本と映画と時々語学

書評、映画評、時々語学学習や時事ネタなど書き綴りたいと思います。

映画『顔のないヒトラーたち』

《あらすじ》

戦争の記憶が薄れ始めた60年代の西ドイツ。正義感の強いフランクフルトの新人検事ヨハンは、交通違反など軽微な事件ばかりこなし、仕事に対する熱意を持て余す日々を送っていた。

ある日、アウシュヴィッツで勤務していた男が現在教職に就いていることが判明し、彼は上司からナチスの犯罪に加担していたその男を起訴する手続きをするよう言い渡される。

右も左も分からない中で証拠集めを始めたヨハンだったが、やがて彼が想像もしなかった悲惨な強制収容所の実態を紐解いていくことになる。

ナチス戦争犯罪を自国検察から糾弾した人物たちの実話を基にしたフィクション。

 

反省の歴史が始まる前のドイツ

ドイツに留学していた1年間にも、それ以外にも、ちょくちょく第二次大戦のドイツやナチスに関わる映画を観たり、調べ物をしたりしていました。でもこの映画を観て初めて知ったことが沢山ありました。

 

まず、フリッツ・バウアーを始めとした数人の司法関係者がこの裁判を始めるまでは、ドイツ国内でナチス戦争犯罪に係る反省意識はほとんどなかったということです。

現在のドイツで自国への愛を表立って国際的に表明することが許されるのは、ほぼサッカーW杯くらいだと言われてます。昔はそれですらハードルが高かった、という人もいました。

国際関係において勢力を拡大しようとすることや、差別主義と馴れ合うことも、極めて好ましくないこととする姿勢があります。EUに代表される調和指向の関係を最優先していますし、差別的発言を厭わないトランプ大統領に対しても就任早々、牽制球を放っています。

少なくとも大学の中では、国粋主義的あるいは差別主義的な発言をしようもんなら一瞬で教養のない人間と見なされる雰囲気がありました。

 

だから、映画の中で主人公の職場の人々(つまり司法関係者)がしていた発言や、市井の人々の戦争に対する向き合い方に耳を疑うことが何度もありました。

ナチスに加担した人間を訴えたら誰もいなくなっちまうよと笑っていたり、晩酌で酔うと自分が所属していた隊の歌を歌って盛り上がったりといった場面です。今だったら絶対にありえない。誇張されているかもだけど驚愕しました。

ややネタバレですが、ヨハンを指導した上司が"heute ist die Geschichte geschrieben."(今日歴史が刻まれたのだ)と言ったのが本当にその通りだと思いました。彼らの行動が、長い長い反省の歴史をドイツに始めさせたわけです。

 

封じ込められていた真実

もう1つ驚いたことは、強制収容所の実態は彼らが暴くまで当事者以外の人々にほとんど知られていなかったということです。

 今では歴史・世界史の教科書を開けば必ずアウシュヴィッツなどの強制収容所の様子やユダヤ人虐殺の実態に触れられています。

しかし主人公ヨハンは、強制収容所とはどんなところだったのか最初は全く知らない。彼の周りの教養ある人たちもアウシュヴィッツのことを知らない。ヨハンがアウシュヴィッツ現地を訪れる場面がありますが、そこは歴史を知るために世界中から大量の観光客が毎日訪れる今日のアウシュヴィッツではありません。ただ長閑な広い原野に収容施設と柵が残っているだけです。

 

盛大にネタバレします。

その後、強制収容所にいたユダヤ人の被害者を見つけて面談を取り付け、当時の様子を話してほしいとヨハンが頼む場面が来ます。同じ部屋に、速記係のベテランの女性もいて、インタビューの内容を記録するべく席についています。

ヨハンと向き合う初老のユダヤ人男性は収容所の様子を話してほしいと言われると、鬼気迫る顔で唇を引き結んだまま沈黙しますが、じっと彼を見つめ涙ぐみます。蘇った辛い記憶や感情を懸命に抑えようとしているのか、彼らの経験に目を向けようとする人物が現れたことによる動揺なのかはわかりません。その後すぐに部屋の中のシーンは途切れ、私たちは彼の告白を聞くことができないからです。

切り替わった画面では、速記係の女性が動揺を隠し切れないまま早足で部屋から出てきます。耐えかねたように目頭を押さえて涙を流し、後から出てきたヨハンが労わるように彼女の肩に手を置きます。

強制収容所の実態がいかに凄惨だったか、被害者たちの苦悩が如何に深かったかということ、そして戦後しばらく何も知ることなく過ごしてきたドイツ人の登場人物が受けたショックを象徴する場面です。

 

そもそも強制収容所の元勤務者が教職に就いていると気づいた男性シモンを通しても、被害者たちの苦しみは強く語られています。

辛い記憶を語ろうとしなかった彼が、ある場面で堰を切ったように号泣し、アウシュヴィッツで家族を殺されたことを告白した場面では、シモンと一緒にぼろ泣きしてしまいました。彼の家族を殺したのは、死の天使と呼ばれ、残虐な人体実験で何人もの収容者をむごい死に至らしめた医師ヨーゼフ・メンゲレです。

私はアウシュヴィッツに行って初めてメンゲレという人物を知り、その後何度か調べてみましたが、彼を取り上げた映画を観たのは初めてでした。メンゲレの所業の残酷さに驚かない人はいないと思います。そのメンゲレの被害者として、血の通った登場人物を提示されたことで、あらためてことの悲惨さを痛感させられました。

 

被害者たちの経験した苦しみと、辛い記憶に必死に蓋をしていたこと、告白することにも苦悶している様子が余すところなく描写されています。彼らの記憶と、同じ光景を見たことがなかった人たちが隔絶されていたことも詳しく描かれます。

沢山の被害者が何もなかったことにして生きていこうとしていたことに愕然としました。おそらく、思い出すことすら辛くてできなかった一方で、決して消えない凄惨な記憶に苛まれ続けていたはずです。

 

何が普通の人々を変えてしまったか

戦時中に残虐な行為に及んだはずの人物が良き隣人として暮らしている例も出てきます。こういう人物も沢山いたのでしょうか。

ナチスを題材にしたコンテンツにいつも手が伸びるようになったのは、おそらくこういう人が多数いただろうという考えからです。

ユダヤ人を殲滅しようと国家を指揮したヒトラーがとんでもない人物だったのは疑いないとしても、特定の民族を何百万人と殺すことは、1人でできることではありません。そのために1つの国の行政機構が動いていたのはもちろん、その組織外にいる普通の人々も数多協力したはずです。でもその人たちが皆平時にも人を傷つけたり殺したりすることに何の抵抗も覚えない人だったわけもなく、なぜ普通の人の間で、隣人が隣人を傷つけ合ってしまったのか、という疑問がいつも根底にあります。

自分自身が極限の状況に置かれたら容易にそうなるかもしれないと恐れる気持ちなのかもしれません。

 

重いメッセージや教訓を持った映画ですが、主人公バウアーと、彼と惹かれ合う女性マレーネとの関係が「人間は再生できる」と伝えてくるようにも見えます。

真実と向き合おうとする検事たちの真摯な姿勢やチームワークも印象的です。ドイツの暗い過去を掘り下げる内容でありながら、少なからず勇気づけられる映画でした。