映画『万引き家族』4
ついに最後の人物、祥太のことを書く記事がやって参りました。
めちゃくちゃ長くなりました。。。
これまでの記事はこちらです。
祥太
祥太はりんがやってくるより前から、信代と治に育てられていた男の子です。
二人とは血は繋がっていません。
たぶん十歳くらいで、住民票の関係からか学校には行かず、どこからか拾ってきた国語の教科書を熱心に読んでいます。
治が「学校は自分で勉強できない奴が行くところ」と教えていたからです。
でも、何となく学校や他の子どもに興味を持っているのは察せられます。
ここが後半の展開に結びつく、彼の重要な特徴と言えます。
疑似家族の理念をある程度納得して加わったであろう亜紀と違い、祥太は物心つく前に信代と治によって家族に入れられました。
そして、りんよりは周りのことを理解できる年齢になっていますから、初枝の死がなくとも自分の環境に疑問を抱き始めたであろう気配があります。
祥太は治から教えてもらった万引きで、家族の生計を支えるのに一役買っていますが、だんだんと盗みをすることの意味について悩み始めました。
万引きの常連だった駄菓子屋さんで、ある日店主のおじさんから「妹にはやらすなよ」と言われたことがきっかけです。
万引きのせいで駄菓子屋さんが潰れたと思った(実際は店主が亡くなり閉店した)ことが悩みに拍車をかけます。
信代に、店のものは誰のものなのか訊いて、「まだ誰のものでもない(から盗っていい)」と言われても、もちろん納得できません。
お金を払ってものを買う理由も、
万引きは人にばれないようにしないといけない理由も、
「妹にはやらすなよ」と言われた理由も、
信代の答えでは説明できていないからです。
治も車上荒らしの意味を訊かれてうまく答えられていません。
切ないけど、この流れが説明していることは、信代や治の一つの限界と言えます。
親から学べなかったことも、子どもは社会から学んでいく。
とくに祥太は賢い子なので、大人のご都合主義の言葉なのか、本当に彼を思って出てきた言葉なのか、直感的に察知している。
治も信代も人並みの煩悩を持つふつうの人間だと理解してしまった経験も、祥太と外の世界を引きつける力を補強しています。
序盤では、りんがやってきて万引きの手引きを受けることに対し「何で慣れてない小さな女の子と一緒にやらなきゃいけないの」と不満に思う子どもらしさもありましたが、後半は俄然、自分の意思を持ち、今まで見えていなかった親の人間的な部分が見えてきてしまう、子どもから少年への成長が見て取れます。
りんを庇うために目立つ逃げ方をしてしまうところなんか、りんへの向き合い方が序盤と全然違います。
逃げた時の怪我で入院した彼を置いて、親たちが夜逃げしようとした行動との対比が切ないです。
話を少し戻すと、親から学べなかったことを学ぶために、普通の社会で暮らしていくために、祥太は保護された警察で、これから学校に行くことを告げられます。
「学校は自分で勉強できない奴が行くところ」と信じていた祥太から、「学校でなければできないことってなに?」と訊かれた刑事は「『出会い』かな」と答えます。
この男性刑事、スクリーンに登場する時間は短いのですが、高良健吾さんがそれはそれは素晴らしく演じてらっしゃいます。
祥太に向かってそう答える時の顔が優しくて優しくて感動しました。
答えている内容もこれ以上ないほど的確です。
たぶん祥太は、家族という小さな世界ではわからなかったことを、学校を始めとした外の世界で学んでいく。
駄菓子屋のおじさんはもういないし、この刑事に会うことも恐らくもうないけれど、祥太はこれからもいろんな人から少しずつ学びを得ていく。
家族に限らず、小さな世界でできる成長には限界があるからこそ、学校や何かをきっかけに広い世界へ行くことに意味があるんだと思います。
(祥太と背景は全然違うけど)家族から学べなかった大切なことを学校その他の社会からたくさん教えてもらった一人としては、高良さんの台詞がとくに印象的でした。
実際、家族の離散後、しばらくして治と会った祥太は逞しく成長して、友達もできたみたいです。
治たちが彼を置いて逃げたと聞かされた祥太は、治に何も言うことなく施設に帰るバスに乗ります。
