納得できるはずがない。
ニューヨークに戻ってもアーレントは友人から、アイヒマンが普通の人間なわけないと反論されます。
しかし彼女は、自らの考察に手を加えることなくニューヨーカー誌に論説を発表し、大論争を引き起こします。
クライマックス
彼女がアイヒマン裁判を聴衆の前で論じる場面が映画のクライマックスとなります。
「中身を読みもしないで非難している人は相手にしなくともよい」と考えていたアーレントでしたが、自分の言葉で立ち向かうべきとの友人の後押しを受けて考え直します。
そして、大学の教室で、アイヒマンは極悪人ではなく普通の人間であったということの意味を、理路整然と語ります。
アイヒマンを擁護したとの非難は、講義冒頭の台詞をもって明確に否定されます。
世界最大の悪はごく平凡な人間が行う悪です。
そんな人には動機もなく、信念も邪心も悪魔的な意図もない。
人間であることを拒絶した者なのです。
ヒトラーが史上類を見ない大犯罪を犯した指導者であったことは疑いがありません。
しかし、特定の民族グループに属する何百万人もの人間を殺すと言うことは、彼一人の手では行えません。
ヒトラーに従う巨大な組織があったからなし得たことであり、その組織の中には多数の官僚が存在していました。
その大勢の官僚が全員ユダヤ人絶滅の意思に燃えた悪人だったか。
少なくともアイヒマンはそうではなく、命じられたから従った、平凡な役人でした。
アイヒマンは自らの良心に問いかけたり、自分の言葉で思考することをやめた=人間であることを拒絶した者でした。
ナチスに協力してしまったユダヤ人権威者たちも、考えることを放棄し、モラルを捨ててしまった点においてはアイヒマンと同じ罪を犯していたと言えるかもしれません。
全体主義と悪
組織は個人がなしえないことも達成しえます。
組織の力は個人の力より大きいので、だからこそ組織が悪事を働かないようにする必要がある。
組織が誤った方向に進まないようにする方法としては、個人の良心がそれを押し留めたり、あるいは悪事を働けないようにするルールを設ける等があります。
しかし、そのいずれも機能しなくなるのが全体主義体制です。
個人のすべては全体(組織や体制)に従属すべきとされるため、個人の良心で組織の悪事を押し留める術がありません。
全体主義体制の下ではしばしば一党独裁制や言論統制が行われ、全体で行う悪を取り締まるルールを定めることもできません。
ナチ政権下では、ナチ党の圧倒的な支配力のもと、その思想に反する者は弾圧されていたし、もちろんユダヤ人の人権を守るためのルールなど存在しません。
ユダヤ人を迫害する法律が次々に作られ、それらの起草、承認、施行はいずれも阻止されませんでした。
アーレントは終盤と別の講義の中で「もし全体主義がなかったら、我々は根源的な悪など絶対に経験しなかった」と解説しています。
民族差別主義的な人や思想は、きっとこれからの時代にも存在するに違いない。
けれど、その残虐な意図を組織的に実行するには全体主義体制と、多数の、考えることを止めた官僚が必要です。
ナチスのユダヤ人虐殺や、ユーゴスラヴィア内戦について調べる時にいつも抱いていた「なぜ隣人は隣人を殺してしまったのか」という問いについて、答えの一端が得られたと思います(全部じゃないです。特にユーゴ内戦については)。
思考を放棄しさえすれば、人間は平凡な役人でありながらにして残酷な悪を実行することができる。
おわりに
自分はこの映画を理解するためにドイツ語勉強したんだ!と思うくらい、ナチスの犯罪に対して鋭く客観的な洞察を得ることができる映画でした。
特に終盤の講義の8分間は圧巻です。
主演のバルバラ・スコヴァの迫力と知的さがなければ、この映画は作れなかったでしょう。
難しくとっつきにくいテーマを扱った映画ではありますが、少しでもたくさんの方に観てほしい作品です。
アーレントの著書『エルサレムのアイヒマン』や『全体主義の起源』も今後読破したいと思いました。