映画『西の魔女が死んだ』
同名の児童小説を原作とした邦画。
派手なことは何も起こらないけれど、主人公の心が静かに再生していくなかで観る側の心も洗われていくような作品です。
あらすじ
不登校になったクオーターの少女・まいは、中学校を休むことを決め、母に連れられて祖母の家に行く。まいはイギリス人の祖母と自然豊かな家で暮らすなかで、傷ついた不安定な心を癒やしていく。
また、祖母が魔女だと教えられたまいは、自らも魔女になりたいと願って祖母の指導のもと魔女修行に勤しむことになる。
西の魔女について
山の自然の風景が美しいのと、おばあちゃんもといサチ・パーカーの美しい日本語に心が洗われるような作品でした。
思春期の少女の家族として、教育者として、いつかこのおばあちゃんのような人間になれたらいいなと思います。
まあ娘どころか配偶者もいないんですけど。
信念があって、愛に溢れていて、それを上手に言葉や行動にして伝える大切さを知っている。
強い信念を持っていたり、相手に高い期待を抱いていると、言葉や態度が厳しくなりがちな人は多いけれど、このおばあちゃんにはそれがありませんでした。
もちろんそれは、祖母と孫という距離感だからこそ保てる関係かも知れません。
終盤でまいの母(おばあちゃんの娘)と話しているときは少し厳しい態度でした。
「考えなければわかりませんか」なんて、きっとまいには言わないでしょう。
主人公まいについて
まいの父母は、都会的で少しドライな雰囲気を持っているけど、おばあちゃんや郵便屋さんとの距離感はもっと近いです。
表層的な人間関係に倦み疲れたまいには丁度いい場所だったのでしょう。
感受性が強くて、頭の良すぎるまいにとって同世代の小さな社会は居心地悪かったかもしれない。
けれど、自分の思いを丁寧に聞いて受け止めてくれる人と過ごせたことで、正論や正義では上手くいかないことのある外の世界にもう一度戻っていく自信を身につけます。
元々気骨があって、はっきりとした自分の考えを持っているので、スタートがうまくいけばきっと順調に成長していけるでしょう。
新しい場所では、本当に分かり合える友達を見つけられるといいですね。
キリスト教的世界観、悩みと成長
おばあちゃんとまいは、鶏小屋が動物に荒らされて鶏が死んでしまった時、死について語り合います。
死とは魂が体を離れて自由になることだと、おばあちゃんは言います。
痛みや苦しみを感じる体を離れると、魂は自由になれる。
それを聞いたまいは率直な思いをおばあちゃんにぶつけます。
「だったら、身体なんか要らない。
何だか、苦しむために身体ってあるみたい。
あの鶏だって、身体を持つ必要があったの?」
しかし、おばあちゃんは落ち着いた声で答えます。
「でもねえまい、魂は、身体を持っているから色々なことが体験できるんです。
色々なことを経験しなければ、魂は成長できないんですよ」
おばあちゃんの考えの根底にあるのは、キリスト教的世界観・死生観でしょう。
しかし、このやりとりは、宗教にこだわらずとも重要なメッセージが込められています。
身体を持つ必要があるのか、というまいの問いはそのまま、苦しむ必要はあるのか、と言い替えることができます。
おばあちゃんの答えは、身体を持つことを肯定しており、苦しむ必要性を否定していません。
魂を成長させるのに必要な「色々なこと」に、悩みや苦しみも含まれているわけです。
悩みや苦しみなどのネガティブな刺激=要らないものではない、ということ、魂の成長に必要な経験であるということです。
すなわち、まいが中学校のクラスメイトとの関係に行き詰まったことを始めとした、悩みを抱えて苦しんでいる状態も肯定しているのではないでしょうか。
どんな人でも、生きていれば、悩んだり苦しんだりした経験があります。
でも、振り返って「今までの悩みや苦しみ全部なければよかった」と心から思う人は少ないはずです。
大人になった今はそう思います。
中学生のまいはまだそのことに気付いていなかったかもしれませんが、おばあちゃんとの対話を糧に、きっと悩みと成長の関係を理解できたと思いたいです。
まとめ
ドラマチックな演出も派手な展開も一切なく、素朴なやりとりが多い映画です。
でも、自然に囲まれたおばあちゃんの家をはじめとして、美しい映像と、落ち着いた会話に癒やされます。
大人が見ても感動できると思いますが、思春期の記憶が新しい若い人にこそ響く映画かなと思いました。
大人になりたての人たちに、少し辛いことがあったときなどに観てほしい映画です。