治は発車したバスを祥太の名を呼びながら追いかけ、祥太はその姿をずっと見つめていますが、バスを降りたり、泣いたりはしません。
別れるべき時が来たこと、自分は外の世界へ行く準備ができていることを、どこかで理解していたからでしょう。
祥太とは本来、治の本名なんだと刑事が指摘していました。
治は、おそらくは愛情に恵まれなかった小さな頃の自分を、同じ名前の子どもに愛情を注ぐことで自ら育て直していたのかもしれません。
そのことにもし治が深く癒されていたとしたら、祥太との別離は眠っていた小さな頃の寂しさを思い起こさせるものだったかもしれません。
子どもたちのその後
この映画を観て間もないころ、家族が離散したあとの亜紀や祥太やりんのことを考えてこんなツイートをしていました。
はすっぱだったり学がなかったり犯罪してたり、決して理想の家族じゃないのになぜか温かい家。ただ、寂しい大人たちに付き合わされつつも救われていた亜紀、祥太、ゆりはこれから一体どこへ行けば良いのか、やり切れない余韻が残った。
— kleinenina (@kleinenina77) 2018年7月8日
しかし、いつも悲しい映画も感動する映画もほぼ百発百中泣くのに、この映画では泣かなかったなと思って少し考えが変わりました。
泣かなかったのは寂しい子どもがいなかったからです。
亜紀や祥太やりんは、少なくともこの家族にいる間は守られていて、心理的支えがあります。
だからこの子たちは、血の繋がった相手でないけれども、家族から(誰かの身代わりや、親の人生の敗者復活戦としてでなく)自分自身として愛されたことがあります。
とくに亜紀は4番さんからも自分自身を必要とされた気持ちをもらえています。
よく言われる自己肯定感や自尊心は、自分自身を見てもらえたこと、愛されたことで築かれるなら、この3人はきっと「自分を愛してくれる人は確かにいる」「ある場所で会うことができなくても、世界のどこかには絶対いる」という気持ちを今後も持つことができるのではないでしょうか。
そうした気持ちで広い世界へ出ていくことができれば、安心できる友人やパートナーや家族をもうけることはきっとできます。
だから、あの家族は離散してしまったけれど、3人のなかに「愛された記憶」という大切なよりどころを残していったと思えてきました。
それは理屈を超えて心の奥で、これから3人の人生を支え続けるんじゃないかと感じます。
亜紀には、彼女と向き合ってくれるパートナーに巡り合って自分を大事にしながら生きて欲しいです。
離散後に家を見に来ていたし、初枝の隠し事にショックを受けていたので、立ち直るまでには少し時間がかかるかもしれませんが。
祥太も、万引きの習慣や非就学など、イレギュラーな幼少期を消化しつつ、たくさんの人と満ち足りた人間関係を築けたらいいですね。
友達いっぱいできそうだし、優しいし賢いから大きくなったらモテそうだし、これから大変だとは思うけど心配なさそうです。
一番心配なのはりんです。
親元に戻されてしまったりんは、再び虐待を受けながら生活することになってしまいました。
しかしりんは、自分を本当に大切にしてくれる人の存在を知ったので、身勝手で情緒不安定な母親に縋り付くことはもうありません。
自分を好きでいてくれる人はどんな風に接してくれるものか、体験として知っているからです。
だから、自分を愛してるならするはずのない行動を繰り返す人たち相手に、「良い子にすれば愛してくれるかも」と儚い期待を持ちつづけることはないでしょう。
すぐに経済的に自立できるならそれで万事解決ですが、りんはまだ親の養育なしに生きていくことはできません。
子どもの感情に寄り添う気持ちがないのに、自分は子どもにとって唯一最愛の親でなければ嫌、という歪んだ親もいます。
そうした人は、冷たくしたあと、暴言を吐いたあとに子どもが泣いて追い縋ってくる様子を見て、自分の優位を確かめます。
また、ストレス発散の八つ当たりをする相手がいなくなるのは嫌という思考回路の可能性もあります。
りんの両親がそういうタイプかはわかりませんが、もしそうだったら簡単に彼女を手放したりしないでしょう。
しかし、りんがいなくなっても何ヶ月も警察に届けなかった両親ですから、まだ希望があるかもしれません。
