本と映画と時々語学

書評、映画評など書き綴りたいと思います。

映画『スペシャリスト/自覚なき殺戮者』

 ナチスの戦犯の裁判を記録したドキュメンタリー映画のレビューです。

どっしり重い内容ですので、心が疲れている時には避けた方がいいものの、もっと日本で内容が知られてほしい映像作品だと思ったのでご紹介します。

いつも通りネタバレでお送りします。

 

 

あらすじ 

戦後にアルゼンチンで逮捕されたナチス政権の重要人物アイヒマンが、エルサレムに移送され裁判にかけられる。

検事はユダヤ民族全体にアイヒマンが及ぼした殺戮の実態を暴き、彼を断罪しようとする。

しかしアイヒマンは、自分はただ職務に忠実だっただけであり、ユダヤ人を死滅させようとしたわけではないと繰り返す。

彼は移送のプロではあったが、移送先で何が起こるかについては彼の職域ではないというのがその主張であった。

 

エルサレムで裁判が行われたため大半がヘブライ語ですが、時折ドイツ語や英語、フランス語など様々な言語が入ります。

被告アイヒマンがドイツ語話者であるうえ、証人の出身国や裁判当時の居住国がドイツ、フランス、オランダ、ハンガリーなど多岐にわたるためです。

ユダヤの人々がヨーロッパ中に散らばって生きてきたこと、そしてナチスによるユダヤ人迫害がいかに広範囲にわたって行われたかを象徴しています。

 

裁判の流れ

検事は、ユダヤ人迫害によっていかに多くの人間が悲惨な経験をせざるを得なかったかを訴えるため、数々の証人を呼んでいます。

検事や判事の質問に答えて次々に個人的体験を語っていく生残者たちですが、弁護人は質問をしません。

アイヒマンの弁護など求められていないのでしょう。

もし弁護するとしても困難を極めるとは思いますが。

移送や迫害の残酷さを強調しようとする検事に、やがて判事から、裁判の趣旨と違うとの指摘が入ります。

 その後は、アイヒマンの「ユダヤ人の組織的移送は被告個人の責任で行なえた行為ではない」という主張を否定していく作業に入ります。

ナチス政権下の組織体制に基づき、アイヒマンがどの程度の決定権限を持ち、何を自分の意思で行なったかについて問いを続けます。

 

悪の陳腐さ

このドキュメンタリー映画は、哲学者ハンナ・アーレントによるアイヒマン裁判の考察に基づいて、350時間分の記録映像を再構成して製作されました。

アーレントは下記の映画で、「自分は上司の命令に従っただけであり、殺戮は自分の意思ではない」と繰り返すアイヒマンを見て「彼は官僚である(Er ist Bürokrat.)」と言い、凡庸な人間によって悪が実施されたことを指摘しています。

 

 

ハンナ・アーレント』を観た時にも、アイヒマンのお役所回答が、日本生まれ日本育ちの私にあまりに見覚えがあることに寒気がしましたが、今回その感覚がますます補強されることになりました。

どの業務がどの部局の管轄なのか、ある命令を発する権限を誰が持っているのか、後半の問答の大半はナチスの内部統制が取り上げられます。

アイヒマンは自分に大した権限はなかったと繰り返します。

 ユダヤ人問題に関わり始めた当初は理想を持っていたが、自分の案が上司に全て却下されたのをきっかけにやる気を失い、その後はひたすら上からの命令に従うだけになった。

状況を変えようと試みたとしても、決定権限のない自分には何もできなかった。

日本中のどこのサラリーマンや公務員が言っていても違和感のない台詞です。

組織の中で働くのであれば、決定権限に従って業務処理をし、ルールに従うのは必要なことです。

しかし、ルールそのものが人道に背くものだったとき、「全体の方針に従うこと」が絶対である全体主義の元では、個人の力で反人道的な行いを止めることは極度に難しくなります。

 

ドイツの戦後教育

ドイツの学校に通う子を持つ日本人の方から又聞きした話です。

ドイツの戦後教育は「これが正しい」「上を重んじよ」と言い聞かせていた戦前教育を反省し、戦後は「正しいか正しくないか、自分の頭で批判的に考えて見きわめよ」とする方向に変わったそうです。

「〇〇が正しい」と言い聞かせていたのを「××が正しい」へと内容を変えるだけでは意味がない、思考回路そのものを変えていく必要がある、と全体主義の反省から学んだうえでの結論と思われます。

日本においてはまだ、組織のために個人をすり減らしてもまかり通る例があるように思います。

それが良くも悪くも社会や文化を支えてきた面があることは否定しません。

しかし、ずっとそのままでは、組織や集団が間違った方向にあると思ったとき、取りうる手段はその場所から抜けることしかなくなってしまうのではないでしょうか。

 

おわりに

人間が目の前の仕事をこなすことしか考えなくなった時に何が起こるのか、ということをシビアに突きつけられる映画だと思いました。

アイヒマンが、直接人を殺さなくてもいい部署にいて安堵していたことが、下記の台詞からも窺えます。

人は気も狂わんばかりの状況に陥ることがあります
そこからほんの一歩でよく考えもせず銃を手にしてしまう
その後どう行動するかは個人次第です
ひょっとすれば私だってそうしたかもしれません
殺戮を命じられていたら自殺していたかもしれません

彼は上司の指示に従い、移送のダイヤを組んだだけ。

彼は「自分の手や意思で人を殺したわけではないから無罪」という考えだったが故に、下記のような発言ができたのでしょう。

私に責任があるとは思えません
なぜ私がこの件で罪を負わされるのですか?

 

反面、戦後アルゼンチンに身を隠していたのは自分が裁かれる身だと自覚していたからにほかなりません。

目の前の仕事をしていただけだから責められる立場にないと言って逃げ切れないことは、おそらく自分で承知していたのだと思います。

 

自身のなかの官僚的思考を反省するのには最適な映画でした。

 アイヒマン裁判で何があったのか、詳細に興味がある方には是非見ていただきたいです。

 

  

 

  

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