声に出して呼んで
この映画のタイトル候補には万引き家族のほか、『声に出して呼んで』というものがあったそうです。
振り返ってみると、
お母さんと呼ばれたかった信代、
吃音で思うように話せない4番さんから(さやかであれ亜紀であれ)名前を呼ばれたことのない亜紀、
お父さんと呼ばれたかった治、
追いかけてくる治にバスの中で何かを呟いた祥太、
放置された屋外で何かを呼ぼうとしたりん、
など、それぞれこのフレーズに当てはまりそうな場面が目に浮かびます。初枝だけわからないけど…。
戸籍上の名前や、法律上の関係性ではなく、普段交わす言葉や行動だけによって家族関係を作っていた彼らには、これもぴったりのタイトルだったかもしれません。
しかし、わかりやすさや初見の人への訴求力のために『万引き家族』に落ち着いたと予測します。
結果としてタイトルのわかりやすさも多くの人に見てもらえることに貢献したなら何よりですね。
家族や、人の心を支える愛は何かということについて考えるのに、これほど重厚な問いを持った映画はないと思うからです。
家族の持続可能性
大人も子どもも帰る場所になっていた疑似家族、
実の家族にはない愛情を得られた柴田家ですが、物語の終わりに離散します。
面会に来た祥太に信代が、祥太を誘拐した時のことを話していました。
パチンコ屋の駐車場で、車内に放置されていた祥太を連れ去ったこと、その車のナンバー、会おうと思えば車のナンバーを辿って実の両親に会えることを伝えます。
その場にいて、戸惑っていた治に「私たちじゃダメなんだよ」とすっきりした表情で言い切ります。
確かに、死体遺棄のみならず、りんや祥太の連れ去りが明るみに出たときから、家族の離散は避けられないことでした。
信代や治が祥太を守ることはもうできません。
だから信代は祥太がこれからの人生で自分の実の家族を知りたいと思った時に、せめて邪魔はしたくないと思ったのでしょう。
血の繋がりや法律上の家族は、イコール安心できる居場所を意味しない。
しかし、血縁や法律で繋がっていなくても、愛情や信頼で繋がることはできる一方で、
長期的に、誰からも何からも守りたい家族がいるなら法律の力を味方にすることは必要となる。
そうした法律的・心理的家族のかたちについて、大人が責任を負えなければ、子どもたちが安心できる居場所を持ち続けることはできない。
この現実的な状況を克明に切り取ったのがこの映画だと言えます。
本作は血や法律を徹底的に関係なくしたところでの愛や信頼を描いていますが、同時に現実世界で生きていくために法の支配の文脈を受け入れる必要も無視しません。
家族の心の機微を描く有機的な目線と同時に、冷静なバランス感覚が窺えました。
大人が家族のかたちに責任を持つというのは、何も一人一人の親個々人に限った義務ではないと思います。
一つでも多くの家族が健全な繋がりを築き、一人でも寂しい子ども、寂しい大人が生まれないようにするためには、何をしたらいいのか。
それを問い続けるという責任が、どんな大人に対しても存在すると考えます。
おわりに
感情を刺激されて泣いたり感動したりというより、じっくり考え込むのをいつまでもやめられなかった作品です。
最も感情を動かされた場面を挙げるとすれば、家族で音だけの花火大会を楽しんだり、海へ出かけて遊んだりするところでしょうか。
小さい頃花火大会や海に行った思い出がなかったので、単純にとても羨ましかったし、なんて温かい家族なんだろうと感銘を受けてました。
そして、大人になってからの人生で一緒に海にも花火にも出かけてくれる家族や友人に会えたことの幸せをじわじわ噛み締めてました。
お金と時間をかけて、損得なしに誰かと出かける理由って、単純に「その人と過ごしたいから」ですよね。
映画の展開上も重要なシーンだったと思います。
祥太が言っていた通り、一人では生きていけない人間でも、誰かと一緒にいて強くなれることはいくらでもあります。
一緒にいたいと思えて、一緒にいれば強く生きていける人に会えたら、その人生はとても幸せだと思います。
有機的でありながら論理的で、真摯に家族とは何かを問いかけた映画でした。家族について考えたいとき、是非お勧めしたい映画です。